横浜開港資料館「ペリー横浜来航170周年記念ミニ展示・パート4 」
ペリー艦隊の測量とモーリー大尉の日記を鑑賞してきました。
【会期】2024(令和6)年11月22日(金)~2025(令和7)年2月20日(木)
【会場】横浜開港資料館新館2階 ミニ展示コーナー
何度もお話していますが、パリインターナショナルスクール高校2年からの
ペリーは、その名前で、橋渡し役となったのですよ。
ペリーは、クリスを知らなかったのですから。
ペリーではありませんよ!!!
こちら↓ペリーね。

画像A

参考元
参考元 画像Aと同じ
ペリー艦隊の測量とモーリー大尉の日記
最大9隻、2000人のペリー艦隊
ウィリアム・ルイス・モーリー測量士官のおかげで
2度目の来航時、横浜まで船を進め、幕府との交渉がスムーズ、
有利にすすめられたという。
展示には、ウィリアムの肖像画のロケット
そのロケットの裏には、遺髪
日記3冊、ペリーからの書簡。
ウィリアム・ルイス・モーリーは、
1829年海軍入隊し、1838年~1842年
太平洋の陸地調査 測量
ウィルクス探検隊に参加
ペリー艦隊の日本遠征では、雇い運送船
カプリース号(ラッセル紹介所有)の
艦長となり、石油や物資をペリー艦隊に
届けています。
その後、ミシシッピ号に乗船し
測量隊を指揮したという。
⇒NYのラッセルを紹介したってこと?
実は、パリインターナショナルスクール高校
2年からの同級生のギリシャ人女子のヴィッキーと
ラッセル家のアンは、同じフォーダム大学卒
なのです。
調べれば、ヴィッキーは、分かってたでしょう。
ペリー提督からの書簡
マカオ発 1853年4月27日
ウィリアム・L・モーリー文書
4月27日モーリー大尉
カプリース号館長任命
マカオ積み込めるだけ石炭を
沖縄にいる艦隊のもとに
届けるようにペリー提督から
指示され、その後、上海に向かうよう
記されています。
ペリー艦隊、石炭、とても重要
到着が遅れていたカプリース号が
5月30日入港した際に提督は
船とモーリー大尉のことを
気に掛けていた。
S.W. ウィリアムズ・ペリー提督
日本遠征隊日誌より。
モーリー大尉日記
その日の天候、気圧計、温度計の
数字を記して終わるのが定例
数行の日もあれば、数頁に
わたる日もある。
1854年2月16日
朝10時30分
測量隊は、6隻の短艇で出発し、
湾西側の測量に出掛け岸辺から
1マイル(2.4km)のところまで
近づいた。人々は、岸辺から上陸
するよう身振りで招いていたけれど
命令が出ていて上陸できなかった。
日記は3冊 これにロケットが
ついていた。
ロケット⇒NYからの斉木篤史君
ペリー艦隊が中国の広東に到着してから
始まりペリー提督がアメリカ、NYに
戻るまで。
1巻 1853年7月~1854年2月18日
2巻 1854年2月19日~1854年10月1日
3巻 1854年10月2日~1855年1月9日
この日(モーリーの日記2月16日)、
小柴の鼻に寄せて落書きをした
異人がいたと日本側に記録が残っている。
モーリー大尉が乗る短艇ではなかった。
一歩間違えれば衝突もありえる測量という
作業の中、見物する日本側も初めて見る
外国人に興味を持ったのか。
当時の人達は、おそらく、鳥の羽に
インクを付けて、ノートに記しているためか
字が細いのですよね。
貴重なものを見ることが出来ました。
よろしかったら、訪れて見てください!
日記⇒私の日記を見れば分かったでしょう。
クリスのパリの高級住宅地ヌイーの家に行ったのです。
こちら↓クリスの家に行った日。
クリスが高校1年が終わってサンフランシスコに帰国寸前。
高校3年の最後、クリスからクラスメイトのシャーロックに
電話があったのですよ。
それで、クリスの兄が俳優で名前がアンソニーだと
きいたのです。
その時のメモがこちら↓
シャーロックは、クリスからの伝言をきちんと
伝えなかったのです。
下の画像、赤いTシャツがシャーロック
白いTシャツは、ペリー
イジワルよ。
奇遇ですが、別の日、シャーロックからクリスの兄の
名前を聞いたのもこの写真を撮影した場所だったのです。
それとは、別に、同じフロアーにあった
横浜貿易新聞(後の神奈川新聞)
その記事の中に、日本銀行 株主
銀貨問題 米国 ジョン・ボート氏著
小塚貞義君 経済雑誌社
⇒銀貨のペンダント⇒映画「エクソシスト」
無関係ですよ!!!
⇒日本銀行に勤めるのは、D会山口信二君
