ちなみに今私はのどが痛い二日目です。
物を認識できるときとそうでないときの違いはなんだ?と考えた。
普段私たちは何かを認識してこの世を生きている
認識するとはバラバラな情報を統合された一つのまとまった情報として観ることができることをさすと尾思うけど、そもそもバラバラだったなんて何でわかるんだよと考える。
実際に脳の中では記憶を引っ張り出すときには脳のいろんな場所からデータを寄せ集めしているらしいし、記憶をするときも海馬だけでなく、扁桃体や前頭前野などに別々に記憶が保存されるそう。茂木さんの本に書いてあった。
恐らく、赤ちゃんが視力が低い理由は、まだ統合能力に乏しいからだと考える。
苫米地氏によると、『空』とは、有と無の上位概念らしい。そこから情報の分化が始まり、徐々に認識できるものが見えてくるようになるのだろう。
嫌いなものというのは単にその人の過去に受けた好ましくない情動がそのものと一緒になって記憶として定着しているからに過ぎない。
好きなものというのは単に、数直線状で表したときのXとYとの差のことでしかない。
つまり、表裏一体ということだ。
釈迦は『空』にいき、すべてがはっきり見えた人だと苫米地氏の本に書いてあったが、自分はその状態がよくわからない。
最初の話題に戻ると、認識とは、ある一定の集中状態ともいえるんではないか。
集中するとその部分しか見ることができないが、詳細を観ることができる。
そして、それは言語空間によって成り立っていること。元来、言語が無ければ差を認識できないだろう。つまり言語は人類が存在していなかったときにすでに存在していたことになる。
そして、それを人間は発見したのかもしれない。つくったというよりも。
なんか文章がバラバラなんだけど。これは、統合能力が乏しいからか(笑)?
哲学の本を読んで認識しついて考えた時期があったが、確定的なのは、自分の記憶を利用してものを認識しているということ。
つまり、過去しか見ていないということで、今の今を生きていることは疑問だということ。実際に、認識したときの視覚野までに伝わる電気信号のロスは削れないし、若干実際のものとは違う状態を認識いている。
はっきり物を認識できているときは記憶を上手に利用できていることは間違いないだろう。
記憶を上手に利用できるということは、脳細胞のコネクションが最適化されていることと同じだろう。
これを人間関係に置き換えると、上手に人を利用することができる、つまり、自分の目的に合わせて人を動かせることは認識のそれと比喩的な一致をしている。
逆なことはうまく脳が働かないことになる。
人間関係で上手くいっているひとは、感情の記憶がスムーズになり、記憶を扁桃体から引っ張り出しやすくなると思う。
言語空間を勝ち抜いていかないと記憶はしにくいのかもしれない。
テキトーに書いたからオチがないけど、これくらいにしておく。





