パシセラ氏よ、「神様の主権と血統」が抜けているのは貴方だ!! | peaceのブログ

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「天の父母様聖会」とは、政治、宗教、経済、学術、メディアなどのの壁を超えたコミュニティーです。
人類の父母である神様の元に人類が一つの家族となり、平和世界の建設という理念を掲げているのが、「天の父母様聖会」です。


 

今日は4月1日、キリスト教会にあってはイースター(復活祭)、教会ではクリスマスよりも盛大お祝いする日である。

 

     

1941年4月1日、お父様が初めて日本(下関・日本留学)に来られた日でもある。

 

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話を戻してパシセラ氏記事の「ラスベガスでの韓総裁のスピーチ(6)」だが、ここでもパシセラ氏の聖書音痴が目についた。

この言葉に中にすっぽりと抜けているのは、神様の主権と血統です。“真の父母”とは人間なのに、人間を神格化してしまったことにより、神様が消えて、“真の父母”から出発し真の父母で終わる、神様のように自己完結した存在となってしまっています。このような考え方がどこから生じるかと言えば、統一教会の中をみればわかることです。キリスト教の神様とメシアを同一視するメシア観を持って“真の父母”を信じた土壌が、このような考えを生み出したと見ることができます。

 

このような、“真の父母”の神格化は、呉澤龍教授だけではなくて、多かれ少なかれ、多くの統一教会員が持っていたものでした。統一教会では「御父母様は知っている」という言葉を頻繁に聞いたはずです。

 

独生女論が表に出るようになってから、統一教会では“真の神の日”のお祝いはとても小さなものとなり、年初のお祝いは、“真の父母の生誕日”から盛大に始まるようになりました。これは、“真の父母”という人間が神様に成りかわったことをことを示していると見ることができます。恐らくこのように書いたとしても、「それが何が悪い」と思う方も統一教会にはいるはずです。でも、間違っています。

 

パウロは他界してからの霊的イエス様にしか会ったことがない人で、生きていた時のイエス様を知っていたわけではありません。伝道において大きな成果をあげたのですが、それはイエス様と聖霊が霊界から働くしかない、延長摂理の時代だったからです。その延長摂理の時代に影響力を持ったパウロの教えが間違っていたと激しく批判したのが、文先生でした。でも、パウロの信仰観に基づいたキリスト教の信条に、統一教会全体は大きく影響されていて、いくら文先生がパウロを批判したとしても、それがどのように自分たちと結びつくのか、はっきり理解されていたとは思いません。こうしたことも、独生女論が出てくる土壌となりました。

使徒行伝第9章1節~ を見れば「サウロ」という人物が出てくる。

イエス様の弟子たちを迫害していた人物であったが、ある日突然に目が見えなくなりイエス様の声を聞いたのだ。

「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と。

彼はダマスコヘ行き、イエスの弟子アナニヤが手をかざすとサウロの「目からうろこ」であった。

また、「サウロ、またの名はパウロ、は聖霊に満たされ、彼をにらみつけて 」(使徒行伝/ 13章 09節)とあるように、この「サウロ」が「パウロ」であった。

このように、パウロは他界してからではなく「地上」で霊的イエス様と会われて改心した人物であった。

パシセラ氏の前回の旧約聖書だけでなく新約聖書すらの知識にも欠けていることが露呈された結果となった。

 

次に、お父様(文先生)がパウロの教えの間違いを指摘していたということだが、果たして、パシセラ氏からはお父様がどのような間違いを指摘していたのかその詳細が明らかでない。

私の記憶からは、『パウロ神学』と言われた中の「三位一体」であったと思う。

この三位一体の間違いについてはラスベガスのお母様もスピーチの中で同様に指摘していた(以下)。

さて、私はあなたにこの質問をします:「三位一体」という言葉はどこから来たのですか? カトリック教は父、息子、聖霊を語り、そうすることで通常は三角形を描きます。この用語を作成したのは誰ですか?イエスは三位一体について話しませんでした。もともと、神は天と地を創造し、彼は元の形に従ってすべての天と地を創造しました。したがって、鉱物の世界では、プラスとマイナスを見ることができます。植物の中では、雄しべと雌しべを見ることができます。動物界では、男性と女性を特定でき、天国の親は男女として人類を作りました。

あらゆる生きている生物の誕生は男性から始まらない。母親を通して誕生が可能です。天と地の創造を振り返ってみると、天の親に聖なる御父がいたならば、天の親の中に聖母もいた。したがって、現在の三位一体の定義は間違っています。天の親の中には、聖なる父と聖母、本当の親があります。これは、天国の親がどのように説明されるべきかです。そうじゃない?

