己は いったい何者ぞ    という 私自身の ルーツを 記して、   

 

「島と海」 の 項を終えたい。  若い時には 誰しも おもうこと。

 

 

は 大崎下島 大浜の 酒造家 (中本酒造・明治八年創業)中本家 の 三男として出生、4歳の時に 既に 移り住んでいた(大浜から木江へ) 木江 大石家に養子として 出された。

 

大石家と 中本家は 同じルーツの 親類であった。夫々の 当主で 話し この養子を決めていた。   大石玉造 と 中本亀吉 、 大正9-10年ごろ、

 

高校時代に ルーツが知りたくて 下島・大浜に行き 大石家の 古い墓場を見た。

たくさんの 墓石があり、 文化、文政 (1800年代 初頭)などが 墓碑に 刻まれていた。 

 

玉造は 詳しくは わからないが 船の売買 をしていたようで、中古船を 改装し 別船主に売る 事業。 木江の立派な仏壇は 京都の品評会で 一等であったと 祖母に聞かされた記憶がある。

 

父は 木江の 造船学校を出て 大阪の 日立造船の前身 「大阪鉄工所」    桜島造船所  ( 今の USJ )の 造船 設計 で働く。

 

 

 

ちなみに 私が 生まれた時(昭和19年6月)の 桜島では 排水量 940トン の 海防艦 「大東(だいとう)」を 建造していた。

 

父19歳の時に 玉造が死んだ 木江での葬式香典帳には 亀吉は 巨額な香典を大石家に出したのを、見て、 亀吉の 男気 を 感じた。

 

私は 玉造は知らないが、亀吉は 覚えている。 小学校の 低学年時 父に連れていかれた 大浜の祭り時に 浜に面した 離れで 一人で 自炊していた 亀吉が

「ヤギの乳で炊いた 米の飯」を 食べさせてくれたのを覚えている。

 

中本 亀吉

大石 玉造

 

二人には 明治の 男の においが漂う。

 

 

 

母 は 大三島 小笠原家 の 次女として出生

 

後列 右端

 

大三島 南端の 宗方(むながた)の 見晴らしの良い 丘陵の上に 家があった。

代々続く 稲作、柑橘 の 農家で、祖父は 村会議長などを 永く勤め、勲五等を

拝受した。

 

大東亜戦争が 小笠原家の 人々を 苦闘させた。

 

長男 小笠原 智朗(ちろう)は 今治中学 から 志願 出征し、昭和19年

(1944)6月19日 インパール作戦で インド アッサム地方 チンガイ村で戦死

と 墓碑にある。

 

私は この 小笠原家で 昭和19年6月22日に 出生、 智朗戦死の3日後

 

小笠原 智朗

 

智朗の弟 (叔父) 小笠原 市男 は 兄が 陸軍で 中支、南方と 転戦しているのを 見聞し、 自分は 海軍で 国に奉公だと 今治中学から  江田島・

海軍兵学校 で 終戦。

 

人生やり直し、 松山高等学校から 東大・法学部 弁護士になり、東京で生を終えた。 

 

小笠原 市男

 

 

大石家、 中本家、 小笠原家 が 私の ルーツ。

 

いずれも この 芸予諸島の 島の 家 で ある。

 

                   2024.03.05   pedra-oishi