6月29日まで開催中、横浜海外移住館JICA

「サンノゼ・ジャパンタウン」(無料)を

鑑賞してきました。

 

その前に、次のような展示がありました。

ボツワナ

 

 

日本から約13,500km 離れたアフリカ南部にある

陸に囲まれた自然豊かな国、ボツワナ共和国

 

世界最大級のダイヤモンドの産出国です。

 

面積:567,000kml (日本の約1.5倍)

外務省HP

人口:約267万人(2023年)

世界銀行オープンデータ

横浜市人口 約377万人

 

首都:ハボローネ(Gagorone)

 

ボツワナでは雨があまり降らず、乾燥している砂漠

気候です。

そのため、ボツワナの人々は「水」をとても大切に

しています。

あいさつ、お金ともに「水、雨」を表わす「Pula」と

言います。

 

 

 

ボツワナはとても自然豊か。

アフリカ大陸の中でも特に多くの野生動物が生息している

場所のひとつがチェベ国立公園です。

 

 

遠く離れたボツワナには、どんな伝統的なものや

食べものがあるんだろう?

 

ボツワナバスケット

ボツワナの伝統的な民芸品。モコルワネヤシの若葉を

草木染めしたもので編み込みます。

 

模様は、動物や植物などを表わしています。

 

 

ボツワナ共和国の首都ハボローネにあるベン・テマ小学校の

元気な自動の様子を見てみよう。

 

ボツワナのベン・テマ小学校では、児童画展にて

茅ヶ崎小学校の子供達が描いた絵を見ている写真も。

 

そして、日本に送る絵を皆で描き、展示されていました。

 

私が個人的に驚いたのは、ボツワナにも

動物園があることです。

 

私のイメージとしては、国立公園の中にジープか

何かで自然に中にいる動物たちを見学すると思っていたからです。

 

 

 

上記は、ボツワナの国立公園で、象が草を食べている様子を

描いています。

 

都築・ボツワナ交流児童画展

 

2008年横浜で開催された第4回アフリカ開発会議(TICAD IV)を

きっかけに、2014年から横浜市立茅ヶ崎小学校(都筑区)と

ボツワナ共和国の首都ハボローネにあるベン・テマ小学校の

3年生が自分たちの生活の様子を描いた絵を送り合う

文化交流をしています。

 

⇒パリ日本人学校の同級生 都築信之君(早稲田大学

→三菱UFJ銀行)

 

世界銀行に勤めているのは、パリ日本人学校の

同級生 坂本達の友人 慶長寿彰さん(八戸出身)

2人は、アジア青年の船に乗船し、出会ったのです。

坂本達より年上です。

参考元

 

 

慶長さんは、坂本達が世界一周し、寄ったブータンに

興味を持ち、ブータンで仕事までした方です。

 

詳しく言うと、坂本達がブータンで出会った

女子、ソナムに会うためだったのすが…

こちら↓ ソナム

 

私が初めて坂本達に会った同窓会

 

 

私は、似てますか?ソナムに?

坂本達とは、2人で会ったことは一度もありませんよ!!!

この時も、坂本達は独身でした。

 

後日、ブログに記載しますが、ユーラシア文化会館では、

7月6日まで「モンゴルの遊牧文化」を紹介しています。

 

モンゴルの民族衣装も試着体験できます。

何だか引きつってしまいました。

 

普通は、学校で友達を作ったり、外国人と

交流したりさせるのが、普通じゃないですか???

 

子供の頃から、外国人と接していれば

「戦争」なんて言葉出しませんよ。

 

なぜ、私は、クリスと連絡を取ることも

会うこともできなくさせられたのですか???

 

他の人達も含めて。

 

異常です。

 

話を戻します。

 

横浜海外移住館JICA「サンノゼ・ジャパンタウン」

 

受け継がれる移民の想いと心

 

 

 

 

参考元

https://www.jica.go.jp/domestic/jomm/sjp04dom0580/__icsFiles/afieldfile/2025/03/12/dyori63_4_1.pdf

 

アメリカでジャパンタウンと呼ばれている町が、

第二次世界大戦以前にはカリフォルニア州だけで

46ありました。

 

現在はロサンゼルス、サンフランシスコ、サンノゼの3市に

残るのみとなっています。

 

