「となりのチカラ」
撮影、放送お疲れ様でしたー!
オリンピックがあったせいか、
99.9があったせいか、
大河ドラマが決まっているせいか、
あっという間の3ヶ月だったなあと思います。
まあそんな話は置いておいて。
変な角度からの感想から始めるんですが、お許しください。
「となりのチカラ」は2回の1週空き、全9話という構成でした。
連続ドラマだと1週空くのは視聴者が離れる可能性があると思うので、できれば毎週放送したいのでは!?と思っているタイプなのですが、(少なくとも私は空けずに観たい笑)
4話の後が1週空いたのは私はこのドラマにはぴったりだったなあと思いました。
いや、それどんな感想?って感じですが、
このドラマはそれくらい独特なテンポ感があったなあと感じているという話です。
そんな話をします。
基本的な展開のテンポはとっても遅いんですよね。多分。
1つのことが丁寧に、丁寧に、細かく描かれているんです。
それでも連続ドラマとして、1本1時間のドラマとして成り立つのは、
そんな中でチカラくんがあれこれ考え悩み、忙しないから。
全体のドラマの展開の遅さを、
主人公のワタワタでトントンに持っていく稀有なドラマだと思いました、、、、、(偏見)
よくありふれたJ-popの歌詞にある気がする
「人にはみんな平等に時間があるのに人によって使い方やその時間の濃度が違うよね」みたいなことを
言わずもがな体現しちゃうチカラくんにじわじわ来ました。
(感想のクセ。多分そのクセにじわじわきてるだけ)
"おとなりさん"の問題を、スパッと解決はしないけれども、
昨日よりも少しだけポジティブになれたり、
昨日よりも少しだけ自分達の大切なものに気がついて穏やかに暮らせるようになったり、
宣伝でよく言ってた「中腰のヒーロー」というのがとてもしっくりきました。
全てを解決はしない、いや、解決出来ないけれども、
チカラくんは間違いなくヒーローと呼べるな、いや大袈裟かな、ヒーローと呼んでもいいかな、いや呼べるよね!?っていう。そういう感じ。笑
でも、そんな風にご近所さんと付き合う話じゃ連ドラとしては単調で繰り返しになってしまいます。
言うまでもなくこのドラマはそんな単調なわけもなく、
マンションの人々とチカラが出会う前半戦、
チカラと出会って変化する後半戦、という構図も垣間見えます。
上で書いた、4話の後に1週空いたのがよかったかなと思うのは、この構成が際立った気がするからです。
いわゆるチカラとの出会いのパート=この中腰のヒーローパートって今思うと本筋じゃないんですよね、多分。
なんというか、最終的にやりたかったところの展開や本筋のための序章と言いますか。
だから、1周空くことで良い感じに前の流れが薄れた上で
後半戦のチカラと出会った後の周りの変化パートやチカラの家族内のパートに持っていけたのは
個人的には最終的な展開や本筋を見せるためには割と効果的だったのではないかなと思います。
あれっ、、、なんかすごい変な感想書いてますネ、、、、やめます。
このドラマは、家庭内暴力、外国人差別、少年犯罪、認知症介護、宗教依存(すっとぼけた脳からはこんな単語しか出てこなくて間違っている気しかしない)などなど見つめなければならない"この世界の"現実の問題がたくさん出てきます。
それは、解決できるかと言われると、難しいんだと思います。
自力でも、人の手を借りても。
そして、何が良くて何が悪いか、なんてことは
どうしたって誰にも分からないんですよね。
どの"問題"にしても、分からないんですよ。多分。
自分語りをしますが、私の中でこれらの問題の中で一番身近にあるのは認知症です。
私の祖母が認知症でした。
小さい頃、介護する母の姿をずっと見てきました。
自宅でのお世話もしたし、施設に入居もさせました。
当時私は小さかったので、母を助けることもできなかったように思います。
大人になって今思うと、あの頃の母の苦労はとても大きかったのではないかと思います。
人知れず入居させるかで悩んでいたのかなあ、とか。
どの選択が良いか悪いかなんて分からなかっただろうなと。
でもどの選択もそういう良いとか悪いとか言えるものではないんですよね。きっと。
あの頃の母に少しでも寄り添えていたら、それだけでどれだけこの人は救われたんだろう、と
このドラマを見てふと思いました。
これ以上はあまり書かないけれども、介護にしんどくなってしまって、悲しい【事件】が起きている現実は間違いなくあって。
でも、その介護のしんどさを少しでも見てきた身からすると、何も言えないんですよね。
その事件を起こした人が悪かと言われると、、、うーん。
これ以上は書かないし、書かないけれども。
最終回のチカラくんのセリフに、
「良い人も悪い人もいない、その中間がいるだけで」とあります。
どの問題も根本的な解決は難しいかもしれない。
この世界で生きていくには、良い、悪い、とどこかで区別して生きていくこと、
そういう見方をするのが当たり前で必要なのかもしれない。
でもそうじゃなくて。
そうじゃなくて、そこじゃなくて。
性善説とか性悪説とか、そうじゃなくて。
っていうかそれも別にいいけど!
