長崎市長銃撃事件にみる平和への道のり!
久々の更新だが、その間に長崎ではとんでもない事件が起きていた。伊藤一長(当時)市長が銃撃を受け亡くなられた事件である。事件の場所は長崎駅からほど近い場所だが何分田舎なので一本路地に入ると人通りはそうは多くない。不審者に待ち構えられる可能性も大いにある場所であった。今回の事件は核兵器とは違いもっと身近な銃器による凄惨な事件だった。一丁の銃器によって平和の街は一瞬にしてその名をかき消されてしまった。大変痛ましいことであり、伊藤前市長のご冥福をいのるのみである。私が今回のことで一番感じたには、核兵器が廃絶されようともたった一丁の拳銃で平和なんてものはすぐに乱されてしまうということだ。核兵器廃絶は最大の目標で全人類の悲願だが、それだけでは平和は得られないのではないかということである。それは北朝鮮のミサイルも同じことで、たった一発のミサイルが打ち込まれるだけで平和など吹き飛んでしまう。つい先日も日本海に向かって北朝鮮がミサイルの訓練と称して発射してきたがこれはおおよそ許せる範囲の話ではない。もしも何らかの要因で日本の国土に落ちていたらどうなったであろうか。核兵器の廃絶とあわせてこういったミサイル、銃器等も同時になくすことが平和に近づく手段だと思う。いやむしろ使用頻度からいくと核よりミサイル、ミサイルより銃火器の方がより現実的に被害にあう可能性が高い。核兵器廃絶を訴える前に長崎を平和の街と呼ぶにはそういった身近な危険から取り除いていくほうが効果的である。でないと長崎に安心して観光客も来れないと思う。新しい市長には核の廃絶だけではなく、いやむしろ銃の取り締まり、廃絶を訴えて欲しい、そう思った出来事だった。
みんなの9条を読んで
みんなの9条という本を図書館で見つけたので読んでみた。各々の著名人が9条への想いを語っているのをまとめたものである。一人の意見だけよりもこういった多くの人の話を載せているのは偏りがなくて、いろいろな意見に触れられるのでよかった。端的な感想を言うと、同じ9条支持の人でも考え方に幅があるなということだ。2人が180度違う理由から9条が必要と言ってる点もあり多少戸惑いも感じてしまった。また寄稿している人のレベルにも差が大きかった。大変感銘を受ける話の人もいればふざけたようなことを述べてる人もいた。多様性があるのはいいが読む価値のないような落書き文のせいで真剣味を減らしてしまったのが残念だった。もう一つ感じたのが戦争体験者の方の意見はその重みが違うということだ。彼らの生の体験の話に触れると2度と戦争をしたくないと言う気持ちが痛いほど伝わってくる。こういった人の話は大変貴重なもので戦争未経験者が戦争反対と述べるよりも何倍も意味あるものである。最後に思ったのは外国人の意見を載せてしまっていることである。お決まりの中国人、韓国人、在日朝鮮人の人たちなどだ。たしかに戦争によって日本によって嫌な思いをした国の人たちなので彼らの言い分を聞いてあげたいという気持ちもわかるが憲法は日本人のものである。外国人にとやかく言われる問題ではない。私たち日本人が一生懸命守っている9条をよその国の人が守るべきだなんて偉そうに言わないで貰いたい。それよりも彼らには自国に憲法9条の戦争反対の理念を伝えるほうに尽力して欲しいものだ。憲法9条は日本人自身がこれからも戦争をしないためにも守り続けていかなければならない。そう思った。
核議論にみるエセ非核派の存在!
非核三原則は核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」というもので現在の安部政権もこれを遵守している。少し前に自民党の中川政調会長が核兵器保有の議論は必要だと発言し問題になった。野党は議論すら許されないと猛反発して改めてこの国では核問題はナイーブだなと感じた。私は核兵器保有には絶対反対だが核保有の議論は大いにするべきだと思う。議論して論破されるような非核ならもったほうがましと言う河野太郎の発言に賛成だ。大いに議論して核保有より非核を維持することの方がメリットがあることをわからせればいい。それより問題なのは民主党の鳩山幹事長が昔は核保有の議論は封じられてはいけないと発言していたのに今回は議論は許されないなんて言っていたことだろう。こんな嘘つきには非核三原則を本当に守りたい人の気持ちなんてわからんのだろうな。あと言論封殺してでも核持つべきではないていう人たちは共産主義の国にでも行けばいい。日本は民主主義の平和な国を目指している。まともな非核派の人たちの足を引っ張ってるんで邪魔だ。
長崎市は北朝鮮の核開発を支持しています!