その中でも、移民文化の面影や遺産が一番強く

感じられる町がサンノゼです。

そのサンノゼ・ジャパンタウンの歴史を辿り、

そこで生活する日系人や様々な団体・店舗の活動から

移民が残した文化遺産がどのようなかたちで受け継がれ、

今日に至っているかを、様々な文書や写真資料、

インタビュー証言などで紹介します。

 

新聞記事

 

 

 

参考元

https://www.jica.go.jp/domestic/jomm/event/__icsFiles/afieldfile/2024/12/25/sanjose_chirashi.pdf

 

 

カルフォルニア州のサンノゼですね。

 

下の画像、これは、SEIKOの元取引先のバルセロナの

時計会社通称インテルサの社長が

ホセ・アントニオ・カダルソ。

 

だからって

無理矢理こじつけたのですよ。サンノゼに。

 

 

馬鹿馬鹿しい。

 

あるいは、アニメ「あしたのジョー」の

ホセ???

 

なぜ、私が3回も結婚するなんて決めつけるのですか?

 

おかしいでしょ???

 

サンノゼではなく、クリスが住んでいたのは、

サンフランシスコですよ。白人です。

今は、留守ですが。

 

パリインターナショナルスクール高校1年の同級生の

漆間あやのおばさんがサンフランシスコに

お店を持っていたのも事実。

 

クリスがサンフランシスコに帰国した年の夏、

あやは、おばさんのいるサンフランシスコに滞在

クリスの家まで行ったり、電話をかけたりしたのですが、

クリスとは会っていません。

 

あやは、芸能人に興味があったのです。

 

あやは、パリインターナショナル高校2年の

最初1ヶ月くらいいたのですが、その後

知らない間に転校していたのです。

 

それで、一度Facebookで繋がり、私たちの

高校から英国立教に転校し、日本に帰国

明治大学へ進み、日本人と結婚、サンフランシスコに

移住したと知ったのです。

 

おそらく、そのおばさんは、移民だったので

しょうね???

 

でも、お店はもう閉店したようです。

 

それで、誰かが、今度は、サンノゼの日系人って

言い出したってことですよね???

 

意味が分かりません。

 

日系人たちが、サンノゼでも日本の文化を

大切にし、子孫やアメリカの人々に伝えているとは、

素晴らしいことです。

 

それが今回の展示会です。

 

カルフォルニア州をはじめ北米各地にあった多くの

日本町が失われていくなか、サンノゼ日本町は、

居住者やスモールビジネスを担う人々の協力と繋がりに

よって、再建されています。

 

今日に至るまでのサンノゼ日本町の足跡からは、

コミュニティーの結束の強さと、日本町の歴史や

文化を守り続ける人々の想いが伝わってきます。

 

サンノゼ出身のノーマン・ヨシオ・ミネタ氏は、

アジア系アメリカ人として初めて主要都市の市長を

務め、その後は、下院議員、初のアジア系閣僚として

活躍。ミネタ氏が戦時中の強制収容の経験をふまえ、

差別や偏見を乗り越えようと力を尽くしたエピソードは

常設展示のインタビュー映像でご覧いただけます。

 

 サンノゼ日本町の歴史を辿るとともに、世代を

超えて継承されてきた日系のアイデンティティと

その町で活躍する人々の暮らしに触れながら

ごゆっくりお楽しみください。

 

 

サンノゼ(San Jose)市について

 

サンノゼは、アメリカ合衆国カルフォルニア州

サンタクララ郡の郡都でサンフランシスコ湾

ベイエリアにある主要都市のひとつです。

Apple,Google,Facebook, intel, hp 等

名だたるハイテク企業の集積地、シリコンバレーの

ゆるやかな丘陵地帯に囲まれており、

サンフランシスコとは直線距離で約30km。

日本町(Japantown)は、ノーマン・Y・ミネタ・

サンノゼ国際空港、サンノゼ・シティ・ホール

(市庁舎)に隣接した市街地の中心部にあります。

 

ヨシヒロ・ウチダ

 

1920年、カルフォルニア州カレクシコ生まれ、

ガーデン・グローブに育ちました。

両親に勧められて10歳から柔道を習い、

ついには、黒帯を取得。アメリカにおける

柔道のレジェンドとして知られています。

サンノゼ州立大学で200人以上の学生を

指導し、柔道をオリンピック出場レベルまで

育てあげています。

 

1964年の東京オリンピックではアメリカ合衆国最初の

オリンピック柔道コーチを務め、サンノゼ州立大学からは

黒帯18人のオリンピック柔道選手を輩出し、うち4人は

メダリストとなっています。

 

