「島育ちの 造船屋」

 

 

このブログの主題  私の 造船屋としての人生(2024. 80years old) は、島で育った ことが 起点である。

 

父、私 二人とも 島で 生まれ 育った 

 

 

父は 大崎下島・大浜で生まれ、 大崎上島・木江 で 育った

 

私は 大三島で生まれ、 大崎上島・木江 で 育った

 

 

木江  天満を 一貫目から見る

 

   (あとで 訪れる 天草 崎津(さきつ) に 風況が 似ている)

 

 

 

造船屋を つくる 大学 に行って 島育ち に 出会った

 

 

インドネシア からの 留学生

 

ハイルル・アズリル・タマン 君である   ( Mr.    Chaerul Azuril Taman )

 

 

 

彼の自己紹介は 「 スマトラ 島(しま) から 来ました」 だった。

 

スマトラが 世界で 6番目の 大きさの 島というのは 後で知った。

 

 

彼は インドネシア バンドン(今般 いわくの ジャカルターバンドン 間の 高速鉄

 

道開通) 工科大学の 土木科 を 卒業し、千葉大学で 一年間 日本語を 勉強して

 

広大・船舶 に 入学したのであった。  歳は 数年 上だった。

 

私も 島育ちと 自己紹介したが、 島の 大きさが 大きく違っていた。

 

でも お互い 島育ちということで 親しくなった。

 

 

兄が アルゼンチン大使だと聞き、エリートの家系かと 思ったが それ以上は不問。

 

スマトラでは 汽車を待つのに 「一週間じっと 待つことがある」と 言ったのは

 

印象的で よく覚えている。 

 

 

運動では 空手を 広島で学び インドネシアの 空手協会の 会長になった。 

 

広島の ある 学校経営者の 令嬢と結婚し 故国に 連れ帰った。 

 

ジャカルタ に 住んでいる。 

 

息子は 土木に進んだ と 後日 聞いた。

 

 

 

昭和38年、 入学早々 呉造船(その後 IHI, 現在 ユニバーサル造船・呉)で 

 

大型船 (6万DWT 載貨重量トン)の 原油 タンカーの 進水を 見学。

 

 

 

一緒に学び、  よく一緒に 遊んだ

 

彼の つくる チキンカレーは 辛かった

 

卒業論文も 一緒だった

 

新設の 200m 試験水槽の前

 

卒業

 

別れて 24年後 広島で 会った。

 

 

 

その後 数年して ハイルル君の 事業のうち シンガポールに近い バタム島 で

 

バージを 建造しており、 日立造船で 私の部下だった人(日本人)から 自宅へ

 

「ハイルルさんの 仕事をしています」という 電話があったりした。

 

彼からも 自宅に 電話が あって 近況を やり取り

 

 

私は インドネシア に よく 来い と言われたが、 行く チャンスは なかった。

 

 

 

彼が 3人目の 島育ち の 造船屋 

 

                   2024.03.20   pedra-oishi