それと「独生女論」とかいっての批判は、どのようにつながるというのか?

些細なことだが、まずは黄マーカーの訂正を願いたい。

 

パシセラ氏記事から「独生女が表に出るようになってからは」と、あたかもお母様が最初に「独生女」を語られていたかのような印象だが、私の過去記事ですでにお父様が百数十回もみ言葉の中で「独生女」を語っておられたことを指摘していた。パシセラ氏からはそのお父様のみ言「独生女」が現在も一つとして出てこないところに、パシセラ氏自身がそれを隠してはお母様を貶めようとする意図を感じる次第である。

 

 

このパシセラ氏主張の「”真の父母”の神格化」もまた、パウロ神学の「三位一体」とを重ねての発想でしかない。

原理講論の「キリスト論」から)。

完成した人間において、心と体とが神を中心として一つになればお互いに分離することができないように、神と完成した人間とが四位基台をつくって一体となれば、人間は神の心情を完全に体恤できる生活をするようになるので、この関係は断ちきろうとしても断ちきることができないのである。このように、創造目的を完成した人間は、神が常に宿ることができる宮となり(コリントⅠ三・16)、神性をもつようになる(前編第一章第三節(二))。このようになれば、イエスが言われたとおり、人間は天の父が完全であられるように、完全な人間となるのである(マタイ五・48)。ゆえに、創造目的を完成した人間は、どこまでも、神のような価値をもつようになる。

また、

(二) 三位一体論

 

創造原理によれば、正分合作用により、三対象目的を達成した四位基台の基盤なくしては、神の創造目的は完成されないことになっている。したがって、その目的を達成するためには、イエスと聖霊も、神の二性性相から実体的に分立された対象として立って、お互いに授受作用をして合性一体化することにより、神を中心とする四位基台をつくらなければならない。このとき、イエスと聖霊は、神を中心として一体となるのであるが、これがすなわち三位一体なのである。

 

元来、神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合性一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった。もし、彼らが堕落しないで完成し、神を中心として、真の父母としての三位一体をつくり、善の子女を生み殖やしたならば、彼らの子孫も、やはり、神を中心とする善の夫婦となって、各々三位一体をなしたはずである。したがって、神の三大祝福完成による地上天国は、そのとき、既に完成されたはずであった。しかし、アダムとエバが堕落して、サタンを中心として四位基台を造成したので、サタンを中心とする三位一体となってしまった。ゆえに彼らの子孫もやはり、サタンを中心として三位一体を形成して、堕落した人間社会をつくってしまったのである。

お母様はカトリック教の三位一体を三角形と語られていたが、パシセラ氏もまたこの三角形を描いての「”真の父母”の神格化」の主張であった。

「でも、パウロの信仰観に基づいたキリスト教の信条に、統一教会全体は大きく影響されていて、いくら文先生がパウロを批判したとしても、それがどのように自分たちと結びつくのか、はっきり理解されていたとは思いません。こうしたことも、独生女論が出てくる土壌となりました。」

と言いながらその実は、このパウロの三位一体論にハマっていたのはパシセラ氏自身であった、ということだ。

この言葉に中にすっぽりと抜けているのは、神様の主権と血統です。“真の父母”とは人間なのに、人間を神格化してしまったことにより、神様が消えて、“真の父母”から出発し真の父母で終わる、神様のように自己完結した存在となってしまっています。

 

結論:

 

このようにパシセラ氏はパウロ神学の「三位一体」 -- 三角形を描いての「独生女」批判であったために、、

神様の血統と主権がすっぽりと抜けてしまったのは、彼自身の主張に帰結することとなる。

原理講論は、四位基台の基盤の上での創造目的(三大祝福)の完成であり、真の父母様も四位基台を挙げながらパウロの三位一体を批判していたのであった。

 

 

 

 

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