人生はとても短い。

ほんの一瞬にすぎない。

 

まばたきほどのあっという間の人生だ。

 

だから、他人の人生を生きてはならない。

人生の時間の無駄遣いになるから。

 

他人の人生を生きるとは、世間体なるものに惑わされること。

 

とても、つまらない、もったいない生き方のことだ。

 

 

 

 

 

情報を共有するために立ち上げていたグループLINEがある。

 

友人たちに呼びかけて集まった会合を受けて立ち上げたのだから、もう8年くらいになるだろうか。結構な人数の気の置けない仲間たちの集まりだ。有難い有益な情報やそれぞれの近況などがアップされている。

 

そのメンバーのひとりが先日、「退会しました」になっていた。来るもの拒まず去るもの追わずの会なので私はなんとも思っていなかったのだが、何人かのメンバーは「えっ、なんで辞めたの」と気にしていたようだ。

 

「アップされた記事にムッとして辞めたのでは」とか「〇〇さんへのあてつけで退会したのでは」と、一部のメンバーで話題になっていたのだという。

 

そのザワつきぶりを、別の要件で電話をかけてきた友人が面白おかしく話してくれた。事の顛末は、本人に「なんで退会したの?」と連絡したところ、「退会した覚えはない」とのことだったらしい。それで改めてその友人がグループLINEに招待して再加入させたとのことだった。

 

電話を終えてLINEをみると再加入のメッセージがアップされていた。

 

ちょっとした操作ミスから、いろいろな詮索や憶測で勝手にザワついたという笑えるオチだった。結局は周りが勝手な憶測でザワついただけで、なんら意思の存在しない操作ミスが引き起こしたハプニングだったというわけ。

 

SNS上で悪意のフェイクがヒト社会を歪める昨今。そっちのやつは笑えない。


 

 

”人生はままならない”というのは自分への言い訳。

 

「そうしよう」とか「そうあろう」とする執念がなかっただけのこと。それを認めると自分がみじめになってしまうので、そんな言葉でごましてきた。

 

ここだけのこととして素直にふりかえって、肝心な場面で物事を成しとげるために執念をもって必死に挑んだかと自問してみると、「はい」と答えられることなどない。適当に流し、ちょっとだけ器用に対応すれば何とかこなすことができた。

 

もっと、じっくり振り返ればひとつくらいはあるのかもしれないが、いま思い起こしても必死に執念をもって全力で挑んだことなどない。「随分お粗末で勿体ない生き方だなぁ」と笑われるだろうが、正直、そうなのだ。

 

ただ、周りにいる仲間や友人たちからは、そんな風には思われてなかったと想う。そう自信をもって言えるほど、はったり上手だった。いつも一所懸命そうに見せ、必死で物事に挑んでいると思わせるのがうまかった。ついでに厚かましくプチ自慢すれば集中力だけは誰にも負けないという自惚れがあるくらい、ごまかしてきた。

 

「努力」とか「必死で」とか「苦労」などは私のポケットにはない。だから、当然のこととして、思い通りにならないままならぬ人生となってるのは当たり前の結果。

 

夢中になったのは恋とゴルフともうひとつくらい、かな。その恋多き人生も相手に恵まれ救われただけのこと。お粗末なヤツだったのに素敵な女性(ひと)との巡り会いを沢山もらった。あっ、ある意味これは執念があったと誉めてやれる要素か。

 

せめて、そんな夢中さを人生の勝負所で発揮していれば、”ままならない”は少なくなっていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

このブログのタイトルの「bis」は、かつて一緒に暮らしていた全身が真っ黒のアメリカンコッカースパニエルのビスくんの名前から拝借したもの。

 

犬好きはみんなそんな風に想っているのだろうけど、ビスはとっても賢かった。人間たちの会話を横でじっと聴き入り、理解できない箇所になると首をかしげていた。特に話題がビスくんのことになると、しきりに首をかしげて話している人をじっと見つめるのだった。

 

ルールを破ってしまって、教育的指導を受けているときは、まっすぐ目をみつめて、これまた実に神妙そうな表情で首をかしげて反応してくる。そう、とても賢い。

 

だから、一方的に叱るよりも、対等に人格を認めたうえで、ダメなことの理由を丁寧に語ってやると首をかしげながらちゃんと聴き入っていた。

 

ただ、とびっきりの食いしん坊だったので、食べることの失敗はちゃんと話しても、神妙そうな顔で聴いてはいたが、さっぱり効果はなかった。笑えるほどにだ。

 

