5月11日終了

横浜開港資料館、館蔵コレクション展示

「根岸競馬場と建築家J.H.モーガン」を

鑑賞してきました。

 

簡単に言えば、元D会会員の根岸ナオ江家は

盗んだお金で家を建てたり、競馬に使ったのでしょう。

 

あるいは、D会金子一族ら会員たちと

映画「ドリームホース」のように

皆で馬主になってお金を儲けようとしたということ

ではないのですか???

 

とんでもないことですよ。

 

モーガン⇒牛が私がガンにかかると嘘を吹聴。

 

また、根岸ナオ江さんの母のように子ずれで

年寄りと再婚すると決めつけ、嘘を吹聴。

 

D会辞めたからって、罪をつぐなったことには

なりませんよ!!!

 

お金をきっちり、返してもらいます。利息つけて。

 

 

 

 

 

 

 

⇒牛が私がガンになると嘘をついた。

あるいは、こんな年の差だと嘘をついた。

日本にいる外国人では、ありませんよ!!!

 

「根岸競馬番組 春季初日 1870年」

シルク印刷。1870年5月26日開催の春期初日の競馬番組。

はじめは春・秋季とも2日間の開催でしたが、1869年から

3日間開催、1897年から4日間開催に。

春季は、4月~5月、秋季は、10月~11月開催。

 

 

左の画像 「建設中の根岸競馬場の前に立つたまの(玉野)」

石井たまの氏は、モーガンの伴侶であり、仕事のパートナーであった。

英語に堪能であった石井たまのは、日本語を話せないモーガンの

仕事を支え、根岸競馬場見所の建設現場にもモーガンに帯同して

いたことがわかります。

 

 

2-1. 建築家J.H.モーガン

モーガンは、アメリカの建築施工会社フラー社の主任建築士として

東京・丸ノ内ビルヂィング建設のため1920年に来日。2年後に

フラー社を退職。日本郵船ビル内に建築事務所を立ち上げた。

1926年に震災からの復興を目指す横浜に拠点を移し、1937年に

亡くなるまで横浜の外国人社会のなかで活躍した。

 

2. 根岸競馬場見所の建設と建築家 J.H.モーガン

1899年に居留地が撤廃され、外国人は日本国内を自由に旅行・

居住・商業活動することができるようになった。それでも

横浜には、多くの外国人が住み、根岸競馬場も盛況であった。

しかし、1923年9月1日に発生した関東大震災で横浜は甚大な

被害を受け、横浜の外国人社会も大きな打撃を受けます。

根岸競馬場の馬見所も半壊した。それに代わる新馬見所の

建設を依頼されたのが建築家ジェイ・H・モーガンであった。

 

 

 

 

左の画像

「パスポート」1920年1月14日発行

アメリカを代表する施工会社フラー社の技師であったモーガンは、

大正9(1920)年に来日。パスポートの滞在期間は、2年と申請されて

おり、仕事が終われば帰国する予定であったが、その後も日本に

残ったのです。

 

私のパスポート?

 

私は、太ったり痩せたりしていますが、

整形なんてしていませんよ!!!

 

 

歯も治していないので、曲がったままです。

 

 

中央画像 

モーガンとたまの夫人

 

⇒私が話ししているたまちゃん

SEIKOの元同期の中島玲子(玉木)のたまちゃん

夫の父親が私の父と同期日商岩井

同じく元同期の茂原浩子(田村)のたまちゃん

故父親が清水建設であり、愛甲猛元選手と

子供たちに野球を教えていたのも事実。

 

パリ日本人学校、パリインターナショナルスクール高校

同級生の玉村晶子(高橋)の夫のたまちゃん

 

彼らが存在せず、このたまのさんだと嘘をついた

ということでしょう。

 

実在しない想像上の人を造り出すなんてしませんよ!!!