サンノゼ州立大学での柔道コーチの活動は70年に

渡って続けられ、アメリカ柔道連盟や企業大学

柔道協会の会長も務めています。

 

ウチダは、第2次世界大戦時、アメリカ陸軍に

従軍し、臨床検査技師として働き、戦後は偏見などから

臨床検査技師として働けないことが分かると

医療検査所を開設。

最終的には、40箇所にまで拡大させ、成功を収めています。

 

こうした功績をウチダは、「日本人に対する差別が私を

より強くし、日系人のために私は立ち上がったのです。」

 

サンノゼ日本町の活性化にも強い関心を持っていた

ウチダは、サンノゼ日本町コミュニティ協議会の

メンバーとしても様々な資金調達や交流活動にかかわり

医療検査所の成功を基に日本村文化センター設立を

立てましたが、実現せず、代りに商業施設と住宅を

組み合わせた複合施設「ミライドウ・ビレッジ(Miraido

Village)を建設し、日本町の振興に尽くしています。

また、柔道を通して築いた弟子たちとの交流から

始めた「忘年会」は、現在ではサンノゼ日本町

コミュニティ協議会の伝統行事として引き継がれています。

 

 

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

1931年11月サンノゼ日本町の第五番街に誕生。

5歳から日本人メゾジスト教会に熱心に通うなど、日本人

コミュニティの中で育ちますが、戦時中は、10歳から

13歳まで、ワイオミング州のハートマウンテン収容所での

生活を経験。

収容所からの開放後はサンノゼに戻り、中学・高校と

再び日本町で多くの二世時代とともに青春時代を過ごす。

カルフォルニア大学バークレー校に進み1953年経営学過程を

卒業。この年にアメリカ陸軍に入隊し、日本と韓国でも

情報将校を務めます。除隊後は、父の経営するミネタ

保険会社に勤め、1967年にサンノゼ市議会議員に初当選。

 

1971年には、サンノゼ市長に立候補し、当選。

日系人として、またアジア系アメリカ人としても

初めて主要都市の市長となります。

 

1974年アメリカ本土、日系人では、初めて下院議員に

当選。1995年まで20年にわたって下院議員を務め、

戦時中の日系人の強制収容に対するアメリカ合衆国

政府による公式謝罪と賠償を規定した1988年の市民の

自由法の成立に尽力。

 

2000年から2001年まで民主党のビル・クリントン政権で

アジア系アメリカ人初の閣僚となる商務長官を、

続く共和党のジョージ・W・ブッシュ政権でも

2001年から2006年まで運輸長官を務めています。

 

2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件発生時に

運輸長官であったミネタは、国内を飛んでいた

民間航空機4,639機を2時間20分で全て緊急着陸させています。

飛行再開に当たって、アラブ系やイスラム経徒であるという理由で

空港において乗機を拒否される事例が確認されたことを受け、

国内の閣航空会社へ、人種・肌の色・国籍・民族・宗教・

乗客の氏名・衣服の特徴をもとに、特定の乗客を差別の

対象としないよう、通達を出しています。多くの政治家や

ジャーナリストが人種による検査を主張する中で、日系人の

強制収容を、身をもって体験したミネタはこれを拒否。

それまで航空会社の自主判断に任されていた空港での

安全検査をアメリカ連邦航空保安局に統合し、

全乗客を対象に検査を強化することで対応しています。

 

ミネタは2022年5月3日に90歳でその一生を終えますが、

5月6日にバイデン大統領(当時)は、ワシントンの

運輸省の建物をノーマン・ミネタの名を冠するものと

する法案に署名。「ミネタ氏は、自分の愛するこの国が

自由、平等、万人の正義という約束を守ることが

できるようにしたいと決意し、その理想に近づける

ために品位と威厳を持って働いた。」とその一生を

振り返りました。

 

2006年12月文民へ贈られる最高位の勲章である

大統領自由勲章を受章しています。

 

 

西浦新三郎・源太郞兄弟

 

サンノゼ日本町に今も残り、コミュニティの名所となっている

建物のほとんどは、戦前に大工として活躍した奈良県出身の

西浦新三郎・源太郞兄弟によるものです。古くから住む

一世の中には、元々の日本町の8割の建物は西浦兄弟が

立てたという人もいます。

 

1905年にハワイで船大工として働いていた弟の源太郞は、

アメリカ本土に移る計画を立て、兄の新三郎に合流するようにと

手紙を書きました。翌1906年、新三郎は神戸から海を渡り、

サンフランシスコに到着。

 

