私は、祖父母と祖父の妹、両親と弟という7人家族で育った。

祖父がなくなるまで、この7人家族が私の家族というユニットの最小単位だった。


母は一人娘、父は婿養子なので、祖父母は母の実母。

自宅における「嫁姑問題」とは無縁だったが、母と祖母の間には横たわるいろいろな問題があった。


父の実家に行くときは、母が異様に緊張しているのが私にも伝わり、私も緊張した。

母と姑は教育方針が徹底的に合わない2人だった。

(大姑=私の曾祖母とは話が合っていたようだ。なぜか)

たとえば、廊下に置いてある新聞を2才になる私が踏んだとする。

姑は、「新聞を踏むなんて親のしつけがなってない」と怒る人であり、

母は、「子どもに踏まれて困るものを廊下に置いておく方が悪い」と考える人だ。

私は母に育てられたので、当然、後者の考えに賛成だ。


両親ともに地元で小中学校は一緒、母は生徒会などをやっていたこともあり、父は母を昔から知っていたようだ。

南アルプスの天然水のCMさながらの土地に生まれ育った2人(私も)ではあるが、母は街中の商売家、父は大きな農家の長男で、結婚に際してはいろいろとたいへんな事もあったと聞く。


母は一人っ子だったこともあり「自分が両親の面倒をみなければならない」と思い込んで育った、と話す。

誰にも頼まれなかったのに、そうしなければならないと強く思い込み、結果、大きな夢を見ることも地元を出ることもなかったと。

なんだか、ばかみたいだった、と。


だから私は「あなたの人生はあなたのものだから、強く、自由に、生きたいように生きればいい」と、何度も聞かされて育った。


私はバカ正直なまでにそれを具現化し、結果、大学進学とともに家を出て今に至る。


祖父が事業に失敗し、一家が路頭に迷ったこともあったが、そんな状況でも

「やりたいことを見つけて、自由に生きていいのだ」という思いは変わらなかった。

これは、本当に母のおかげだと思う。


自分の学びたいことを4年間学びきり、働いてみたいと思っていた企業に就職した。

就職した会社では営業をしていた。

OJTはとても厳しい人で、まだ若かったこともあり、気合十分で私を鍛えた。

きっと、鍛えれば伸びると見込んでくれたのだろうし、このときに徹底的に身に付けられた仕事のいろはは、今でも本当に役立っている。

でも、私には厳しすぎた。


就職して2年目、会社に行けなくなったことがあった。


営業先に行くための、駅の改札がどうしてもどうしても通れないのだ。

体が動かない。

混乱のうちに会社に電話し、女性の営業の先輩がうまいこととりはからってくれ、その日は自宅に帰った。

その後も何度も体が動かなくなり、のちに私は会社を休職することになった。


OJTの先輩が厳しいことや、厳しいながらも頑張っていることなど、母には手紙や電話で普段から伝えていた。

頑張っている私を誇りに思ってくれていることも、十分知っていた。

私は家族の誇りである、という強い自覚を持っていた。

だから、会社を休んでしまったことが悔しくて情けなくて、でもどうしようもなくて、八方塞だった。


会社を休むことになってしまったことを母に伝えたとき、彼女はこう言った。

「私もお父さんも弟も、みんなあなたの味方だから。あなたができないって言うんだから、それはよっぽどなんでしょう。休んでいるあなたは悪くない。体が無理していると言ってるんだから気にしないでいくらでも休めばいい。それでも無理して働けという会社なら、さっさとやめて、家に帰ってくればいいだけのことさ」


きっと、母も父も弟も、一緒に住んでいたおばちゃん(祖父の妹)も、私のことをすごく心配してくれていたと思う。

だからといって、心配だから帰ってきなさいとも言わず、泣き言言わずに頑張れとも言わず、

誰がどう言おうと、家族はあなたの味方だと言ってもらって、私は救われた。


休職していた半年あまりのことは、実はほとんど記憶がない。

その厳しかったOJTと私については、課内中が気にかけてくれていて、どうにかしなくてはと思っていた矢先だったと、復職してから聞いた。


私は、「家族とは、何があっても味方でいられる人のこと」だと思っている。

だから血がつながっていても、味方でいられなかったら家族とは呼べないし、

たとえ血がつながっていても、味方でいられるのであればそれは家族である。


みなさんにとって「家族」とは、どんな存在ですか?