NYのラッセルの長男 ジョンではありませんよ!!!
横浜生糸 役員と社員 連絡帳
明治6年(1873年)
横浜生糸改会社連名
社長 三越徳右衛門
店支配人 深井太七
井筒屋 小野善三郎
後見 齋藤藤助
⇒井筒監督
亀屋 原善三郎
野沢屋 茂木惣兵衛
⇒野沢直子さん
郡内屋 上原四郎〇ェ門
小松屋 金子平兵衛
⇒D会金子一族は、このような
仕事をしていません。
妻の妙子さんが中卒アイヌ民族と
言うことを今だに隠しています。
五中屋 五十嵐萬七
海屋 細井久次郎
川喜多屋 川喜多定兵衛
⇒川喜多長政、かしこ夫妻 負債
鎌倉の川喜多映画記念館
【企画展】「映画字幕翻訳の仕事 ──1秒4文字の魔術」
1月19日~3月30日まで。
⇒映画の翻訳の仕事という話に
勝手に変わって行ったのです。
それから、NY出身河北麻友子さん
小林屋 小林彦助
境町 星野屋 星野宗七
⇒星野源さん?
米澤屋 高橋万右ェ門
⇒山形D会齋藤幸範会長ら金子一族他
家号 冨屋 堀越源七
⇒冨が目的でしょう。
外村〇平
橋本屋 小暮弥兵之
⇒D会橋本さん、パリ日本人学校
同級生橋本展明君、ご近所の橋本さん
橋本徹元大阪知事
支配人 岡島定七
⇒中央大学後輩の岡島
野球の岡島元選手
永楽屋 楽千代八郎
⇒中国ドラマ「エイラク
瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜」の
記事を書きましたが、それが何か?
橋本屋 橋本辨蔵
大里屋 榎本六助
樋〇治郎兵衛
野澤屋 中里忠兵衛
⇒D会中里さん
副社長 吉村屋
⇒父の元部下の吉村さん
吉村大阪知事
吉田幸兵衛
鈴木屋 鈴木保兵衛
⇒鈴木や!多数
芝屋 千塚清五郎
⇒司馬や!
葉山小・中学生同級生千塚平八郎
糸屋 田中平八支配人
久保田喜兵衛
⇒D会安部一族久保田理加
ドラマ「りか」ストーカーの話
恐怖。
とんでもない想像。
「蜘蛛の糸」ですよ。芥川龍之介
石炭屋 渡邉福三郎
肥前屋 西村七兵衛
田邉屋 伏島近蔵
⇒東伏見台に住んでいるから
宮家と勘違いしたのですよね。
あるいは、京都の伏見
きちんと訂正しているではないですか。
杉村屋 杉村甚三郎
支配人 竹岡善七
常盤屋 福島瀬平
行田屋 行田小兵衛
⇒行ではありません!!!
虐待して、お金盗んで
何が行ですか?
閉経するまで飼い殺し
卵子凍結もなし。
こんな人権の侵害ありませんよ!!!
人間の尊厳をも無視した行為。
それなのに、皆笑ってた。
信じられません!!!
支配人 福島僖三郎
⇒SEIKO元同期の福島和枝(澤)ちゃん
その祖父が中央大学の学長だったという。
夫が中央大学卒の検事
上澤屋 澁澤〇三郎
小橋屋 岡本傳右ェ門
平越屋 渡邉逸八郎
京屋 田部井芳兵衛
⇒登山家の田部井さん
貿易商(明石屋)
⇒SEIKOの明石先輩、
慶應義塾大学法学部元教授
明石欣司先生
明石家さんまさん
石炭屋 海産物問屋
Nozawaya Silk store
私の嶋津の祖父について
薩摩藩の嶋津家(島津)は、すごい大きい家族なのですよ。
それで、分家なんてね。
廃藩置県になったのですから大変ですよ。
警察をしていた私の祖父の父親が
嶋津家の文献など貴重なものを
九州の親戚から寄贈すると言われて
送ってしまったのです。
九州から山梨に行ったのです。
私の祖父が横浜にあった
矢部生糸の役員をしていたからと
映画「ああ野麦峠」と
一緒にさせられたのですよね?
時期も違いますし、
祖父は、あの生糸の工場の社長さん
たちとは違いますよ。
サラリーマンでしたから。
女工さんたちは、大変な労働環境で
何人もの方が亡くなったことは
知っていますが、
それは、こじつけと逆恨みです。
私の祖父は、14歳くらいで、
山梨から出て、横浜の医者の内科小児科
横尾医院へ書生として勤め、
ドイツ語を習った。
何が何だか分からなかったと。
身につきませんでしたが。
その後、大正10年(1921年)暮れに
矢部商店(後の矢部生糸)に就職。
月小遣い1円だったという。
大正12年関東大震災を経験
土蔵作りの家も崩れたと。
昭和10年に私の祖母と結婚
給料50円
昭和16年第二次世界大戦始まり
軍需会社へ。パラシュート工場
空襲が激しくなり、山梨へ家族疎開
焼け野原
昭和20年8月15日に終戦
昭和24年 矢部商店
昭和30年6月 矢部生糸K・Kを設立
という感じでしたから。
下の画像、私の祖父の「あゆみ」より
祖父の姉が九州にいたことも
記載されています。