 

 

「建設中の丸ノ内ビルヂィング建設の写真」

1920年頃

 

中央が丸ノ内ビルヂィング、右が日本郵船ビルヂィングの

建設現場。打ち終えた基礎杭が見えます。主に、

モーガンは内装を担当し、施工図や仕様書を作成して

いました。彼は、丸ノ内ビルヂィングの完成を待たずに、

フラー建築会社を退職し、独立します。

 

「モーガン設計建築事務所の封筒」

ユニオン・ビルヂィング内事務所時代に使用された封筒。

関東大震災後に山下町51番地Bの露亜銀行横浜支店

(現存)内に事務所を構えたモーガンは、1928年に、

同75番地にあり、自身が設計したユニオン・ビルヂィングに

事務所を移しました。

 

クリスのことを「Who(誰)?」と言った人達。

 

ですから、パリインターナショナルスクール高校1年

クラスA5の同級生ですよ!!!

子役で俳優していましたが、その後は俳優をしていません。

私は、クリスの出演作品を見たことは、ありませんよ!!!

知ってたら、昔のクリスの画像出しますけど、

トップ・シークレットだったのです。

 

実在するに決まってるでしょ。

 

「名刺」

 

フラー建築会社

ジェー・エッチ・モーガン

 

私のSEIKO名刺

あるいは、慶應義塾大学法学部

高田晴仁先生、田上雅徳先生の名刺は、

働いていたからもらったのですけど。

 

そんな嘘ついたりしません!!!

 

 

2-2 根岸競馬所見所の建設

 

 

根岸競馬場長のアイザックスは、モーガンに対して、新スタンドは

耐震性を持ち、格調高い仕様で、コース全体を見渡せること、

という条件を出した。モーガンは、屋根に重量をかけない構造で

建築内部の支柱を減らすことでお観覧席からコースを見渡せる

新スタンドを提案し、アイザックスの要望に応えた。

1929(昭和4)年5月19日に鉄骨鉄筋コンクリート製の

スタンド建設に着手、翌年には二等馬見所が竣工した。

 

 

 

「根岸競馬場のアルバム」1930年頃

 

 

表紙「ALBUM OF NEW GRAND STAND OF NIPPON

RACE CLUB」、建築家J.H.モーガン、建設 大倉土木株式会社。

完成したばかりの根岸競馬場一等・二等馬見所の外観・内観

及び付属施設を撮影した写真29点が収められています。

アルバム写真の全点を当館のデジタルアーカイブで

公開中。

 

クリスの写真は、パリインターナショナルスクール高校の

イヤーブックの写真ですが、当時のイヤーブック作成委員会の

先輩ギリシャ人のニックがクリスが若く見えるので、

いじわるで、クリスの妹のクラスA4に写真だけ入れ込んだのです。

 

それも事実。

 

それが白黒写真

 

 

 

「貴賓室格天井平面及断面」1830年4月22日

 

一等馬見所の貴賓室は、石井たまの氏寄贈の写真から見ても

分かるように豪華な家具や荘厳な仕様となっており、天井には

一対の鳳凰の絵が施されていました。建築図面には、貴賓室の

格天井の設計図や鳳凰の下図があります。現在、一等馬見所の

貴賓室は1996年に取り壊されています。

 

 

⇒画家ではありませんよ!!!

 

私にどうして確認しないのですか???

 

こんな長い間!!!

 

 

 

「根岸競馬場一等馬見所 正面図」

 

 

一等馬見所は、地上7階、延べ面積約7,700平方メートル、

観覧席4,500席のほか貴賓室、委員室、食堂、騎手室

ラウンジ、休憩室、事務室などを備えていました。

一等馬見所は、1929年5月に着工、同年11月に竣工

鉄骨鉄筋コンクリート造で、一等の建築面積は

築面積597.633坪、延べ床面積2,559.397坪。

 

「根岸競馬場二等馬見所 北側立面図」

 

二等馬見所は、1988年老朽化により解体されて

いますが、モーガンの建築図面によって建設

当時の姿を甦らせることができます。

 

 

 

 

「ホテル・ニューグランド増建築計画図(立面図)」

1933年7月14日

 

関東大震災では、グランド・ホテルやオリエンタルホテルといった

横浜を代表するホテルが倒壊。横浜市長の有吉忠一は、震災で

離れた外国人を横浜に招致するための復興建築として、

横浜を代表するホテルの再建を決定し、1927年に渡辺仁の

設計によってホテル・ニューグランドが建てられました。

その後、1933年に屋上階の設計がモーガンに依頼されました。

モーガンによる増築計画には実施案のほかに2種類の案が

残されています。

 

⇒映画「巡り会えたら(Sleepless in Seatle)」で

建築士の役を演じているトム・ハンクスさん

 

建築士ではありませんよ!!!

