7年前に書いた文章を貼り付けます その2
「頭頭(とうず)」
企画・構成・出演松本人志によるビデオ。最初から最後まで意図的に笑いの要素を除外してある。父親を老人ホームに入れるかどうか悩んでいる溶接工(松本)とその一家、その弟2人の日常を描く。このビデオの主役は松本考案になる「頭頭(とうず)」という変わった食べ物である。人間の形をした海産物の頭部を切断し、髪の毛をむしって食べるというグロテスクな食べ物。頭のてっぺんの部分の髪の毛は甘く、側面は苦い。八百屋やコンビニでも売っている。
何気ない日常生活の中に潜む醜い部分や残酷さが赤裸々に、しかし淡々とさりげなく描写され、その日常の風景の一部として完全に同化した「頭頭(とうず)」という食べ物がある。この極めてグロテスクな物体に何の違和感も覚えず過ごす人々。
登場人物は、皆全く普通の人間でありながら、どこか歪みを抱えていることを感じさせる。しかしその歪みははっきりとは描写されない。夫の父親を老人ホームに入れることを要求する妻。おじいちゃんを慕っているように見えて、老人ホームに入ると聞かされるや否や自分の部屋ができたと喜ぶ息子。コンビニで働きながらOLのヒモのような生活をしている弟(今田耕二)。小学校の教師をしている独身の弟(板尾創路)。
妻、息子の身勝手さ、残酷さは分かりやすい。弟(今田)の持つ歪みは兄弟との会話の端々や車をバックでぶつけてしまう場面などに描写されている。もう一人の弟(板尾)の歪みが一番分かりにくいが、板尾の存在そのものがそれを表現している。希有な役者である。溶接工(松本)は悪人ではないが、結果的に老人を死へと追いやる直接の原因となる言葉を告げたのは彼である。
人間の持つどうしようもなさ、日常の中に潜むグロテスクさに目を向ける松本の視点はある意味でビートたけしのそれに酷似している。映像の撮り方そのものにも彼の影響がどことなく感じられる(松本はたけしの映画を高く評価している)。このビデオ作品は小品に過ぎず、本格的な映画には内容としても及ばないが、松本が本気で映画を撮ったらどうなるかは何となく想像できる。
ビデオの最後には松本、今田、板尾による雑感的フリートークが収められている。松本はこのビデオはあくまでも視聴者の期待を裏切ることを狙ったと言う。笑いを意図的に除外したのはこのためである。「笑いにならない笑い」を目指したと彼は言う。
このビデオを見るかぎり、笑いとは正反対のストーリーである。しかし、松本が言いたかったのは、「この現実を見て笑うことができれば、笑いにできないものは何もない」ということであったのかもしれない。松本はこのビデオ完成の記者会見の時「人生にハッピーエンドはあり得ないと思っている」と発言している。
一番最後に松本が中華料理屋で、五目そばとして出された「頭頭(とうず)」を見て「何で髪の毛入ってんねん!」と怒鳴る場面でこの物語は終わる。松本はこれを「1時間かけてボケて最後に自らつっこむ高等テクニック」と評している。
ダウンタウン「ごっつええ感じ」企画評価(5段階絶対評価)
「Mr.オクレを探せ!」(5月4日オンエア)
吉本の事務所に謎の留守電を残して失踪し、白人女性と共に富士急ハイランドに逃げ込んだMr.オクレをダウンタウン等が捜索する。
評価:オクレのキャラクターを除けば取り立てて笑う要素がなく、企画そのものが面白味に欠けた。E。
「まことに一発ギャグを!」(5月4日オンエア)
個性の強いメンバーの揃っているシャ乱Qの中でどうも影が薄いドラムの「まこと」の相談に応じて、彼のために起死回生の一発ギャグを考えるレギュラー陣。
評価:まことのとぼけたキャラクターを生かそうとメンバーが奇抜なギャグを考える過程の面白さを狙った企画の意図そのものは成功しているが、素材の限界もあって強烈に笑えるというわけではない。C。
「松本人志スーパー記憶術」(5月11日オンエア)
松本が100人の素人にあだ名をつけ、顔とあだ名を全員一致させる。
評価:松本一人にすべてがかかっている企画だったが、随所に見事なひらめきを見せ、地肩の強さを示して、一歩間違うと退屈この上ない企画を最後まで飽きさせなかった。骨折のため動けない浜田のツッコミもいつもながら松本をうまくサポートしていた。A。
「点数をつけよう」(5月18日オンエア)
物や特技など、無作為に選んだものに各界の著名人10人が点数をつける。
