Re:「個人の受け止め方を素直に書いている」だけなのに。 | peaceのブログ

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「天の父母様聖会」とは、政治、宗教、経済、学術、メディアなどのの壁を超えたコミュニティーです。
人類の父母である神様の元に人類が一つの家族となり、平和世界の建設という理念を掲げているのが、「天の父母様聖会」です。

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私peaceの上記記事に対して以下の記事がありました。

 

 

私からもひと言、「(私も)個人の受け止め方を素直に書い」ただけです。

 

さて、”おとうさん”が挙げていたのは「原理講論・総序」からの引用でした(以下)。

 それでは、内的な真理を探し求めてきた宗教人たちが、その本来の使命を全うすることができなくなった原因は、いったいどこにあるのだろうか。本質世界と現象世界との関係は、例えていうならば、心と体との関係に等しく、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、そして、主体的なものと対象的なものとの関係をもっているのである。心と体とが完全に一つになってこそ完全なる人格をつくることができるように、本質と現象との二つの世界も、それらが完全に合致して初めて、理想世界をつくることができるのである。それゆえ、心と体との関係と同じく、本質世界を離れた現象世界はあり得ず、現象世界を離れた本質世界もあり得ないのである。したがって、現実を離れた来世はあり得ないがゆえに、真の肉身の幸福なくしては、その心霊的な喜びもあり得ないのである。
     (原理講論 総序 P28より)

ここで紹介されているのは、「本質世界と現象世界」についてであって、あくまでも分かりやすい例としての個人の「心と体」を挙げたものでした。一個人の「心と体」一つになったところでどれだけの幸福感を感じることが出来るというのでしょうか?

さらには、男女の心と体が合致した家庭が幸福の最小単位であり、それが拡大されては「理想世界をつくることができる」ということでしょう。

 

”yosia621氏”、”笑わせたい(笑えない)お父さん”は、ともに異邦人サマリヤ人(UCI)の方々であり、再臨主の「真の父母様が一体」を否定しています。黒・天聖経の「真の父母」をみれば「真の原器」、「真の父母の定義」について書かれていました。

三)真の原器P.22

真なる心は、変わりません。それゆえ、それがなくては、皆さんが基準を立てられません。こうだああだと評価できないのです。宇宙の核ととともに、絶対的な基準に公証されうる内容の根を持てないのです。そうであると、そこに及びえないために、その及びえない基準から評価されたその存在は、流れていってしまうのです。

メーターのようなものも、その原器があります。それを中心として違っているのではないかということを判定することができるのです。全部問題が起きるなら、ここに合わせてみるようになるとき、ピッタリ合えば、それは万世に不平を言っていた人も一時に皆離れていくのです。(一八六・六六)

……

・ 真の父母の定義P.32

統一教会で言う真の父母は何か? これが問題です。堕落しなかったらどのようになるか? 堕落しなかったら、神様が縦的な愛となり、アダム・エバは何かといえば、神様の体になるのです。神様の体と同じなのです。神様は骨のようであり、アダム・エバは体のようなものだというのです。神様も心があり、体があります。分かりますか?(はい)。

そう、皆さんは、誰に似ましたか?(神様に似ました)。神様と?(真の父母に似ました)。真の人。神様とトゥルーマン(true man;真の人)に似ました。そうだといって、アメリカ大統領のトゥルーマンではありませんよ。(笑い)

神様は、内的な場で内的な父母になりアダム・エバは、外的な場で外的な父母になります。内的外的父母が一つになったその場が愛で綴られて、内的父母に侍るようになり、外的父母を持つようになります。神様と人間との愛の結託により、真の父母、完成した人間が成就されるのであったというのです。愛と結託されないなら、完成人間がいないのです。

 

それが何かというと、本然の我々の先祖であるのです。神様が創造された本然の人間です。そのような人から我々が生まれるのです。そのような神性を持った人により、我々が生まれなければならないのです。それゆえ、我々は神性を帯びた神様の性稟も持ち、人性を帯びた、神様の前の縦的な父母の性稟も持つのです。

ですから、アダム・エバの完成は、神様の愛に結ばれてこそ完成が出てくるのであって、これが結ばれなければだめのです。神様の縦的な愛と横的な肉的愛が、一点で結ばれたのが、まさに我々の先祖の血統の根です。分かりますか?(はい)。そこが、我々先祖の血統です。そこから全人類が生じるのです。

堕落のために、男の愛、女の愛、神様の愛が皆分かれました。堕落によって、男の愛、女の愛、神様の愛が結ばれませんでした。

堕落しなかったら、自動的に結ばれます。男女は愛で結ばれます、自動的に。なぜ、男女が一つになろうとしますか? 愛のためにそうです。愛で一つになった後に、何をしようと言いますか? 神様の祝福を受けようというのです。それが目的です。(一八四・七一)

愛にも「原器」が必要であり、それが「真の父母」だということです。

いくら原理が素晴らしくても、その実体である「真の父母が原器」です。その原器に「ピッタリ合えば、それは万世に不平を言っていた人も一時に皆離れて」行かざるを得ません。

 

”おとうさん”記事には郭錠煥氏自叙伝「事必帰正」も紹介していました。その著者・郭錠煥氏が信用に値する人物かどうかですが、これも原器に当ててみればハッキリとします。

 

「祝福権委譲宣布式」については、『祝福家庭』2000年19号(冬号)に当時のお父様のみ言等が記されています。

その冒頭からは「祝福権委譲」されたのは霊界におられる文興進様でした。

冒頭の小見出し「祝福を行う権限を興進君に伝授」となっており、顕進氏とはなっていませんでした。お父様のその時の祝祷(同P.22~)でも、興進様は何度もありましたが顕進氏は一つとして発見されませんでした。

さらには、郭錠煥氏の当時の講話からも顕進氏への祝福権移譲に関しては否定していました。

 

 

開会式での講和(郭錠煥氏)
「三時代転換一体圏祝福式」の意義

 

それで、お父様は今からは祝福をされず、興進様と顕進様を中心として祝福式を中心として祝福は行われるようになるのです。お父様は今から祝福をされなくてもいいのですが、その時がいつかについては、決定的な御言は語られませんでした。

(『祝福家庭』19号、2000年冬号 P.99)

真の父母様の「祝福権委譲式」では、実際には文興進様にされたものであって、顕進氏にはそれがありませんでした。 式典は興進様家庭を中央に立たせて、ほか代表者らが次に並びました。顕進氏はその代表者等と並んで真の父母様に敬拝を捧げられました(同P.9、P.19参照)。

このこと一つ取って見ても、郭錠煥氏「事必帰正」は顕進氏を「後継者?」として持ち上げるために「噓八百」が並べられた書物です。それを紹介している”おとうさん”もまた、同類ということですか?!