 

渡辺仁⇒俳優の渡辺謙さん?

映画「ラストサムライ」ですよね???

話が伝わったのは事実。

 

私の母の姉、大磯渡辺家

 

 

 

 

新聞記事切抜「麦酒樽揃ひキロクラブ」

1933年1月15日「東京日日新聞付録」

 

写真帖には、「100キロクラブ」と呼ばれる会が、結成された

ことを報じる新聞記事が貼られています。

1933年に自身が屋上の設計に関わったホテル・ニューグランドで

横浜に居住する外国人のうち体重が100キロの人、数人が

集まります。記事では、建築技師のモルガン氏と紹介されています。

会は、月に一度か二度集まり互いの肥満を祝福するというものでした。

横浜の外国人社会で、モーガンは仕事、プライベートと充実した

生活を送っていたことがうかがえます。

 

クリスは、太っていませんよ。

 

映画「ザ・ホエール」も無関係ですよ!!!

メッセージはありましたが。

 

 

 

 

⇒鎌倉にも人力車がありますね。

浅草も。

 

クリスは、日本にはきませんよ!!!

 

これほど、誹謗中傷、罵詈雑言

受けたのですから。

何もしていないのに!!!

 

私がサンフランシスコに住むのです。

 

そもそも私が日本に住みたかったら

クリスに連絡しませんよ!!!

そんなことさえ分かりませんか???

 

「アメリカ領事館」

 

 

横浜開校以来、横浜が海外との玄関口であり、居留地が

設けられたことから、各国の領事館が置かれます。

開港当初、幕府と対立していたアメリカ・イギリスなどは

領事館を神奈川に置き、アメリカ領事館は本覚寺に

置かれていました。その後、開港地が横浜となると、

居留地内に領事館が建てられます。

 

⇒サンフランシスコにあるのは、日本国総領事館

 

 

 

領事館が完成する少し前に、在横浜アメリカ領事が当館の中庭に

ある「たまくすの木」をこの敷地内に移植したい、と横浜市に

願い出るらしいという記事が「横浜貿易新報」

1932年1月13日号に載りました。

「たまくすの木」とペリー提督の横浜上陸の関係を

考えると、アメリカの領事館にあることが相応しいと

考えたのかもしれません。もし、移植されるとなれば、

この庭園のどこに配置するのが相応しいのか、とモーガンは

考えたのかもしれません。

 

パリインターナショナルスクール高校2年からの

同級生 ペリーではありませんよ!!!

下の画像 しゃがんでいるのがペリー

 

無理矢理こじつけたのでしょう。

 

だいたい、ペリーがアメリカのどこ出身かも

知りませんし、聞きもしなかったのです。

 

ペリーが橋渡し役。

 

「アメリカ領事館庭園図面」

 

モーガンは、領事官の建物だけでなく、庭園にも細かく

図面を残しています。建物入口には、おそらくタイルで

形作った「USA」(United States of Americaアメリカ

合衆国)があり、建物後方の芝生(LAWN)には

花で星形を作った花壇があり、アメリカを意識した

庭になっています。

 

⇒タイル 家族でスペイン旅行?で買ったタイルに

アーメッドと書かれているからって、パリインターナショナル

スクール高校2年からのイラン人同級生 

アーメッドだと思ったのでしょ???

違いますよ。彼の恋愛対象は、女性ではありませんよ!!!

 

LAWN⇒ローンって。私誰にもお金貸していません!!!

窃盗です。

 

 

 

 

戦後、何年経ったのですか???

 

まだ、アメリカ人を敵だと良く言えますね???

 

元D会会員根岸ナオ江さんの父親はフィリピン沖で

戦死していすけど。

 

今の人達は、戦争さえ知らないのに!!!

 

どこまで、バカなのでしょう???

 

それと私の結婚を一緒にしてもらったら

たまりませんよ!!!