春先のある日のこと。好物ばかりを詰め込んだ手作り弁当を車につんで、ちょっとしたピクニック気分でフキノトウを取りに行ったことがある。フキノトウがありそうな場所につき、ビスくんは乗せたまま側道に車を停めて探しにいった。20分ばかり探すも早すぎたのか採れなかった。そして車にかえってみると、布で包んでいた弁当箱は器用にも見事に開けられ、二人分の揚げ物や出汁巻き玉子などのおかずはすべて食べられていた。具沢山の大きな山賊むすびもほぼ食べられていた。

 

「ビス!」と叱ると、目をそらして舌舐めをしながら不満そうな表情をしている。反省どころか逆切れしたかのような低い声まで(笑)。食い物の恨みは犬も人も一緒だということ、他人の食べ物を横取りするのは一番ダメなやつということも、賢いはずのビスくんは理解できていない。楽しみにしていた弁当を横取りした罪深さを反省するそぶりはゼロ。呆れて大笑い。

 

我が家では、あの日の”弁当泥棒事件”は後に何度も大笑いする鉄板ネタとなった。

この鉄板ネタで大笑いしながらビスくんにむかって「弁当泥棒くん」と呼んでやると、気まずそうな顔をしていたから、叱られたときはバツが悪くてとぼけていたのかもしれない。やっぱり賢かったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「今どれくらいかな?」と軽い気持ちでネットに車見積もりを入力した。

 

買い取り額をざっくり知りたかっただけなのだが、たちまち買い取り専門店からメールと電話が入ってきた。申し訳なくて「相場を知りたかっただけなので・・」と事情を伝える。

 

それでも1社は「ちょうど近くに担当スタッフがいるので見積もりだけでも・・」と丁寧な応対。「現車を見て正確な値段をお知らせします」ということになった。

 

若いスタッフは感じのいい方で10分くらいでチェック終了。今の中古車市場のことなども話してくれた。そして1時間後にはメールに買い取り額の通知がきた。その価格は想っていた以上の金額だった。

 

その業者さんからはその後は連絡は一切なし。軽い気持ちで入力してしまい、迷惑をかけてしまった。

 

私の方は想っていた以上の買い取り額に触発されて買い替えを考え始めている。問題なのは欲しくてたまらない乗りたい車が思い浮かばないこと。ビビッとくる車よ現れてくれ。

 

 

 

 

郷里にある柚子の畑。

 

この辺りは、”ゆずの里”とよばれ大ぶりの香り立つ柚子が豊かに実る。柚子の畑は几帳面な姉の夫のおかげでとても綺麗に手入れされている。毎年、11月末頃にお裾分けにあやかりに行く。

 

去年も柚子は豊作で、鮮やかな黄色の大きな柚子をたくさん貰った。むいた皮は小さく刻み冷凍にして料理につかい風味を愉しむ。柑橘をしぼる小さな器具でポン酢をとりこれも冷凍保存にして料理に使い重宝している。

 

柚子の実には大きな種がたくさん入っている。その種をグリセリンに漬け込んで美容液にする。皮の下にある白身の部分は栄養価が高くジャムなどに調理する。だから柚子の実に捨てるところはない。

 

そんな一連の作業を終えて、ふと想いつき遊び心で大粒の種を選んで12個ほど、バルコニーにあるバラのハチの端に埋めておいた。

 

すると、この春に芽を吹いた。几帳面に12本も。5センチくらいになったところで小さいプランターに移した。すくすく伸びて15センチくらいに育ったので2本を残して、この前、墓参りを兼ねて里へ行き空き地に植えてきた。

 

「桃栗三年柿八年、柚子の大馬鹿十八年」そんな諺が郷里にあった。あの小さな苗木が実をつけるのは18年先のことなのだろうか。息の長い楽しみができた。

 

 

 

 

 

ワクワク感の少ない日々だと一日が早くすぎる。

 

というわけで、今年もあっという間に6月になってしまった。低い鉛色のどんよりした雲がたち込める梅雨入りらしい空を眺めながら、そんなことを想っていた。

 

そうそう、とても気がかりだった事は、思わぬ急な展開で解決したと連絡が入った。電話の向こうの弾んだ声が好転のボリュームを物語っている。よかった、よかった。

 

もうひとつの気がかりな件は、好転の兆しすらない。窓の外のこの空のようだ。

 

そういえば、去年はアクシデントの当たり年だった。長年の友ふたりと立て続けに決別する破目に。まっ、そんな年もあるのだろうと、あきらかにながめた。それと較べれば今の気がかりは可愛い。そのうちに解けていくにちがいない。

 

去年の後遺症からか、夢中になれるようなワクワクがやってこないかと、むしのいいことを想っている自分が、ちょっと哀れでおかしくもある。

 

 

 

 

 

お気に入りの楢材のテーブル。

そのテーブルに小さな観葉植物を置いている。

 