評価:企画そのものは安直なので、審査員を務める各界著名人とダウンタウンとの絡みがポイントだったが、お互いに距離を縮めることができなかった感は否めない。ゲストの芸も空振りが多かった。D。
「ごっつレギュラー選考面接試験その1」(6月1日オンエア)
「ごっつええ感じ」のレギュラー獲得をかけて、メンバーが面接官となって候補タレントを面接する。今回の候補者は笑福亭鶴瓶。
評価:先輩芸人を正面からいびるという、ダウンタウンにしかできないギリギリの企画。吉本の幹部を真似た松本の演じる冷酷な面接官がリアルで、容赦なく浴びせる鶴瓶への厳しいコメントが背筋の寒くなるような笑いを生んでいた。A。
「ごっつレギュラー選考面接試験その2」(6月8日オンエア)
メンバー面接2回目。今回の候補者はガッツ石松。喋り、物真似、漫才、演技力、アドリブ能力などを審査する。
評価:前回と同様の趣旨だが、相手がガッツ石松ということもあって、DTのツッコミも鶴瓶の時のような鋭さに欠けた。C。
「ダウンタウンの間に入りまショウ」(6月15日オンエア)
今田、東野、板尾、蔵野のレギュラー陣が「ダウンタウンの間に入る」ために様々なゲームを行うが、今田だけ間に入ることができない。ふてくされた松本と浜田をとりなそうとするメンバー。収録現場には緊迫した空気が漂う。
評価:「メンバーいじめ」ネタの新たなバージョンで、これまたダウンタウンにしかできないギリギリの企画。どこまでがマジでどこからが演技かの境界線が見えない緊張感が最後まで持続した。今田の好演(半分本気?)が光る。A。
「ごっつプロレス開幕第一戦 ダウンタウンが橋本と対決!」(6月22日オンエア)
日本プロレス界に風穴を開けるべく旗揚げした「ごっつプロレス」。開幕第一戦の相手はチャンピオン橋本。お膳立ては整っているのに、ダウンタウンの2人はなんだかんだと理屈をつけてリングに上がろうとしない。
評価:前回に引き続き、ダウンタウンが性格の悪いわがままな大物タレントを演じる(そのまま?)。緊迫感は前回には及ばないが、DT(特に松本)の引き出しのバリエーションは多様で、見るものを次々に新たな笑いへと誘う。今田、板尾、東野等もしっかり脇を固めていた。B。
「山田花子のプロポーズ大作戦」(7月6日オンエア)
シャ乱Qのつんくが好きだという山田花子が女としての魅力を磨くために様々なゲームに挑戦する。
評価:ダウンタウンが楽をするためとしか思えない安直な企画。こういうのが続くと彼らの今後が危ぶまれる。E。
「すれ違いにらめっこ」(7月6日オンエア)
変装したメンバーが2組に分かれてオープンカーに乗り込み、すれ違う瞬間にお互いを笑わせるというもの。
評価:最後まで笑える場面がなかった。悪い意味で内輪で遊んでいるだけ。E。
「メカライオン対ライオン」(7月13日オンエア)
メカライオンと本物のライオンを戦わせる。
評価:低俗なだけで何の面白味もない。金の無駄。最悪の企画。E。
「ごっつレギュラースカウトキャラバン第3弾 八代亜紀編」(7月13日オンエア)
八代亜紀のリアクション、ギャグ、変装芸などを審査する。
評価:ツッコミが甘く、これまでの中で最もつまらないものになっている。D。
「仮面ライダーと遊ぼう」(8月3日オンエア)
藤岡弘を鬼にして鬼ごっこをする。シリーズ化される。
評価:レギュラーの苦しむ表情が見物らしいが、たいして面白くはない。D。
「エキセントリック少年ボウイのテーマ」
8月位から番組の冒頭とエンディングに流されるようになったテーマ音楽。テーマだけで実際のストーリーはない(今のところ)。ナンセンスでシュールなギャグが散りばめられた歌詞は松本の真骨頂とも言えるもので、久々に笑える歌を聞いたという感じ。皆でわいわいやりながら作っていく様子が目に浮かぶようである。ただ毎週毎週2回ずつ繰り返し流されると少し辛いものがある。しかしこれは視聴者の頭にたたき込む目的があったことが後に判明する。後からじわじわ来る笑い度B。
「エキセントリック少年ボウイ エンディング・テーマ」
番組の最後に流れるようになったエレジー。メロディーはもろ四畳半フォークで、ひねり度合いはそれほど高くない。C。
「エキセントリック少年ボウイCD発売記念 3番をつくろう」(8月30日)
CDの発売を記念して、3番の歌詞を皆で作ろうという大喜利の企画。企画の制作過程をそのまま放送しようというもので、それなりに面白かった。個人的には「〇〇〇なのはエキセントリック少年ボウイ いるからさ」のお題に対する答が一番面白かった。B。