 

部外者が口出すこと自体がおかしいでしょ???

 

それだけ、口出したら、その責任は取らなければ

ならないのです。

 

分かります???

 

 

写真「根岸競馬場に設けられたアメリカ軍の印刷所」

 

 

1945年8月15日の敗戦により、根岸競馬場は、旧海軍から

アメリカ第8軍の管理下に置かれることに。

旧海軍の管理下の際に機密文書印刷所として文寿堂が厩舎などの

付属設置を使用していました。敗戦後も文寿堂が、今度は、

進駐軍の印刷業務を引き受け、写真のように、アメリカ人と

日本人が共同で作業を行っていたことがわかります。

 

⇒普通は、協力するものです。

 

 

 

一等・二等馬見所は、1981年に接収解除され、国から横浜市に

払い下げられます。日本建築学会は、「貴重な歴史的文化遺産」と

して市に保存を申請。しかし、二等馬見所の劣化が激しく、1988年に

取り壊されます。1996年には、経済産業省が根岸森林公園「旧

横濱競馬所及び一等馬見所」を「近代産業遺産」に設定。2025年

横浜市が歴史的建造物に「旧根岸競馬場一等馬見所」を認定

今後、保存、公開に向けて整備されるとのこと。

 

 

「ゴルフ場になった根岸競馬場」

 

 

コースは、進駐軍によってゴルフ場に転用され、アメリカ軍による

接収は、1969年まで続き、接収解除後に敷地の一部は、日本

中央競馬会に払い下げられ「根岸競馬記念公苑」として

現在にいたります。他は横浜市の「根岸森林公園」として

市民に開放されました。

 

 

「トバエ・スポール」

 

副題には「秋の競馬場」(Courses d'Automne)と記載され

ビゴーは、根岸競馬場の厩舎・馬見所・コース・審判台を

背景に当時、横浜外国人居留地で活躍した人物風刺画を描きました。

それぞれの人物を特定することは難しいのですが、旧蔵者の

ポール・C・ブルーム氏によって、欄外にその人物の名前が

鉛筆で書かれています。

 

馬や!午年 丙午

 

 

 

左下 保証します。これは、良い馬です。

フランス人ワイン商。

アド・カン

 

⇒ショウ(見世物)ではありませんよ!!!

 

大事件。

 

 

 

 

 

「本当の話」ですよ。

 

 

 

中国馬 上海 レース

長い航海のせいで馬たちは痩せているが

餌を与えれば回復する。

 

 

⇒レースではありませんよ!!!

 

 

大もうけした人達。ロンドンへ。

 

クリスは、日本にきませんよ。

 

 

 

 

 

「フランス人」

 

違います。

 

 

 

「アメリカ美女」

 

クリスは、普通の男性です。

 

いい加減にしてください!!!

 

 

 

「ロシア人」

 

違います。

 

 

 

 

モーガン設計建築事務所所員 大須賀矢薙(おおすがやなぎ)

 

D会安部一族酒井家の長女 須賀直子(なおちゃん)が

ドラマ「凪のおいとま」と言った?

違いますよ。

あんな話ではありませんよ!!!

 

 

 

 

 

 

競馬関係写真

 

馬見所

競馬の様子

馬見所前にて

 

 

 

タウネンド氏が所有する馬レース

 

 

 

香港上海銀行員であったE.W.タウネンドは、サンフランシスコを出発し、

ハワイ経由で、横浜に到着。香港上海銀行は、イギリス系銀行で

1866年に横濱に進出、居留地62番に支店を構えます。

モーガンは、1932年にこの香港上海銀行横浜支店の設計を

担当。タウネンド一家は山手89番Bに居住し、アルバムには

根岸競馬場の写真が多く収められています。

 

こんなおじいさんと一緒にされたのですか???