映画「ああ 野麦峠」は、明治から大正に
かけての話です。
完全にこじつけですよ。
ひどいったらないですね。
皆さんの偏見と思い込みが
これだけの悲劇を生み出したのですよ。
責任を感じませんか?
罪悪感とかないのですか?
何度も言いますが、薩摩藩の島津家(嶋津)
の恩恵は、何もなかったですよ。
まあ、母たちが、嶋津という名だった
おかげで、少しは、後から得したの
かもしれませんけどね。
嶋津家(島津)だということは、忘れず。
DNA鑑定もしています。
私は、クリスとの子供を諦めません!!!
閉経するまで飼い殺し、卵子凍結もなしですが。
子供が3人生まれて、その子供達が
元気に成長するまで、許されませんよ。
私が、日本に住むことはありません!!!
クリスが日本に来ることはありませんよ!!!
分かりましたか?
どれだけ、残酷で、冷たい仕打ちをしたか
理解できませんか?
話は、変わります。
先日、テレビ「なんでも鑑定団」で西郷隆盛の子孫である
諫山尚子さんが出演していました。
5匹の保護猫の面倒を見ている諫山(いさまや)さん。
実は高祖父は西郷隆盛で、隆盛の2番目の妻・愛加那(あいかな)との間に
生まれた菊次郎の子孫とのこと。
お宝は3年前、亡くなった母の箪笥を整理していた際に発見したもの。
初めは母の靴下の下にいれてあったので、大切なものではないのかもと思った
そうですが、お宝の裏を見ると、ある人物の署名があり、詳しい経歴すら
わかっていない人物の写真であることが判明。
下の画像で西郷隆盛の一番下の息子の酉三(ゆうぞう)さんの写真が
発見されたのです。

参考元
西郷隆盛は、薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。
諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と名を改めています。
西郷隆盛が生涯で結婚した3人の妻(伊集院須賀・愛加那・岩山糸)がいたとのこと。

参考元
ただし、愛加那さんとは、西郷が徳之島・沖永良部島に遠流た時のことで、
当時は、島妻で、本島には、連れてくることができず、離婚したそうです。
鹿児島の西郷隆盛像のモデルになった西郷隆治さんは、
長男菊次郎の次男、拓殖大学で、一時期ブラジルで
柔道を教えていたことがあるとか。

参考元
隆治という名前、私の父と同じ名前です。
びっくりですね。
この西郷隆盛の子孫である諫山さんと
私たち家族がNYで一緒だったいさやま家とは、
無関係だと思いますよ???
さすがに、母も嶋津と話していましたから。
名前だけでも、これだけ繋がると
恐ろしいですよね。