日立造船 入社  昭和42年(1967)4月

 

本社  大阪 (現在は 南港)  四つ橋線 肥後橋

 

         松原 輿三松 会長 制定

 

会社は 海 陸 の2部門 で 輸出先行         野武士の精神で 世界に出てゆく

 

海は  新造船 修理船

 

陸は  鉄構、機械、プラント

 

工場は  桜島 神奈川 築港 堺 舞鶴 向島 因島

 

同期入社 115名 

 

 

アサヒビールの 銅製タンクを 納入していたので 被 招待

120円/本  原価17円(場内)と聞き  600本 空

 

 

 

因島工場   13名

 

 

当時  船台 3本 後 2本に拡幅、 ドック2本 後 3本に 増強

 

 

 

 同期 13名 

 

         中央 南 一技 工場長

 

前列 左端  野村 次郎(東大 船)     永く付き合うようになる

 

同  右端  大西 元一(新居浜高専 電)  今でも 交流している   最後 台北支店長

 

新造船部門は 横尾(九大 船)、中西(横浜国 船)と 小生の4名

 

稲富(熊本)は 新造船 造機部門  後 事務屋が4名、  青木(東北法)とは 終生交流  物故 

 

陸が 3名  (木村さん(12歳上 東工大原子力) とは 1976 最初の訪伯 同行)

 

 

 

南 一技 工場長 (みなみ)   この時 52歳  東大 船  (海軍 造船大尉 で 終戦)

 

    

 

 

私が造船屋の道をしっかりと 歩めたのは この 造船屋 南工場長の おかげだと 思っている

 

 

「技術者 全員 3年は 設計で 基礎を 勉強させろ」と命じられ  小生は 造船部 船殻設計配属

 

 

 野村次郎 も 係は別だが 船殻設計    横尾、中西は 船装設計(艤装)

 

 

 菱田 一郎(ひしだいちろう)   造船部長 東大・船   当時  設計、現場 統括  

 

菱田 造船部長は 後に 工場長になられ   ヨット 「ロマン号」 建造の 許可をされた

 

 

現在では 日本全国 色んな工場の造船屋は 設計経験 なし で 即 現場を 担当し、 大きな意味で 視野に欠ける

 

人が多いい ことを いつも 感じていた    数多くの 造船所 現場を 見た、   体験外国も 然り

 

 

設計で 計算 図面を  自分で描かなければ なぜ こうなのか の 意見が 薄弱   当時 鉛筆、タイガー計算機 

 

技術者としての リーダーシップに 説得力が 弱いものとなる 

 

この意味で 南工場長の 命令は 達観したもの で あった と この 造船屋人生で いつも思っていた

 

 

 

コンテナ船、 LNG船 の 資料 翻訳

 

入社後 すぐの 現場研修中に 南 工場長から 呼び出しがあり 以下の 本の 記事を 翻訳して 説明するように

 

指示があった

 

本 SHIPPING WORLD の 英文記事

 

野村 には LNG CARRIER      液化天然ガス 運搬船(マイナス270度)

 

小生 には CONTAINER CARRIER  コンテナ運搬船(8*8*40 feet)

 

何れの船も まだ 走っていなかった、 この時から 数年後 日本でも コンテナ船は建造されるようになり、 LNGは

開発競争が 全世界的に 起こった

 

二人とも 初めての LNG コンテナ ということであり 一語づつ 慎重に、 まわりの 先輩方などに 質問などをして

翻訳し 南 工場長に 説明した     評価は 記憶がないが      いずれの船も 57年後の現在 隆盛中

 

この 体験は そののちの 造船屋人生 で 大きなものになっていった

 

私は 因島工場の 主力船舶である 大型LPG船(10万㎥)(マイナス45度)の タンク設計 建造担当主任を務め、

 

LNG実験船(1000㎥)の 建造担当、 9%Ni 鋼 の施工要領など ガスキャリアー に 深く係わった

 

コンテナ船は 数多く 建造担当した   常石造船  中国(南通)などに 建造指導をした

 

 

今日 思うと 南 工場長の 慧眼に 敬服する

 

 

 当時の 因島 2,3号船台 

 

 

                    2024.03.26    pedra-oishi