西浦兄弟は、最初、カルフォルニアのマウンテンビューで

花を栽培していました。そこで自前の温室を作ると、その

出来栄えが地元の人達の注目を浴び、サンノゼ日本町の

リーダーたちにその優れた腕前が買われ、1910年に病院

建設の依頼を受けています。こうして建てられたのが

日本病院、通称桑原病院(現在の一世メモリアル)です。

壮大な二階建て医療施設は、日本人コミュニティのために

建てられたものです。

 

1930年代中頃、彼らの最大のプロジェクトとなる

サンノゼ仏教会別院本堂の建物に取り組み、

1937年に完成したこの本堂は現在、サンノゼ日本町を

代表するランドマークとなっています。

 

 

日本町の形成は、マイノリティ(少数派)としての

日本人移民が移住先のホスト社会(受け入れ側の

多数派の人々による社会)への適応過程において

日本的な文化生活を営むための基礎を維持すると

同時に、困難や課題を乗り越える上で欠かせない

ものでした。ある人達にとっては、そこは唯一の

生活場所であり、別の人達にとっては息抜きの

場所であり、またホスト社会へと飛び出す出発点

でした。いずれにせよ、到着したばかりの移民に

とっては有り難く、そこにいるかぎりは安心でき、

何でも揃う場所だったのです。

 

その萌芽期(ほうがき)には、飲食店・旅館・

商店などが中心でしたが、ついで和菓子店、鮮魚店や

豆腐店、クリーニング店や理髪店などが出来たのです。

 

商店の中には、「桂庵」と呼ばれた職業斡旋所を

兼ねているところも多くありました。

 

しかし、時が過ぎ世代交代が進むと、その需要は

大きく変化、店舗や組織の中には淘汰されて

いくものも出てきたのです。一世がはじめた店舗の

多くは、三世までは引き継がれても、四世以降まで

続くケースは極めて稀です。日系人の高学歴化と

日系コミュニティの縮小化が、そこに拍車を

かけたのです。こうした現状に鑑み、コミュニティとして

の存続意義に向けて、どうのような豊作が可能なのか

各地の日本町で取り組みが進められています。

 

日本町の中には、サンフランシスコの和菓子店、

勉強堂(1906~2022)やロサンゼルスの和菓子店、

三河屋(1910~2021)、ポートランドの食品雑貨店、

安全商会(1905~2014)などのように100年以上の

歴史を持つ店舗がいくつかありました。

和菓子店や食品雑貨店が多く、現在もロサンゼルスの

風月堂やシアトルの宇和島屋のように営業を続けている

店舗があります。食の果たす役割が大きく反映されている

と同時に、家族やコミュニティに対する想いがその支えと

なっています。

 

 

日本人の移民のはじまり

1860年、カルフォルニア州サンタクララ郡に最初の

アジア系である中国人移民23人が到着。

1890年には、中国人2,723人となり、中華街を形成

し、この年、初めて日本人移民27人がサンタクララ渓谷

の畑や果樹園の出稼ぎ労働者として到着。

そのほとんどが青年。1902年になると、日本人の

定住者と季節労働者によって、中華街に隣接した

第五街とジャクソン街の角に小さな日本町が

作れたのです。

 

 

サンノゼ日本町の歴史

 

サンタクララ渓谷地帯日本人戦後強制

収容所からの帰還者

戦前3,773人~1946年7,8月6,250人

最初に帰還したのは、ジミーヤマモト一家

サンノゼ市良好な気候農園 100家族が

ジャクソン街交差点に集中

53軒(戦前)が戦後40軒閉業

 

J.B ペッカム 

 

日本町「後見人」弁護士が手を差し伸べる。

アジア系移民に対しカルフォルニア州

外国人土地法のもと、土地所有、その土地を

自分の名義で預かりアメリカ生まれの二世が

成人すると返却するという手続きを惜しまず

行った。帰還後土地や物件を取り戻した。

 

戦時中、小倉屋商店、店舗で営業した。

クック交易所 ジャクソン街唯一開業

 

James Benjamin Pecham

Caretaker of Japan town

 

1939年 日米住所録 日本人会 顧問弁護士

 

ペッカム アンド ペッカム事務所

サンノゼ

 

 

仏教会とメゾシスト教会340人ほど収容

一時滞在施設 ホステル(帰還者)