そういうものの見方もありだと思うけど!
なんか私が言うとめちゃくちゃ馬鹿っぽいけど!
チカラくんみたいに優しさも、気遣いも、人を嫌うことも、怒ることも、
全てが中途半端で見ていてよく分からない人もいれば、
自分のことを優先させて簡単に怒ったり優しくしたりする人がいるのがこの世界なんですよね。
どちらが良いとか悪いとかではなくて、
ただただ、ただただそれがこの世界なんですよね。
そういう世の中に気付いてる?っていう。
皆さんは気づいてますか?忘れてませんか?っていうある種の挑戦状的なドラマだったのではないかと思います。
怖いくらいに丁寧にゆっくりとしたペースで描いていた本質は「気づいてますか?」「忘れてませんか?」というところへの投げかけを際立たせるためかなあと思っています。
そう思うとこのドラマはどの演出も刺さるものしかないかもしれない。
このテンポ感、怖いくらい重い。
だって、この遅さが現実だから。
ドラマでは1時間にギュッとしてるけど
日常は1日24時間あるから。
1週間で168時間あるから!
無意識にでもこういう問題から目を逸らしてるから、これだけテンポが遅く感じるのかなあ、と言いますか。
この世界は良い悪い好き嫌いだけで進められる世界じゃない。
私の語彙力じゃうまく言えないですが、
「そのパターンもあるよね」っていうパターンを増やせるようなドラマと言いますか。
自分が知らないだけで、世界には色々な人がいる、っていう
ドラマを見ていてよくある気づきではありますが、
多分どのドラマよりも現実に近くて身近で。
明確に答えが出ない、出せない題材で、
出さない(中腰で答えが出せてない)からこそ
向き合い方は人それぞれで、感じ方も人それぞれで、どれがそれぞれにとって例えば生きやすいか、なんていう忘れがちな大前提の部分をしっかり感じ取れるのかなあ、と。
「自分にとってこれが答えだからあなたにとってもこれが答えだ」っていう押し付けはもってのほかで。
色々な人がいて色々な選択肢があって、
どれが良いとか悪いとか一概に言えない人々の豊かさというのか、多様性というのか、何というか、
それはめちゃくちゃはっきりしっかり描かれていたドラマだなあと思いました。私は。
最終回を目前にして、
「となりのチカラ」というタイトルに隠された真実が明らかに!?という謎のプロモーションがあったのでそっちに気を取られて最終回は見ました。
このプロモーションは必要なかったかな、とも思いますが、
このドラマが持つ意義を伝えるにはそういった形で補足しないと伝わりきらなかったのかなあ、と思うと少し残念だなと思ったり。
「となり(物理的。近所、の意味。)のチカラ(人物。めちゃくちゃ中腰な中途半端に首突っ込んでくるヤツ。)」
だし、
「となり(概念。家族、友人など。大切な宝物、心の拠り所。)のチカラ(活力。前向きな気持ち。あたたかさ。)」
ってことなんだと思います。
チカラの奥さんが「アカリ」なのも、
全部計算って感じなのかなあ。
そんな2人の娘息子が"あいり"・"こうたろう"で
「愛と光じゃん!優しい力と明かりに育まれたのは愛と光か!」と都合の良い解釈をしましたが、
冷静に考えたら"こうたろう"は"高太郎"でした。
光じゃなくて高でした。失礼しました。笑
多分、私たちの生きる力の源は誰かの愛だし誰かの気付き。
誰かの愛に触れたり気づいたりして、
明日は今日と違っていくのだと思います。
こういう風に着地させたかったから主人公の名前が「チカラ」なんだなあ、と思いながら見ていました。
とある一面だけを見て、「好き!」とか「嫌い!」とかって
そりゃ生きてりゃ色んなものに影響を受けて人それぞれあるとは思うけれど、
生きてると人それぞれあるんだから、っていう大前提をふと忘れちゃうんですよね。
言うまでもなく、
みんなその"それぞれ"の自分のことで大変で、忙しくて、いっぱいいっぱいだから。
丁寧に、じっくり、ゆっくりでも良いから
ほんの少しだけ"おとなり"に意識を向けたり、
たまにはちょっと弱音を吐きながらでも
「ありがとう」とか「ごめんね」とか「おはよう」とか言えたりしたら、
私たちはもう少し幸せになれるのかもしれないなあ、と。
この世界の誰しもが誰かの力になれたり、
誰かから力をもらえたりするんですよね。
この世界の誰しもが誰かの明かりになれたり、
誰かの明かりに救われたりするんですよね。
優しい力と明かりの元、
これからも愛と光に満ち溢れる世界が続きますように。