 

とんでもない発想。

 

 

 

在横浜スイス領事でリンダウ商会を営んでいたルドルフ・リンダウは、

彼の著書「自由地区と港の周りに扇方に広がる丘の間には広い平野が

広がり、そこには大枚を投じて綺麗な競馬場が造られた。

競馬場が横濱では社会生活の必需品の一つであったに違いない。

外国人社会全体を沸き立たせる祭りが開催される。」と。

 

現代の、というか、日本の競馬と海外の競馬はまるっきり

イメージが異なるのですよね。

 

藤が丘女子学生会館で一緒だった高埜素子(斉木)さんの

夫の父が馬主だったのも事実。

 

海外だとセレブの集まる場所ですが…

 

パリインターナショナルスクール高校

同級生のノルウェー人女子のマリアンヌが

馬主だというのも事実。

同じくノルウェー人男性のマリウスも

馬もっていたような???

 

 

 

映画「沈黙のジェラシー」も無関係ですよ!!!

 

でも、嫉妬で沈黙している人達がいるのは事実。

 

沈黙しても無駄ですよ。

 

見られているのですから。

 

 

⇒料理人も無関係ですよ!!!

 

ただし、SEIKOの元同期榎本昌代(猪谷いがちゃん)の

前の夫はフランス料理のシェフでした。

 

 

 

 

歴史に刻まれる生麦事件が起こったのが、下の場所だそうです。

 

参考元

 

 

当時というか、昔は、サムライが人を切りつけるなんて

当然という時代でしたからね。

 

悲しく悲惨な事件です。

 

 

このリチャードソンとNYのラッセル家のリチャードと

混同して、この人ってことに勝手になった???

 

とにかく、NYにも、知り合いがいたのも事実。

いなかったと思っていたのですよね???

 

やってられませんよ。

馬鹿馬鹿しい!!!

 

 

右の写真が「生麦事件の現場」

 

左の写真が「鎌倉事件の現場」

 

鎌倉事件とは、

 

参考元

 

 

 

それで、ジョージ・ウォルター・ボールドウィンという名前、

ロバート・ニコラス・バートという名前こじつけたのでしょう。

 

 

 

1-1 開港都市横浜を訪れた外国人

 

開港当初、外国人居留地に住む外国人は少数であった。

日本という新天地を訪れた彼らは、居留地や「外国人

遊歩区域」内で乗馬を楽しんだ。乗馬は彼らにとって

運動や娯楽、大事な息抜きであり、馬を所有することに

強い憧れがあった。彼らが馬で遊歩区域を出歩く

ようになるなか、1862年9月14日に生麦事件が起きた。

 

1.横浜と競馬場の歴史

 

1859年7月1日(旧暦:安政6年6月2日)に横浜が

開港し、外国人居留地が設けられる。幕府は西洋人が

行動できる範囲は居留地から十里四方(約40キロメートル)の

「外国人遊歩区域」内に限られるとした。西洋人は遊歩区域内に

おいて、運動や娯楽として乗馬・競馬を楽しんだ。

しかしながら、西洋人が乗馬を楽しむ一方で、文化や

習慣の違いから日本人との間でトラブルも起きていた。

その中で西洋人は、居留地内の仮の競馬場にて

競馬大会を開催するが、恒久的な競馬場の設置を求めた

結果、1866年に根岸の丘に競馬場が建設された。

 

元D会会員根岸ナオ江さんがアニメ「エースをねらえ」

岡ひろみの話と一緒にされて、宗方仁???

松岡修造さん?

 

意味不明ですよ。

 

 

居留外国人が残した写真アルバム

 

J.C.フレイザーは、1862年頃に横濱に来て、68年頃まで

妻子と暮らしていました。写真アルバムには家族の他に

上海や横濱で知り合った友人たちとの名札判の肖像写真

85枚が収められており、フレイザーが横浜・上海で

幅広く人脈を築いていたことを示しています。なかには

1862年の生麦事件時に横浜にいた外国人たちの肖像写真が

あり、横浜外国人居留地の最初期の人物たちの姿を

知ることができます。

 

こういう時代の古い写真だと言い張った

お馬鹿さんたち。

 

 

 

1-2. 競馬場を求める外国人

 

 

1860年9月1日に山手の麓(元町)で初めて競馬大会が開催された。

その後、1861年に横浜新田を埋め立て地に競馬場が設置されたことで

1862年5月1日、2日に競馬大会が開催された。R・リンダウは、

当時を回顧して、「春・秋には外国人社会全体を沸き立たせる

祭りが催される」と記した。しかし、同年9月に生麦事件が

起きると、以後、競馬大会は開催されることがなくなった。

居留民たちは、恒久的な競馬場の設置を求めるようになった。

 

