カバー?コピー? | がらくた通り3丁目

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人にとってはまるで無価値。それも一個人の形成には不可欠。自我の源泉をたどる旅。おつきあい頂けたら幸いです。





写真最上段向かって右は2004年製のジミー・ペイジのコピーモデル。ネック裏を見ると退色を確認できます。ペグ交換の跡までコピーされています。



一曲が数十分に及ぶプログレがいいのか?
それとも3分にまとめられた
ポップソングがいいのか?

どっちがいいかと聞かれて
答えられないことが多々ある。
答えられないというか困る質問かな?
これはきっと質問が良くないのだ。

なぜなら良質のものであれば
どっちもいいから。

その時の気分や自分の置かれている状況で
変化するものだし
答えて1分後には
違う気持ちになっている時もある。
答えようがない質問だ。
だから質問が良くないということだ。

これに似た質問で
カバーがいいのか?それともコピーがいいのか?
というものがある。

これも同じだ。質問が良くない。
これだって
良質のものであればどっちもいいし
100人いれば100通りの環境と
それに沿った考え方があるはずだ。

所詮他人の曲だ。
それを聴いてどう表現したいかなんて
表現者側の勝手だ。
やりたいようにやって
表現者が満足できればいいだけのこと。

やる側も聴く側もこっちがいいのだと
強制したりされたりするのはおかしい。

前置きが長くなったが
僕は心底愛するミュージシャンだったら
完全コピーを目指す。
そして曲は好きなんだけど
ミュージシャンとしての
思い入れがないものに関しては
カバーという方法をとる。

最近Youtubeの僕のコピー動画に
海外の方からコメントいただけて
とても嬉しいのだが
とても気になることもある。
果たしてコメントにみあう
プレイできてるんだろうか?

バンドでもこの曲やりたいな?
なんて思って聴き返すと
適当に弾いてる箇所が気になるのだ。
つまり自分の耳コピ精度の低さが
あとから聴くと気になる。

もちろんそれを撮る時は
その時点での精一杯なんだけど
数ヶ月後に聴くと
あれ?ここのこの弾き方違うじゃん!
って気がつく。
きっと耳コピ力が進化しているのだろう。

そんな箇所見つけると
コメントくださった方に申し訳なくなるのは
自意識過剰なんだとはわかってはいても
やっぱり恥ずかしくなる。

きっと聴いてる側はそんな細かいこと
気にもしていないのだ。
でも自分にとってはそこが凄く気になる。

なぜなら
コピーしきれていない箇所こそが
現時点での自分にない
センスだったりするわけだから
ここを攻略しない限り
自分は停滞したまんまだというわけだ。

そうなのだ僕のコピーは
聴き手が満足していようがいまいが
ほぼ関係ない。
まったくの自己満足の世界。
僕の目標はどんな曲を弾いても
好きなギタリスト風になること。

そしてそれを
カバーや自分のオリジナルで
発揮したいのだ。

コピーとカバーとオリジナル
この三本柱があって
ほぼ100%自分の好きな音楽に
囲まれるというわけだ。