仏教会 日本語学校だった。

 

小倉商店建物 強制立ち退き

借用に関する賃貸借用書

1942年3月26日

 

小倉耕平賃主とクック交易所

OMHayes ハイエス借主の間で

かわされたもの

 

J.B. Peckman 仲介者

借料

月額 10ドル 前払い

再び日本人がサンノゼに戻ることが

できるまで

 

サンノゼ ウェスレー合同

メゾシスト教会

一世メモリアル サンノゼ太鼓

サンノゼ日本町コミュニティ協議会

ミネタハウス

 

ロータスプレスクール

サンノゼ豆腐店

友愛会 サンノゼ日系アメリカ博物館

五番街

 

サンノゼ仏教会別院 ニッケイ、トラディションズ

 

友愛会では、囲碁

 

 

会場には、1992年アルベールビルオリンピック

女子シングル金メダリスト。1991年、1992年

世界フィギュアスケート選手権チャンピオン

プロスケーターのクリスティ・ヤマグチさんの

ブロマイドも。

 

参考元

 

 

大相撲 サンノゼ場所の様子。

小錦関(当時)

 

サンノゼ市 小倉商店

 

⇒故小倉智昭さんが笑点だと

言ったのですか?

 

集栄堂和菓子店

 

資生堂 ケーズ

⇒資生堂に勤めていたパリ日本人学校の

同級生 長尾弥生(片貝)さん

父、フジテレビ

 

大谷大工請負

 

サクラ建築会社

 

山藤=峯田保険事務所

 

⇒峰竜太さん?

 

山藤商店

 

ターム・メリー簡易食堂

パークウェー マーケット

 

ローイ 自動車修理所

給油所

 

コカコーラの自動販売機

 

日米物産商会 1902年、龍野正二郎により

創設

 

⇒三井物産に父親が務めていた

ウラ(森澤久美子・三浦)の父

 

1906年サンフランシスコ地震

1910年日本町中心地 土地を購入

1913年6月完成

 

1955年 メソジスト創立者 

ジョン・ウェスレー

 

ホームレス救済

 

新移住者(戦後移住)

 

サンノゼ仏教会別院

1898年 浄土真宗本願寺派

 

西本願寺 サンフランシスコ

 

開教師派遣

 

1899年 北米初 仏教会誕生

 

1937年 寺院完成 京都平等院モデル

 

西浦新三郎、源太郞兄弟が手がけ

戦時中 ペッカムによって保管

 

北條恵寶(輪香)

徳永京四郎 武田智憲 

 

1900年 桑田岩吉

中村能吉、沖田福一

仏教の基礎

 

仏教静会 会長中島秀樹

副会長 川波政一

幹事 上田鉄雄

 

玉田ヘンリー 会計玉田M

藤川 T 相談役

古屋

 

樋口春之助、初代理事長

 

サンノゼ 太鼓

開教師 ヒロシ・アビコ

 

三世 ロイ・ヒラバヤシ

ディーン・ミヤスク

 

キンナラ 太鼓

 

バンクーバー 「語り太鼓」

 

サンノゼ 太鼓の精神

「態度」「型」「音楽技術」「気」の

4つの基礎要素

 

調和や規律を重んじ自分や他の演奏者

楽器、歴史、観客 関係するあらゆるもの

への敬意と礼儀を身に着けることが

目標 

 

「EiJA Naika(ええじゃないか)」

 

藤本容子(鼓童名誉団員)

⇒母の2度目のガンの時の担当医

藤元博行先生が元ですよね。

そこから、D会長田賢一医師へ。

 

佐渡及國鬼太鼓座

 

お盆のお祭りの様子も流れていました。

 

そうですよ、何がいけないのでしょうか?

 

それに、日系人ではなく、白人です。クリスは。

 

日系なのは、クリスの妹の夫ジェイムズですよ。

 

ペッカムさんの戦争中、土地を二世が

成人になったら、返却したという話には、

本当に感動しました。

 

 

ジェイムズら日系人たちの気持ち

「なぜ、日本は冷たい国になったのか?」

 

何がいけないのでしょう???

 

ユネスコ 人権

 

⇒そうです。2007年から現在に至るまで

閉経するまで飼い殺し。

卵子凍結もなし。

 

著しい人権の侵害です。

人間の尊厳をも軽んじた行為。

 

許されませんよ。

 

私は、クリスとサンフランシスコに住み、

子供達がほしいです。