パシセラ氏、「独生女理論」があれば「独生子理論」もあって然るべきだが?! | peaceのブログ

peaceのブログ

「天の父母様聖会」とは、政治、宗教、経済、学術、メディアなどのの壁を超えたコミュニティーです。
人類の父母である神様の元に人類が一つの家族となり、平和世界の建設という理念を掲げているのが、「天の父母様聖会」です。


 

「独生女理論」「独生女論」だといっては真のお母様だけでなく真の父母様批判記事そのものである。

「霊界を否定」して霊的存在のサタン自身の存在までも否定したのが最後の発悪ともいうべき「共産主義」であった。

三男派(郭グループ、UCI)もまた、この共産主義と同様のことをされているようだ?

 

真の父母様(両親)までも否定することで、三男さん自身の位置(血統)さえも切り捨ててしまったようだ。郭グループ(郭血族)として。

また、「祝福家庭」を語りながらもその位置さえも守ろうとはしていない。

 

さて、パシセラ氏仁問う。

「独生女理論」「独生女論」とは、果たして、どこに存在するというのか?

「独生女理論」「独生女論」というものがあるとすればプラスとマイナス、「創造原理」の二性性相がそうなっているように「独生子理論」もあって然るべきである。その「独生子理論」「独生子論」を見せていただきたい。

堕落論を見ても、アダムとエバ、「生命の木」とともに「善悪知るの木」について書かれていた。創造理想を完成した男性、また、創造理想を完成した女性である。

「独生子」だけがあって「独生女」はない、と言い切れるとでもいうのか、だ!!

パシセラ氏、ハッキリと答えていただきたい。

 

そもそも、私peaceが「独生女理論」という言葉を耳にしたのは2015年4月のことであった。FPA-Japanの幹部・郭炳憲(カクビョンホン)氏直接のものでありどこかの大学教授の理論だといっていたが、結論から言えば、郭炳憲氏または彼の周りの三男派メンバーによる、お母様の「独生女発言」批判のための造語でしかなかった。

 

以下は黒・天聖経(韓国語版)P.177に記載された「独生女」の一例であるが、ほかにもお父様は百数十回「独生女」を語っておられたということだ。

パシセラ氏はじめとした三男派はこのお父様の「独生女発言」を語ろうともせず(隠して)、お父様のこの元祖「独生女発言」批判をされないのか、だ。

 

 

原理講論の解釈にしてもまた、三男さんを(後継者として)立てようとするために歪曲されたものでしかない(以下に引用)。

神様が文先生を通してなそうとした摂理は、全人類に対するものでした。統一教会だけに対するものでもなく、キリスト教だけに対するものでもありませんでした。原理講論という本が、創造原理以外の部分に聖書の引用が多く、キリスト教的内容を多く扱っているのは、原理講論がキリスト教徒を対象に書かれたものだったからです。神様の摂理そのものは、全人類に対するものでした。その摂理の出発点は、創造原理と創造目的にありました。ですから、原理講論も、創造原理から始まり、創造原理と創造目的が最も重要なのですが、統一教会における原理講論の教え方は、創造、堕落、復帰の内容は全て「誰が再臨主か」を語るための道具のごとくになっていました。そして、それを受け入れた教会員たちには、神様のように神格化されたキリストに対する、キリスト教的なメシア観を、様々な超自然的な逸話を持って教会員に教え、教会とリーダーに対する服従を教えました。それは、本物の信仰と心霊を育てるよりも、教会員をベルトコンベアに乗せて、大量生産するかのような体制でした。

 

……

 

「天の摂理において、2000年のキリスト教歴史を見るとき、再臨主よりもっと重要なのは、イエス様が2000年前に誕生したように、サタンと関係の無い天の血統を持って来た独生女が誕生したことです。」

 

これは、独生女論の核心的な部分です。統一教会の中では、これを聞いても、「何が間違っているのか?」と思う人たちがすでに増えているかもしれません。でも、それは、文先生の生前に自分たちが信じて必死になってやって来たことを、捨ててしまうことを意味します。

 

パシセラ氏のこれは端的にいえば、イエス様がメシヤ(「独生子」)である必要もなく、原理講論の教えは「誰が再臨主か」を語る道具 ― 言葉を変えれば、メシヤも再臨主も必要ないものであり、すべては「創造原理と創造目的」があれば十分だという話だ。余談だが、再臨主も必要としないというのであれば、三男派の主張するところの三男さんをわざわざ中心に据える必要もなく、三男は三男としてオトナシクしてれば混乱もなかっただろうに!!