長崎市は被爆都市であり、核兵器廃絶を訴える資格のある都市である。国連をはじめ多くの場所でその活動を続けてきた。その理念や活動は大いに結構だがただ一つ納得いかないことを平気でやらかしている。それがテロ組織朝鮮総連の関連施設への固定資産税の免除である。北朝鮮が核兵器の開発を行っていることが確定している昨今、その北朝鮮を支持、支援しているのが朝鮮総連である。そんな怪しい施設への課税を免除してきた長崎市は間接的に北朝鮮の核開発を支援してきたことになる。私は以前このことを長崎市にメールで問い合わせたところ「公共性が高い施設なので全額免除して何が悪い」と言った文意の返答を戴いた。北朝鮮のスパイたちの温床である施設を取り上げて公共性が高いなんてあまりにばかげている。長崎市は今年6月に公共性が薄いと言った理由で全額免除から一部免除に切り替えてはいるが(全額免除の時点で朝鮮人を差別扱いしていることはここでは割愛)それでも免除を続けていることは変わらないし、もっと前からわかりきったことを見逃してきた罪は重い。非核を目指す都市がこんなふざけたことをやってるんだからもう腐っている。自国の核保 有には反対で北朝鮮の核開発はいいのか?真に核兵器廃絶を目指すのならこのような行為はおかしいことは明らかだろう。それとも長崎市の核反対はポーズだけなのか?本当に長崎市には失望した。この都市は非核なんて目指してません。核兵器の廃絶を目指すものとしてこのような裏切り行為は断じて非難していく(ちなみに佐世保市は今でも全額免除を続け全力で朝鮮総連施設を支援しています!)
被爆都市?佐世保の抱える欺瞞!
以前の話だが佐世保出身の知人が酒の席でこんなことを言い始めた。「佐世保に米国の原子力潜水艦が入ってくることは許せない」私がなぜかと問うと「被爆県民として許せないでしょ」と同意を求められた。私はここで一つの疑問が生まれたので彼に聞いてみた。原爆によって佐世保にも被害はあったのかである。そうすると「いやなかったよ」とあっさり言いのけたのだ。彼が言うには被害はなかったが同じ県民だから被害を共有していると言うのだ。被害がなかったら原潜は関係ないではないかと続けて聞くと、「佐世保市民はかねてより米軍基地があり、米兵に対してはよく思ってないのだ」と言う。だったらそう言えという話なのだ が私がこの話で言いたいことは佐世保市民が原爆の被害なんてありもしないのに被害者の立場でものを言っていることである。多くの人は長崎県民というだけで原爆の被害があったのだなと思うかもしれないがそれは間違いである。長崎は地形的にも山に囲まれており被害は限定的で長崎市だけが本当の被爆都市なのである。それを同じ県だからだと言う理由で痛みを共有しているかのごとく振る舞い、自分たちの都合のためにそれを利用することに激しく憤りを覚える。本当の被爆地は長崎市とせいぜい隣接する群、町、までで決して佐世保は当てはまらない。それを被爆地だと偽っての行為は卑怯と言わざるを得ない。
防衛庁の省への昇格に見る日本の軍国化!
11月30日に防衛庁の省昇格関連法案が自民、公明、民主、国民新党の賛成多数で衆議院を通過した。来年の1月には防衛省になる予定である。なぜ今に昇格をする必要があるのか甚だ疑問である。防衛庁は施設の官製談合や情報流出、自衛隊員の薬物使用など様々な問題を抱えていた。それら問題を一切無視しての昇格は到底納得できるものではない。庁から省への昇格によって現在は内閣府の外局から単独 で予算請求や閣議の要請などが可能になり、より迅速な対応が可能になるというが果たしてそれだけであるのか極めて疑わしい。隣国北朝鮮による核兵器やミサイルの保有という由々しき周辺事態が起きていることは理解できる。しかし、ただでさえ日米同盟が最も緊密とも言える現状においてその必要が本当にあるのか、本来なら防衛庁が抱える不祥事を清算してからやることだろう。この拙速な昇格作業は北朝鮮による危機を利用した軍国化への一歩なのではないか。心配しすぎだといいのだが。
国民保護計画に見る長崎市長の裏切り!
武力攻撃などの対処法を定めた国民保護計画について核攻撃を排除しろと長崎市長が言っている件について。同市長は県内の被爆団体5団体が「核攻撃を受けたら、市民を救う手立てはない」「市民を救うには核廃絶しかない」という意見を真に受けた発言をしている。被爆都市である長崎に生まれて育った私だがこれはどうかと思う。まず第一に核攻撃が長崎市への直撃の場合だけでなく放射能による間接的な影響の場合の対策をとらないとしていること。一番に想定されるのがこういった状況なわけで、この場合に本当に市民の多 くが無防備に死の危険にされされることになる。本当に市民の安全を守るつもりがあるのか疑わしく思え不安になる。第二に核攻撃でなく原子力発電所に対する攻撃による被爆を想定してないことである。隣県の佐賀県に玄海原子力発電所がある、そこにミサイル等による攻撃を受けると放射能物質が大量に飛散する。その場合の対策をも長崎市は放棄すると言っているのだ。核兵器廃絶はもちろん目指すべきであるし、為されるよう努力すべきである。だがしかし市民の安全と比較した場合に市民の安全を選べない市長及び非核団体は平和主義者、平和団体と呼べない。彼らが非核をめざすのは市民のためでなく自分たちのイデオロギーのためではないかと疑いたくなる。なんとも情けない話であり、長崎市民として恥ずかしく思ったニュースだった。
