余談というか、今までコンサートのレポ的なものにぶっ込んでいたその日のコンサートの感想ではなく、コンサートのコンセプトに寄った感想が、
コンサートなくなった瞬間に行き場をなくす、という当たり前すぎる現象により、
名付けた名前が「余談」なだけであり、
似たようなことは今までもずっと長々話してきたので、タイトルに意味はありません。






Prayの時のペンライト制御を、「鎮魂のキャンドル」と表現する思考回路が私にはなかった。

そうだね、そうだわ、、、とひどく納得。

モノクロの世界→光り輝く色鮮やかな世界というところまでしか回らなかったなー。


あのパート、何度思い出してもズドーンと突き落とされたように沈んでいるパートなのね。
光への演出のためにするとは思えないから、どうしてだろうって考えるんだけれど。
物語の"起承転結"においてそういうパートもあっていいよね、となったのか、前にも書いた気がするけれど、「Pray」の世界観が離れなくなったのか、私には分からないけれど。

でも、「鎮魂のキャンドル」っていう表現を見て、納得したし、そこのパートへの思いの強さはちょっと私には受け止めきれていなかったなあ、と。


あと定期的に、音源と歌割りが違う理由を考える。

1人で歌うことで、儚さみたいなものは大きく際立って見えるように思えるけれど。
1番は3人でパフォーマンスだし。

3人に2人追加されて、5人になって街に光がさす。
いや、流れとしては完璧。完璧なんだよ。

そういう意味だと、ソロパートは変更もありながら増えたという意味においては大野さんだけだし、任せられるのは智くんしかいなかったということなのかしら。
そして、ずれるなら松本さんが1番パートにくると。

文句があるとかではなく、色々なことを考えながら作っているんだなあ、と思うわけです。

「素晴らしき世界」を思い出したりして、楽しいわけです。

こうしてコンサートでの魅せ方を変えることで、さらにその曲の強さみたいなものを感じられると思うと、演出って面白いなあ、と改めて思うわけです。


だから理由というか、入り口が気になるんだよなあ。うん。





「untitled」の楽曲タイトルに関して、松本くんが「分かりづらくしたい」とリクエストをした話から。


「タイトルをあえて分かりづらくしたい」というリクエストは、曲に様々な含みを持たせるためには必要で、
その楽曲たちを包括するアルバムのタイトルが「untitled」なのだから、道理といえば道理だと思うのです。

「タイトル」って時に幅を狭めてしまうものだと思うから、どの楽曲も、程よく(?)タイトル付けしたなと改めて思ったりして。


そんなアルバムの中で
「カンパイ・ソング」っていう
最高に限定されたどこからどう見ても飲み会にぴったりであろう楽曲を最後にきっちり配置してくるのが嵐。とことん嵐。怖いくらいに嵐。


そして、「タイトルをあえて分かりづらくしたい」中で、「光」が「光」というタイトルに決まった瞬間、それまで捗らなかったRap詞のリリックが捗ってしまう櫻井くん。

「タイトルに助けられた部分がある」というセリフも、ここまでくると「untitled」において大事な要素の1つになりうるなあ。

タイトルって大事なんだよ。ね。


そのタイトルを、今回、

「untitled」=タイトルなし、無題

とし、そこに「未完成」と吹き込んだ嵐。


タイトルをつけないという選択肢を「untitled」と呼ぶだけで、立派なタイトルなんだよなあ、と思う。

嵐に限った話ではないとは思うけれど、本当にタイトルがない作品なんてないんだよね。
そして、タイトルによって同じものでも違う印象を受けるのは確かで。

タイトルがないというタイトルに嵐が吹き込んだものは、「未完成」が持つ力強さであり、この先も"変わらず"突き進む強い決意だったなあと。



そんなアルバムの、最後に収録されているのが「カンパイ・ソング」。

これが嵐よ、、、、、。






【トークテーマ 「カンパイ・ソング」】


櫻井「嵐のファンの人が広めてくれることを願って。ゆくゆくはシングルカット目指して!」
二宮「シングルカット、狙っちゃう?」
松本「地上波で歌わせてくれないかなぁ」



これは逆になにをどういう風に頑張れば地上波で歌えるようになるのか教えてほしい。

それくらい私も地上波で歌って欲しいと思っている。

「ファイトソング」みたいに、いつか絶対に地上波で歌ってほしい。

あれはC&Rが楽しい曲でもあるけれど、パフォーマンスのしがいもある曲だと思うの。
全力でふざけつつ、完成度が高いパフォーマンスを、いつか地上波で観たいなあ。


スーツを崩して着て、飲み屋さん的セットで歌って踊って騒ぐ嵐を想像するところまでは完璧に出来ている。手にはジョッキ持ってね。ペンライトでいいよ。
頼みますよ!!





ツアーパンフの最後のインタビューのお題は、
「嵐は未完成?」「今、そしてこの先の嵐は?」みたいなことだと思うのだがどうだろう。



5人それぞれ思い思いに話しつつ、


二宮「同じ事やってたら、飽きちゃうしね。うちの人たちは」
大野「同じ事やってると、自分たちでつまらなく感じちゃう」
櫻井「自分が飽きちゃう。嵐も飽きっぽいところがあるのかもね」


というのと、


松本「感覚はみんな別々の5人だけど、同じような時間を同じだけ過ごしてきてるから。」
相葉「向いてる方向は一緒だけど、みんなが完璧に同じ気持ちっていうのはありえない」



という言葉があるのが印象的で。



櫻井「自分たちで率先しておかしな方へ行く。攻めてる感じっていうのは多分カンパイ・ソングやバズりNIGHTを指してる。変わらないよね、嵐のそういうとこ。(意訳)」

松本「俺は嵐の1/5だと思っているから。」


という言葉をはじめ、5人それぞれ考え方があったり、違っていたりしても、

根っこにある部分、つまり、
嵐が「未完」であり、この先も「攻めていく」姿勢の根っこに、

「嵐は飽き性だからね」とか
「5人みんな考え方みたいなものは違うけれど、見ている方向は同じ」

という部分があるのがいいなあ、と。



マイナスでもプラスでもない、ただ自分たちを冷静に見ている。

無駄な希望みたいなものを抱いて、勝手に失望することはないし、
現状を至極冷静に受け止めることほど未来が柔軟なことはないんだなあ、みたいなことを思う。

その現状を冷静に見つめることが難しいんだよね、って。


ブレない軸が嵐にはあるよねって、
どこまでいっても"嵐らしさ"がある所以って、こういうところを指すだけで、特別なことはないんだと思う。

「楽しく、5人でいられたら」ってことに対してしか強い思いはないんだろうなあ。

だからどんな形にもなれる。

その"嵐らしさ"は唯一無二で強みだし、私が、私たちがついて行く理由なのである。


締め方全くわからないけれど、
改めて特別なことはなにもないと思ったというか。

難しいこと言ってるのかと思いきや、最終的に「嵐は飽き性なんだよ」とか
メッセージ性が大きくありながら、「カンパーイ!!」で締めるとか、そういうところが嵐だなって。

日常や何気ないものにふと立ち止まって考えるきっかけを多く与えてくれている気がするなと思った次第で。


そして、そんなコンサートを今回に限らずずっとしてきてくれている、と。

今回は、壮大な物語だったなと。そう思うわけであります。