 

さらには、「その摂理の出発点は、創造原理と創造目的にありました。」のこの一文からしても大きな間違いを犯している。「摂理」が本然のエデンの園にあったとでもいうのか? 堕落ゆえに「復帰摂理」が出発したというべきところだ。よって、堕落論および復帰原理も決して軽視してはならないということになる。

 

「天の摂理において、2000年のキリスト教歴史を見るとき、再臨主よりもっと重要なのは、イエス様が2000年前に誕生したように、サタンと関係の無い天の血統を持って来た独生女が誕生したことです。」

 

この後の文では「神様の主権と血統」が出てくるが、血統は男性一人では成立しない。よって、原理講論はまた、「善の父母」による「重生」について書かれており、真の父としてのイエス様と同時に「真の母」として「聖霊」を紹介していた(原理講論「キリスト論」から引用は以下)。

我々を生んでくださるのは、父母でなければならない。それでは、堕落した我々を原罪がない子女として生んで、神の国に入らせてくださる善の父母は、いったいどなたなのであろうか。原罪のある悪の父母が、原罪のない善の子女を生むことはできない。したがって、この善の父母が、堕落人間たちの中にいるはずはない。それゆえに、善の父母は、天から降臨されなければならないのであるが、そのために来られた方こそがイエスであった。彼は堕落した子女を、原罪のない善の子女として新しく生み直し、地上天国をつくるその目的のために真の父として来られた方であった。

……

ところで、父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか。堕落した子女を、善の子女として、新たに生み直してくださるためには、真の父と共に、真の母がいなければならない。罪悪の子女たちを新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさしく聖霊である。ゆえに、イエスはニコデモに、聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない(ヨハネ三・5)と言われたのである。

 

このように、聖霊は真の母として、また後のエバとして来られた方であるので、聖霊を女性神であると啓示を受ける人が多い。すなわち聖霊は女性神であられるので、聖霊を受けなくては、イエスの前に新婦として立つことができない。また、聖霊は慰労と感動の働きをなさるのであり(コリントⅠ一二・3)、エバが犯した罪を蕩減復帰されるので、罪の悔い改めの業をしなければならないのである。さらに、イエスは男性であられるので、天(陽)において、また、聖霊は女性であられるので、地(陰)において、業(役事)をなさるのである。

このように、原理講論からも「真の母」「聖霊は女性神」--「独生女」を紹介していた。パシセラ氏はこの原理講論の記述をも否定されている!!

 

上記すべては過去記事でもパシセラ氏宛てに書いていたものである(以下)。

 

● 原理を捨てたUCI、「独生子論」隠して何になる

 

 

 

原理講論だけでなく、原理本体論に関してのお父様のみ言(Famlyの2009/1月号(P.44~)に掲載)もある。

お母様のように堕落していない本然の息子、娘を生むことができますか? それは真の父母の種を受けて一体圏にいなければ不可能です。永遠にありえないことだというのです。

UCI(三男派)は原理講論を捨てただけでなく、「原理本体論」を前にして三男さんはドアを蹴って家庭連合から出ていかれたために、三男派にはその「原理本体論」の「み言」すらないのが現実である。

原理講論について語りつつも、その実は原理批判もパシセラ氏はされておられる。

これを信じろ、とでも言われるのか?

 

 

 

 

ブログ村人気ランキング参加中。 良い記事と思われた方は、

以下のバナーをクリックしてください。