こんな記事があったので、引用されて
いただきます。
参考元
日本の海難史上初の大規模な外国船の海難事故の話を聞いて
とても感動したのです。
樫野埼灯台下に流れ着いた生存者のうち、何人かが暗闇の中を灯台の
明かりをたよりに断崖を這い登って灯台にたどりつき、
灯台には逓信省管轄下の雇員2名が灯台守として勤務しており、
生存者の介護とともに大島村(現在の串本町)樫野地区の区長に急報。
灯台守は応急手当を行ったが、お互いの言葉が通じないことから国際信号旗を使用し、
遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦であることを知ったのです。
樫野地区の区長は島の反対側にある大島地区にいた大島村長の
沖周(おき あまね)にも使者を送り、翌日午前10時30分頃に伝えられ
沖村長は郡役所と和歌山県庁に使者を派遣し、村に居住する3人の医師と
ともに午前11時30分頃に現場に到着し、村民を大動員して生存者の探索と
負傷者の救済を行ったのです。
この時、台風によって出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、
住民は浴衣などの衣類、米、卵やサツマイモ、それに非常用の鶏すら供出するなど、
生存者たちの救護に努め、この結果、656名中、樫野の寺、学校、灯台に
収容された69名が救出され、生還に成功。
その一方、司令官のオスマン・パシャを含めた587名は死亡または
行方不明という大惨事となったのです。
大日本帝国海軍のコルベット艦である「比叡」と「金剛」が遭難事故の
20日後の10月5日、東京の品川湾から出航し、神戸港で生存乗員を分乗させて
1891年1月2日にオスマン帝国の首都・イスタンブールまで送り届けたのです。
比叡艦長で薩摩藩出身の田中綱常(最終階級は少将)は、オスマン帝国皇帝
アブデュルハミト2世より勲章を下賜され、そのほか、2隻には秋山真之ら
海兵17期生が少尉候補生として乗船したのです。
この話は、トルコでは、教科書に記載され、誰もが知っているのです。
そして、何より、イラン・イラク戦争中におけるトルコ航空機による
テヘラン邦人救出事件に話が繋がるところが素晴らしいです。
イラン・イラク戦争中の1985年3月、イラクは、突然、
「48時間後の3月19日午後8時以降、イラン上空の航空機は、
民間機を含め、無差別に攻撃する」と宣言。
このとき、既にテヘランは住宅街を含め、イラクの空爆を受けている状況で、
200名以上の日本人が取り残されていたのです。
これに際し、隣国トルコのオザル首相は、重要なパートナーであり自ら親友
と呼ぶ森永堯氏(当時、伊藤忠商事イスタンブール支店長)に懇請されると
即座に英断を下し、テヘランの日本人を救出するためにトルコ航空機の派遣を決定。
このことは、エルトゥールル事件と結びつけられて、「トルコは海の恩を、空で返した」と
言われるているのです。
機長のオルハン・スヨルジユ氏は元空軍パイロットで、
自らフライトを志願、215名の日本人はこれに分乗し、全員トルコに
救出され、やがて日本へ帰国できたのです。
トルコは、陸路で脱出できる自国民よりも、日本人の救出を優先したという。
この救援機に搭乗できなかったトルコ人約500名は、自動車でイランを脱出しており、
トルコの国民とメディアは、この対応を好意的に受け入れられているのです。
丁度、私がパリに居た頃、イラン・イラク戦争中で、
パリインターナショナルスクール高校イラン人の同級生たちは、
家族をイランに残し、パリに留学していたからです。
本当に切実な、戦争についての話を聞いていたのです。
イラン人たちは、卒業後は、アメリカに行くと
言っていた人が多く、現在でもアメリカ在住ですし、
その他のイラン人たちは、パリやロンドンなどヨーロッパに
在住です。
自国には、帰らなかったのですよ。皆。
日本人、D会齋藤幸範会長は、「外国人が恩を感じない」なんて
言いますが、そんなことはないのですよ。
私からすれば、齋藤幸範会長ら金子一族他の方が
よほど、恩を感じることもなく、恩を仇で返しているのですから。
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イランから、日本人を優先させた、トルコの機長に
一緒だった副機長だったか、「どうして?」と詰め寄った
場面で、機長が「日本人だからだよ。」と言ったセリフが
本当に良かったです。
「知らないのか。エルトゥールル号の話を」と機長は続いて
「その時の日本人の献身的な介抱があって彼らは無事に
トルコに戻ることができた」と話し、
副機長をたしなめたのです。
今思い出しても、涙が出てきます。
これからも、日本とトルコの素晴らしい関係が続くことを
願っています。




