近所の 島の こどもたち  祭りの前 (昭和 28-29年ごろ)

 

 

戦後のものが不足する時代  みんな 明るく 育っていた

 

米・麦 混合飯、 ぞうすい、 ふかし芋、 3円の 色付き水 アイス

カリントウ (小麦粉に砂糖まぜの ねじり 揚げ菓子)は 5円

 

私は 18で 島を出るまで 床屋には いったことがなかった。

 

小学校の先生の言葉で よく覚えていること、

 

 寒い時の 天突き体操 

 

「ねぎは 朝鮮から 伝わった」

 

「基本的 人権」

 

 

先生方も 「戦争」時の 悲惨な 体験をして 戦後教育を しようというのが 随所で感じられた。

 

 

 

中学校 と 外輪船

 

 

町の人々の 勤労奉仕で 土地を 埋め立て 建てた 赤い屋根の 海沿いの 2階建て校舎

 

二階のヒノキ張りの みんなで 磨き上げた 廊下

 

校庭の練習用 カッター

 

ある日 下(しも)から 上(かみ)に上る 「外輪船」が 沖を通過した。

 

「なんだ あれは」 ずーっと 行き過ぎるまで 凝視を続けた記憶がある。

 

この体験は 船に興味を持ち始める 要因のひとつのもの であった。

 

 

 

校長のスローガン 「品位の高い中学生」  意味がわかるまで 随分時間を要した

 

校長の 修学旅行(京・奈良・大阪)時の注意: かばんは からだの前に 持って 人ごみの中を歩く

       

心に残る 校長であった。

 

別の教師の ことば   「 人には 知情意 (ちじょうい) の 峻別 (後日 小生が 追加理解)が 必要」

 

自己修練に 大いに 役立った ことばであった。

 

                                2024.02.28    pedra-oishi