お父様は、原理講論の主人は「お母様」だと確かに語られていました。
2000年前に来られた「独生子(独り子)」イエス様は十字架に架からなかったならば、新婦・「独生女(独り娘)」を探して結婚するはずでしたが、それが出来なかったために再臨してはそれを成すための「小羊の婚宴」が黙示録で予言されていました。
ところで、イエス様当時を考えてみてください。マラキ書にはメシヤが来る前に「エリヤ」を遣わすとありました。
マタイによる福音書/ 17章 10節~
弟子たちはイエスにお尋ねして言った、「いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。答えて言われた、「確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」。そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。
人々が認めれば「洗礼ヨハネこそがエリヤ」だと弟子たちに言われたのでしたが、洗礼ヨハネ自身もそれを否定してしまったために、偽メシヤとの汚名を着せられて十字架に架からずを得ませんでした。
さてこんにちにあって、ヨハネの黙示録/ 19章 07節「わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、/花嫁はその用意をしたからである。」ですが、この「花嫁」をどのように判別することが出来るでしょうか?
それは、再臨主が来てということではないですか。
コメント17(自称ルポライターtomy4509)
>にくい Nickくんさん
「独生子」はイエス様から、「独生女」(女メシヤ)はお父様から出た言葉です。その「独生女」はどなたを指されてのものだというのですか。
お父様は無意味な「独生女」を語られていたわけではありません。その意味をかみ(加味)しめていかなければ、「神様」に出会うことなど出来ません。
アブラハム路程P.321/322からは、完成成約時代は「妻の時代」との予言も何度も読まれたでしょう。
◆「原理講論も「女性時代」の到来を予見していた!!」(2017.09.13)
https://plaza.rakuten.co.jp/peace3world/diary/201709130000/
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「イエス再臨以後の完成成約時代は、」とあるように、原理講論では半世紀以上も前から「女性時代の到来」を予見していたりもしていた。
-----<引用終わり
史吉子女史の著書「み言の証し」も記事で出されていましたね。その史吉子女史にお父様が語られていたこととは、「原理講論の主人は『お母様』」という電撃的なものもあります。
◆「原理講論の主人は「お母様」!!」(2018.11.16)
https://plaza.rakuten.co.jp/peace3world/diary/201811160000/
※ 『ファミリー』2009.1月号P.44~。2008.8.31、ヘリコプター事故後に「原理本(体)論」について語られた中のもので、記事下部に画像で入れています。
原理講論は「再臨主」を証しするために書かれたとも聞きますが、特には「お母様」が主人だというお父様み言です。
私からの意見は以下です。
https://plaza.rakuten.co.jp/peace3world/diary/201712120000/(2017.12.12)
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ところで、お母様の路程を見ても洗礼ヨハネ的使命者(霊通者)がいなかったのか、と言えばそうではなかった。その方とテモニムとはつながっており、お父様の洗礼ヨハネ的使命をも持たれた方がいたが興南でその基台が崩れ去ってしまった。
されども、テモニムが統一教会の門を叩いてのちに「子羊の婚宴」となったのであった。
ここで私の背後の「奇知外」が語るには、2000年前のイエス様の時には洗礼ヨハネがあったように、こんにちの独生女にもその「洗礼ヨハネ「」がいなかったか?
独生子、再臨主としてのお父様ではあるが、初臨の独生女・お母様のいく道を整える「洗礼ヨハネの使命者」としても歩まれたのでは、という話だ。
事実、お母様を独生女として語り、また、そのように教育されて来られたのではなかったか。
……
-----<引用終わり
peace 2024-05-13 22:11:37
コメント18(にくい Nickさん)より
>その史吉子女史にお父様が語られていたこととは、
>「原理講論の主人は『お母様』」という電撃的なものもあります。
>
>◆「原理講論の主人は「お母様」!!」(2018.11.16)
https://plaza.rakuten.co.jp/peace3world/diary/201811160000/
読みましたが、どこにも原理講論の主人はお母様とは書いてないですよね???
これに対して、自称ルポライターtomy4509からの回答です。
本当にそうですか? 以下をもう一度よく読んでください。
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史吉子さんも、『原理講論』を中心として、「覚えて何々をしなければならない」と言っていますが、それは『原理講論』です。【実体】はどこに行きましたか? 自分(史吉子さん)はかかしのようなことをしているのです。かかしに頼って生きるのではありません。鳥も、行き来する主人(お母様)が来れば逃げていかなければなりません。逃げずに主人になろうと史吉子さんも考えるでしょう? ……。
-----<引用終わり
お父様が語られていたのは「本(体)論」です。【実体】、「鳥も、行き来する主人(お母様)」「本体である真のお母様」、しっかりと書かれていますよ!!
『ファミリー』2001.1月号があなたの手元にあれば全体を読まれたらいいでしょう。
注釈を入れておきますが、紹介していないP.47とつなぎ合わせてみれば、「鳥も、行き来する主人(お母様)」は、かかしのように鳥が逃げてではありません。鳥も来ては「食べ物も食べなさい」ということです。それが「本体論」です。
さらには、史吉子著「み言の証」から真の父母様のエピソードも追記しておきます。
◆「[Book紹介] 原理に関する み言の証(史吉子/著、2013年5月28日 発行)」
「掛け違えたボタン」を直そうとされているお母様の姿、「ああ、下がらないで、その場にそのままいてください。私が一番上まで上がって、お父様を引き上げますから」だと思います。