「板尾レポーター おかんの寝起きどっきり報告」(8月30日)
板尾創路が久し振りに実家に戻ってハンディカメラでおかんの寝起きをレポートする。以前彼の実家で親父と相撲を取るという企画があったが、ここの父親は松本によれば少し「イタい」。今回も仕掛人であるにもかかわらず板尾が部屋に入った時には親父は爆睡していた。何とも言えない笑い度B。
「写真にらめっこ」(8月23日)
城南電機の宮路社長を被写体に、2チームに分かれて写真で笑いを競う。ハイレベルな争いだったが、浜田・今田・板尾チームの発想がやや上回っていたような気がする。それにしても宮路社長もよくやる人だ。半ば呆れつつも爆笑度A。
DTについては、その笑いを分析したものから、松本、浜田個人に関する評論や暴露本まで多数の書籍が出版されている。そのほとんどは彼らに共感する人々によって書かれたものだが、中には彼らの笑いをいじめを助長し、子供に有害な影響を与えているとして真っ向から非難するものもある。最近の読売新聞でも「ごっつええ感じ」の企画(「間に入りまショウ」と「橋本真也とのプロレス対決」)を巡って相反する意見が読者から寄せられ、論争に及ぶかと思われるところまでいった。
DT反対派の意見を要約してみると大体次のようになる。
①「訳がわからない。何が面白いのか分からない。」
②「態度が傲慢。先輩を敬うという感覚がない。」
③「自分たちで楽しんでいるだけ。笑いが閉鎖的。」
④「浜田のゲストをゲストとも思わない激しいツッコミや暴力的な言動が不快」
⑤「松本の笑いには悪意があり、本質的に陰湿なものである」
⑥「明らかにいじめとしか思えない企画がある。」
→ ① いじめられる芸人がかわいそう
② それを見た子供たちに悪影響を与える
これらの批判は、DTの目指す笑いの質そのものに関わる問題を含んでいる。松本自身は彼の著書「遺書」と「松本」の中でいくつか批判に対して反論しており、本人たちの言葉を参考にしながら、これらの批判について順に検証していくことにする。
①「訳がわからない。何が面白いのか分からない。」
松本は著書の中で「俺の笑いが分からないのは分からない奴のオツムが悪いから」と反論している。身も蓋もない議論と言ってしまえばそれまでだが、彼らの笑いを理解し、面白いと思っている人々がいる以上(それも非常にたくさん)、「分からないから駄目だ」という意見はそう言う人の主観でしかないと言わざるを得ない。
②「態度が傲慢。先輩を敬うという感覚がない。」
これはDTがデビューの頃から一貫して受けてきた批判であることから、少なくとも彼らが売れてから傲慢になったのではないことは確かである。傲慢というのは自信の一面であり、自分の才能に自信を持っていない芸人など芸人たるに値せず、というのが彼らの持論でもある。それに彼らが誰に対しても全く礼儀を知らない振る舞いをするほど愚かではないことも確かである。もしそうであったなら、とうの昔にこの世界から干されているだろう。特に浜田は上下関係に厳しく、先輩に礼儀正しいことでは有名である。
③「自分たちで楽しんでいるだけ。笑いが閉鎖的。」
DTの番組には確かに内輪の芸人をいじって笑いを取る企画が多い。「ごっつ」の企画はほとんどがそうだし、「ガキの使い」のオープニングはすべてそうであると言っても過言ではない。また彼らが今田、東野、板尾などの若手とつるんで一種「お笑いエリート集団」的な閉鎖的なグループを形成していることも事実である。しかし、だから彼らの笑いが閉鎖的で、自分たちが楽しんでいるだけだと言えるかどうかという点は検証の余地がある。ここで彼らの笑いの特徴について少し考えてみることにしよう。
松本の笑いを一言で表現すれば、「計算された天然ボケ」であると言える。これは一見明らかに逆説的な表現だが、DTのフリートークを聞いたことのある人なら、言わんとしていることの意味は分かるはずだ。つまり彼は、明らかにあり得ない状況を本気かギャグか分からないように語ることの達人なのである。これは彼のコントの作り方、そして企画の作り方にも通じるやり方である。特に企画の中で、彼らの最も優れた笑いは、常に本気かヤラセか見分けがつかないギリギリの場面で生まれる。その最たる例が「ガキの使い」の人気(?)シリーズ企画「岡本マネージャー怒る!」であり、最近の「ごっつ」で賛否両論の嵐を巻き起こした「間に入りまショウ」であり「橋本真也と対決」企画であった。これらの企画が成り立つためにはDTと絡む役者たち(マネージャー、今田、東野、板尾等)がDTの笑いのツボを完全に理解していることが必要である。
