自分を否定されること(批判も含む)、嫌な気持ちになってしまう。
相手が自分を思って言ってくれていることだとわかっていても、嫌だと思ってしまう。
だから、相手にも「私はこう思っている」「ここが嫌だ」と言えない。
必要性も感じない。
なんで嫌だと思うんだろうと考えた。
まだ考えるけれど。
道徳のテレビ番組のように、「ケンカして和解して、さらに仲が深まる」といった成功体験がないからだと思った。
成功体験がないうえに、自分自身、自分が苦言を呈する側に立った時には「相手の行動原理には理解ができないのは、自分と合わないからだ」と結論を出して、必要以上に距離を縮めなかった。
だから、自分にとっての人間付き合いとは、H氏との恋愛関係が初めてといっても過言ではない。
ライフステージが変われば、友人付き合いも変わる。
だけど恋人は恋愛から結婚に関係が変わるかもしれない。だから相手を受け入れることを考えこそすれ、別れるという選択肢はないのだ、と思っていた。
そう思っていた反面、友人は付き合いを続けていこうと努力すれば関係は維持できるけれど、恋愛関係は別れてしまえば関係は破綻・消滅するものだという価値観も一方にあった。
そういった二面性の価値観を持って生活をしていたんだなと改めて書いてわかった。
Y女史、M女史との付き合いで初めて「ずっと付き合いを続ける友人関係もいいもんだなぁ」という価値観を持った。この時すでに20代後半。
それまでは、その場限りでも構わないといった感じで友人とは付き合っていた。
そういうのが表に出たんだろうと思う。
誰かに強制されたり、こうすべきといった言葉には拒否反応が出る。
自己啓発本も一緒。
こうしろと命令されている気持ちになるのが嫌だ。
あと自己否定されている気持ちになるのが嫌だ。
楽しくいたいのに、険悪な空気になるもの嫌だ。
自分の思った通りに事が進まないことが嫌だ。
友人と話して、どこかに行ったりするのは自分にとってはストレス発散の場であって、現在唯一安らげる場所だったから、そこの場でまで、「自分とは何か」「幸せになるためにこうすべきだ」といった議論はしたくなかった。
でもきっかけを作ったのは自分だ。
きっと自分はひたすら「大丈夫だよ」「素晴らしい人間だよ」と他人に評価されたいと思って生きてきた。
無難に、無難に。
「自分を出すこと」と「無難に生きていきたい」と「楽しく生活したい」といった感情(思惑?)のバランスが取れていなかった。今も取れていないのだと思う。
たとえば誰かとどこかに行ったときに「何を話そう」とは思っても「どうやったら相手は楽しんでくれるだろう」といった視点で物事を考えてはいなかったと思う。
N氏が「楽しい場を作りたいと思ったのなら、自分が楽しくなるのではなく、場を優先しなければ」と言った。まったくもってその通りだと思う。
いつか、信頼を取り戻した時に、今日のことを謝罪できればと思う。
本当に申し訳ないことをしたなと思って、今日は寝る。
