昨日、こんな記事を書きました。
講演会は、その内容がとても有意義で、また先生のお人柄やしゃべり方も魅力的で、本当によい時間を過ごせました。

ほかにも、なるほどと思ったことがいくつかあるので、少しずつシェアしていきたいと思います。

まずは、タイトルにもした、「しつけと虐待の境目」について。

私はこれまで、「しつけ」について深く考えたことはありませんでした。子どもをしつけるという意識を持ったこともありません。私自身はというと、お箸の持ち方とか、くつを揃えて脱ぐとか、大きな音をたてて歩かない、などなど、一般的にイメージされるような「しつけ」はしっかりされてきた方だと思います。でもそれは、「お箸がちゃんと持てると食べやすい」「くつを揃えて脱ぐと空間が広くなる(7人家族だったので)」「話している人の邪魔をしない」というような、なんていうか、ポジティブな目的のためにするものだ、という意識でいました。私は、理屈がないと納得しないややこしい子どもだったので笑、周りの大人たちが、どうしてそれをするのかを言って聞かせてくれたのだと思います。「手間はかかるけど、納得すれば動く」と思っていたと聞かされたことがあります。

長くなりましたが、これが私のもっていた「しつけ」のイメージ。でも、先日の講演会では、「しつけ」、不快を快にする手助けであり、自己調整能力を育むためのもの、と教わりました。不快を快にするって、難しいことではなくて、抱っこしてあげるとか、おっぱいをあげるとか、つまり赤ちゃんのお世話は全部これですよね。

察しのよいみなさんはお気づきだと思いますが、「しつけ」がそういうものであるとすれば、虐待との境目などない。ということになります。

虐待は英語でabuse、つまり「乱用」です。何を乱用するのかといえば、私は、親の「欲求」の乱用なんだと思います。子どもに暴力を加えることで、親が満足を得ること、これが虐待ですよね。親の満足とは、「子どもの行動をコントロールできた」という達成感や有能感です。これは親が得るもののためにわけです。

「しつけ」は、子どもが自分で快の状態に回復できるようにするための手助けですから、
虐待としつけは、まったく異質なものである。
したがって、接点など存在するわけがなく、
つまりは境目などない。ということでした。

私は、「行き過ぎたしつけ」が「虐待」になるようなイメージをぼんやりもっていたことに気づかされました。そこはグラデーションの世界で、「どこまでがしつけ」で「どこからが虐待」という線引きがしにくいもの、というような。

でもそうではないんですね。
「しつけ」は子どものためのもの、
「虐待」は親(養育者、というべきですかね)のためのもの。
だから、両者に接点などあり得ないのですね。
私には、すごく腑に落ちる話でした。そして「しつけ」の定義が明確になったことで、自分の行為を客観視できるようになると思いました。

さて、ではどうして、「しつけ」と「虐待」が一直線上にあるように思われているか、については、性悪説をもとにしたキリスト教的世界観が日本に流入してきたことと深くかかわっているのですが、これは広く知られている話でもあると思うので、また機会があれば。

このあたりとか、

このあたりから、
紐解くことができますね。時々話題になるので、ご存じの方も多いかもしれません。

また時間があれば、備忘まで続きを書きたいと思います。