少しもって回った説明になったが、要するに彼らの笑いの性質上、また高度な笑いを追求していくためには、ある程度内輪で行うことはやむを得ないといえる。その結果、彼らの笑いは「自分たちだけで楽しむ」ものではなく、彼らと感性を同じくする者たちにとっては実にエンターテイメント性の高い普遍的な作品に仕上がっているのである。
④「浜田のゲストをゲストとも思わない激しいツッコミや暴力的な言動が不快」
これは②の批判にも通じるものがあるが、浜田のツッコミが芸として名人の域に達していることは多くの人が認めている。「芸」と言うのは、エンターテイメントとして成立していると同時に、つっこまれたタレントが本気で腹を立てることのないような配慮がなされている、ということである。実際浜田のツッコミはあまりにも芸として見事に完成されているので、時代がたてば古臭くなってしまうのではないかと思えるほどだ。また、一時期DTの影響を受けた若手芸人が過激なネタや激しいツッコミを真似るのが流行ったが、すぐに廃れてしまったのは、「芸」になっていなかったからである。浜田のツッコミの芸を不快に思うのは、危険なサーカスの芸や手品を嫌がる心理に通じるものがある。
⑤「松本の笑いには悪意があり、本質的に陰湿なものである」
これは一面の真実をついている。タモリやたけしを見ても分かるとおり、一流のお笑いタレントというのは、皆クールでニヒルな、ある種の「暗さ」を抱えているものだ。だが松本の場合、タモリのシニシズムや初期のたけしの毒とは違った、別種の「悪意」を感じさせる。その悪意は時にコントなどで醜悪な形で現れることもある。正義の味方が子供をめった切りにしたり、スーツで決めて登場した刑事に弾丸を雨あられのように浴びせるコントはどう見ても笑えないが、たけしの映画に見られる暴力シーンにも同種の情念を感じないでもない。松本のお笑いの根っこにはルサンチマンがあるのは本人も認めている通りであり、彼は人に嫌われるリスクを覚悟で笑いに魂を売った男である。ただ一つ言えるのは、彼がまったく愛すべきところのない男であったならば、成功することはできなかった
だろうということだ。
⑥「明らかにいじめとしか思えない企画がある。」
→ ① いじめられる芸人がかわいそう
② それを見た子供たちに悪影響を与える
世のDT批判のポイントはこの点にある。すなわち、DTの笑いがいじめを助長しているという批判である。①については、松本の「遺書」における反論に付け足すものは何もない。②については、微妙な問題を含んでいるので、慎重に論ずる必要がある。この点について、まず「ダウンタウンの笑いを読む」(×××著)という本の中で非常に的を得た議論が展開されているので、是非同書を参照されたい。
10月14日、「ダウンタウンのごっつええ感じ」が10月いっぱいで打ち切りになることが決定した。理由は、9月28日の「ごっつええ感じ 2時間スペシャル」が松本の了解を得ず急遽ヤクルトの優勝決定戦に差し替えられたことに松本が激怒し、フジでDT及び松本が持っている番組(「ごっつええ感じ」、「ヘイ・ヘイ・イ」、10月スタートの「一人ごっつ」)をすべて降りるとフジ側に申し入れたため。吉本を間に介した松本とフジの話し合いの結果、「ごっつ」は打ち切りとし、「ヘイ・ヘイ・ヘイ」と「一人ごっつ」は続行するという結論に達した。10月の番組改編直後にゴールデンタイムの番組
が打ち切りになるというのは前代未聞の事態だという。
この「事件」に対して今後しばらく様々な意見、批評、批判、罵詈雑言が飛び交うことだろう。「またか」という感想もあろう(松本は以前にもTBSの番組を「スタッフのレベルが低い」と言って降板し、以後TBSとは絶縁状態になっている。また「客のレベルが低い」ことを理由に「笑っていいとも」のレギュラーを降りた話は有名)。松本よくやったという人はどのくらいいるのだろうか。
これを「局側の横暴な論理に立ち向かう芸人の意地」と見るか「売れたタレントの頭に乗ったわがまま」と見るか。実は松本は「ごっつ」を止めたがっていて、止める理由を探していたのかもしれない。「今回の事件でフジ制作側との信頼関係が崩れ、100%のボルテージで番組に取り組むことができなくなった」というのが松本の公式のコメントである。