この前、水をやり過ぎてしまったのを気づかず、鉢の受け皿から水があふれ、受け皿の下に敷いていた黒い革が濡れたままで数日が過ぎてしまった。そのせいでテーブルの盤面に黒いシミがくっきりと出来てしまった。

 

水拭きしてもとれない。サンドペーパーをかけたり色々と試したが黒いシミが目立つまま。万策尽きて最後の策で、ペーパーに漂白液を染み込ませてシミの箇所へ張ってみた。数分そのままにして見ると、濡れているうちは変化はなかったのだが、乾いたらシミはほとんど目立たなくなった。

 

だが、今度は漂白液を張り付けた箇所が白くなり、オイル仕上げの茶系の風合いが台無しになってしまった。過ぎたるは及ばざるとはこんなことか。

 

目につくたびに気になるので、今日、ホームセンターでナチュラルカラーのオイルを手に入れた。テーブルの盤面全体を同じように処理して、その後でオイルで拭いて仕上げれば元の状態になるのではと想っている。思惑通りに成功するか、さらに悪化させてしまうのか、さてさてどうなることやら。

 

そうそう、オイルが3倍ちかく値段が上がっていてびっくりした。何もかも高騰してしまい、円の価値はどんどん下がるばかり、ムッとする。

 

 

 

 

大相撲ファンとまではいかないまでも、応援する力士はいる。

 

その一人が大関の安青錦、そして横綱大の里。なのだが、その二人ともが今場所は休場している。先ほど中継を観たがどこか寂し気だった。

 

先場所、一気に横綱に上り詰めると思っていた安青錦が怪我でよもやの負け越し。母国のウクライナが戦禍にあるだけに期待して応援していたが叶わなかった。

 

真正面で巨体がぶつかり合う真剣勝負の大相撲。コンクリートのような土俵に投げ飛ばされたり、高い土俵から後ろ向きに転落したりと、怪我がつきものだ。登場する力士を見ていてもサポーターのない力士はいないくらい怪我とも闘っている。

 

伝統を重んじる大相撲の精神は理解できるが、スポーツとしてみれば土俵のそれは力士の怪我への配慮はまったくない。土俵上での怪我であっても休場すれば番付が格下げされてしまう。だから力士たちは無理をしてでも出場し、怪我を悪化させ古傷になってしまうという悪循環に陥る。力士生命に及ぶこともある。

 

かつて、八百長相撲が問題となっていた頃と較べれば、今の真剣勝負の激しいぶつかり合いと緊張感は相撲ファンにはたまらない。そうであるだけに、もっと怪我への対策を近代化して、力士を怪我から守ることや、怪我を完全に治すために救済措置もいるのではないか。

 

力士ファーストが角界にもいるのではと、TV観戦をしながら想った。

 

 

 

 

痛点の密度で性格が決まる、のか。

 

熱いものを触ってもケロッとしている心友。その心友に驚いたことがある。旅先で自転車で一緒に走っていた時のことだ。車道から走行可能な歩道へ進路を変えようとしして、私は難なく乗りかえたのだが、心友は派手に転んでしまった。

 

心友の自転車は持ち運びができる折り畳み式でリムがとても小さかった。心友ご自慢のアルミ製の自転車は輸入車でRENAULTのロゴ、超軽い。折りたためば専用のバックに収まる。だが軽量のためのアルミ製の小さなリムがよもやの災いの元となってしまった。そのせいでわずかの段差にタイヤをとられてしまい転んだのだ。

 

脛を激しく打ったようで、擦りむき出血していた。なのに、心友はものともせずケロッとしている。「痛点が少ないけぇ大丈夫」と笑って見せる。これが私なら、病院に連れてってくれと愁訴していただろう。いやはや、超人なのかと思わされた。

 

その心友には他にも痛点の少なさがなせる武勇伝がある。BBQを楽しんだときのこと。熱いコンロを平気で素手で触っているので、大丈夫なのだと真似た私は火傷してしまい、笑われた。包丁で指を切り出血しているのに、これまた平気でケロッとしている。したたる血をみて気分の悪くなった私をみて、痛点自慢をしながら笑っていた心友であった。

 

痛点の少ない心友はそのまんまの性格で極めて楽観的。予防接種の注射にさせ生汗を流すような痛点の多い私の性格とは真反対だ。目の前で展開している不幸さえもポジティブに捉える。セロトニンが少ない日本人が圧倒的に多いのに、凄く稀な性格の持ち主なのである。

 

融通無碍を素で流し、貯えなどには興味もなく、「なんとかなるよ」で日々の人生を愉しむ。そんな奴。

 

どうやら、人の性格は痛点の密度が決めるみたいだ。