教養部跡地 遠景 理学部

 

学んだことども

 

島の 高等学校を 丸坊主頭で卒業し 現役で 広島大学工学部船舶工学科に

昭和38年4月に入学し、学校の勉学以外で 学んだと記憶にのこることどもを、記憶をたどりながら、記す。 

 

ほとんどが 一心に 生活し 遊び 学んだことで 後に  役立つこと 大 であった。

 

上記 写真は 現在の 教養部あとの 公園である。

建物はない。 遠くに 理学部の被ばく建物として残したものがある。

 

まず   と 生活を しのぐ 術

 

 

同じクラス 27名 浪人20名 現役7名 私以外 全員 長髪 で

初めて 学生生協の 理髪室で 散髪、 大きな剃刀が怖かった。

 

同じ授業 で 机を並べる 人、 発酵工学科 数人 覚えている。

酒、みそ、パン などに行った。 

 

 

麻雀  役、点数を ノートに書いて覚えた。常時集まるのは 2卓 8人程度で、

現役は 私ともうひとりの 2人であった。

浪人してきた連中から 学んだ。 千点10円のレート、てんいち

 

就職した 日立造船は 松原 興三松(よそまつ) 会長以下 みな 好きな会社であった。  役立った。

 

子供の時の チンチンゴマ(ベーゴマ) の取り合いが面白く、夢中になって以来、の勝負事

 

金がないと 専用ノートに借金、 自宅通いのやつに 千円借りて 暮らす

 

水だけの日々 があったことを 思い出す。

 

部屋の借り賃は  畳一畳が 月 千円 の 時代。


家庭教師は 夕飯付き 5000円  週一 で くれ 助かった。

 

 

 

 

 

ヨット部 では   同期入部は 建築 が多く、政経、経営工学、化学工学

土木、水畜産、教育 などの 各学科の 人々で 総合大学の 面白さがあった。

 

皆 個性が 強く 切磋琢磨で 海に出た。 船舶からは 私以外に 浪人の新宅君がいた。 尾道の男。彼は 常石造船に就職し、後に 折々 会うようになる。

 

船舶工学科 出身の ヨット部は 少なく、一級上の 木川さん(後 名村造船 伊万里 設計部長)、 さらに上の 砂川さん (同 名村造船 電算)しか知らない。

 

後に 造船屋でありながら、ヨットを つくったような 人には 出会わなかった。

 

 

建築は 5人いた、皆 特色があった。 建築の連中と 親しくなった。

 

特に 三原東高出 建築の川本とは 同じ田舎地方ということもあり、馬が合った。のち 安藤建設 東京で活躍。

 

皆 金がないため いろんなことを 教えてくれ 学んだ。

 

広島は 被ばくから 18年 開発中であった。 特に 駅北は 掘り返し 生コンを入れて 基礎をつくっていた。一日 一輪車で 生コンを運ぶと 1300円、一番良かった。  川本指導

 

売血 200CC 千円であった。 元気な 川本は いつも 400CC 売血していた。

 

宇品の艇庫沖には 漁師の蛸漁の タコつぼが 入れてあった。 夜 暗くなって ディンギーで出て タコつぼを上げ 大きいのが一匹いると止め、 オールでたたき ぶら下げて 宇品海岸通りの 一杯飯屋の 裏口から入り 流しにその蛸を おいて、おばさんに 腹いっぱい、 飯と 天汁 を 2-3人で いただいて 艇庫に帰り、寝る。 翌日 艇庫から 学校へ。 生きる、友と語る、海のにおいをかぐ

 

試合で遠征に行くのにも 金がないので キセルか トラック

 

 

キセル

 

広島駅では 入場券で入り 夜行便にのり、 誰かが 券察を見張り トイレ     

 

当時 国鉄の 紙の切符は  角、M、V などの 形状のはさみで 時間単位で 切り刻んでいた。 正規の運賃で 出た 金のあるやつが 人数分の

入場券を 買って入り 剃刀で その時間の 形に切って 出る。

よくないこととはわかっていたが 遠征する金がなかった。

 

トラック 

 

百米道路 東側の 福山通運 のトラック ステーション に行き 夜行便の トラック 助手席同乗を 頼んで 乗せてもらい 関西方面まで 無料

福通さん 感謝

 

 

本格的な 船舶工学の 勉強の 三年生まで 生きることを学んだ教養部であった。

 

                 2024.03.13   pedra-oishi