 

「山手駐屯地と競馬」

1864年、居留民保護のために、イギリス軍第20連隊が上海から

派遣されると、同じく、フランスも横浜に軍を派遣し、山手に

駐屯します。当館所蔵の「イギリス横浜駐屯軍幕末写真帳」には

横浜山手の駐屯地にて馬に乗る兵士たちの写真が収められています。

 

上記左写真「イギリス駐屯軍兵士と馬①」

 

写真帳は、1886年第20連隊と交替のために香港から横浜に

移駐してきたイギリス第9連隊第2大隊に所属した士官が

遺したもの。多くの兵士たちが中国の気候で疲弊しており、

妻子同伴で横浜を訪れました。兵舎前で撮影された写真の

馬上の女性は、指揮官夫人で、日本人も移っています。

 

 

「ギャリソン競馬の開催」

 

1865年2月23日駐屯地のイギリス軍が主催して競馬大会

(ギャリソン競馬)が開催されます。開催地は、現在の

中区諏訪町の一帯で、窪地となっていた調練所。

この競馬大会には居留民たちも参加することができ、

駐屯地の軍人たちによって競馬が再び活発化します。

 

上記右写真「イギリス駐屯軍兵士と馬②」

 

馬にに乗る士官らしき人物と馬の側に立つ兵士。馬の側には

洋犬が2匹。移駐に伴い、香港から犬たちも連れてきたのかも

しれません。

 

上記左下画像「射撃場」

 

「ザ・ファー・イースト」

 

1865年4月、幕府によって射撃場が、現在の中区

大和町商店街からJR山手駅に至る付近に作られました。

調練場と併せて射撃場でも競馬大会が開催され、

1866年6月19日、20日の競馬大会は居留民主催に

よって行われていました。

 

上記右下画像「イギリス軍駐屯地の調練場」

 

駐屯軍は、居留民との親睦を図るために競馬以外にも

演劇やクリケットなどのスポーツ大会を開催

こうした駐屯軍の活動によって、居留民たちは

生麦事件以来、途絶えていた競馬大会を再び

開催することができました。

 

 

 

 

 

1-3 根岸での洋式競馬場の建設と競馬

 

幕府は、競馬場を根岸に建てることに決定。

幕府が建設の費用を出し、1866年6月~7月頃からコースと

馬見所が造られ、11月には完成。同年7月4日には

居留民による運営組織として横浜競馬場委員会が発足。

12月29日に幕府と各国公使との間で「横浜居留地

改造及競馬場墓地等約書」が調印され、翌1867年

1月12日根岸競馬場にて最初の競馬大会が開催された。

 

 

「新遊歩道の不動坂より根岸湾を望む」

 

台地の上にある根岸は、遠くに富士山を望む風光明媚な

場所として知られていました。根岸湾はペリー艦隊によって、

「ミシシッピ湾」と名付けられ、外国人に親しまれた。

競馬場建設に併せて、居留地から競馬場までの道も

整備される。居留外国人たちは、競馬大会が開かれると

居留地から遊歩道を通って競馬場へと向かいました。

 

 

 

「G.ウィットフィールド」の絵

 

1866年に上海から横浜に来たウィットフィールドは、

土木建築事務所を開設し、居留地69番で横浜鉄工所を

経営。1867年に発生した慶応の大火によって、焼失した

税関の復興や現在「象の鼻」と呼ばれる波止場の延長工事を

担当。彼は1890年に日本を離れました。

 

 

 

 

 

 

 

フランス人ではありませんよ!!!

 

 

イギリス人でもありませんよ!!!

 

 

 

 

 

 

 

とにかく、私の話をきちんと読まず、無視し続けたことが

何より大問題、この悲惨な結果になった所以です。

 

私の結婚の話なのですから!!!

 

パリインターナショナルスクール高校1年の同級生

クリス(クリストファー)のことは、A5クラスメイト以外

ほとんど知らないですよ。

 

子役以降、俳優やめているのですから。