最近の「ごっつ」はコントの数が激減し、企画も投げやりなものが目立ってきた。視聴率もピーク時から低下の一途を辿っており、番組として行き詰まっている感は否めない。今年DTが初めて司会を務めたフジテレビの「27時間テレビ」の平均視聴率は10%ギリギリで、これに不満を感じた松本は9月28日放送の「ごっつ2時間スペシャル」にすべてを賭けていたと言われる。
「スペシャル」は翌週10月5日に放映されたが、コントは全く無く企画オンリーで、よみうりランドで行われた「エキセントリック少年ボウイ」のライブを最初と最後にフューチャーし、間には「写真バトル」「藤岡弘と遊ぼう(最終回)」「山田花子公開お見合い」「志村けんと浜田ゴルフマッチ」「パフィーを交えたパイ投げバトル」等以前にやったことのある企画が並んだ。松本が力を入れて作ったと言われるだけあって、どれも出来はよく、最近の企画の中ではかなり面白かったと言える(間に唐突に入った浜田と志村けんのゴルフ対決だけは気の抜けた企画だったが)。
松本自身のコメントによると、フジが番組を差し替えたこと自体は全く構わないが、事前に何の連絡もなかったことが許せなかったという。「自分が魂を入れてつくったものを勝手にオクラ入りにされたことへの怒り」ということのようだ。真剣に仕事をしている者なら自分の気持ちは分かってもらえるはず、という。また、自分はフジに対して怒っているのであり、吉本には何の含みもないことを強調している。
一旦はフジの番組を全部降りると主張したにもかかわらず、「ヘイヘイヘイ」と「一人ごっつ」は続けることにした理由については、「自分の中のバランスを取る上で、その方が得だと判断したから」と、やや歯切れの悪いコメントを残している。
現在「ガキの使い」では思いつきの即興的な笑いに取り組んでおり、それとは別に、考え抜き、計算された笑いをつくっていく場も必要だと松本は言う。「一人ごっつ2」はコントを含めこれまで以上に実験的な笑いに取り組むための場として残しておきたいということだろう。確かに現時点で5回分の放送を見た限り、非常に試行錯誤しながら作っている跡がはっきり伝わってくる。
最近ダウンタウンは志村けんなど年上のコメディアンとも仕事をするようになった。松本はビートたけしの雑誌で初めてたけしと対談した。内容的には、すでに第一線を退いて開き直った大御所芸人と現役のトップランナーとして新しいことに挑戦することを義務づけられた男との対話という構図に忠実に沿った形で展開し、若手でもベテランでもない中途半端な年齢にあって少し迷いを見せている松本の微妙な位置を窺わせるものであった。
最近の「一人ごっつ」で多用されているコーナー(ネタ)に、松本が桂三枝に扮して日用品を紹介する「新婚さん聞きなっしゃい」がある。これは昨年末から毎週のように放送されており、内容的にもセリフに若干のバリエーションがある他はほとんど変化がない。
「ごっつ」でも一時期松本と浜田で桂三枝のパロディー・コントをしつこくやり続けたことがあったが、松本は三枝に何か含みを持っているのだろうかと思わせるほどの執着ぶりである。物真似としては全く似ていないのだが、何か無意識の領域に訴えかけてくるものがある、癖になるコントである。
「一人ごっつ2」はとりあえず平成10年3月をもって一旦終了した。当初は一人コントなどで力の入った番組を見せていたが、次第にテンションが下がり、最後の方は内輪で単純なゲームをやって遊ぶだけというていたらくであった。松本本人は「この笑いが分からない奴が悪い」と開き直っているのだろうが、客観的に見れば明らかに手抜き(或いはアイデアの枯渇)以外の何物でもない。最後の数回に
企画・構成・出演松本人志によるビデオ。最初から最後まで意図的に笑いの要素を除外してある。父親を老人ホームに入れるかどうか悩んでいる溶接工(松本)とその一家、その弟2人の日常を描く。このビデオの主役は松本考案になる「頭頭(とうず)」という変わった食べ物である。人間の形をした海産物の頭部を切断し、髪の毛をむしって食べるというグロテスクな食べ物。頭のてっぺんの部分の髪の毛は甘く、側面は苦い。八百屋やコンビニでも売っている。
何気ない日常生活の中に潜む醜い部分や残酷さが赤裸々に、しかし淡々とさりげなく描写され、その日常の風景の一部として完全に同化した「頭頭(とうず)」という食べ物がある。この極めてグロテスクな物体に何の違和感も覚えず過ごす人々。
登場人物は、皆全く普通の人間でありながら、どこか歪みを抱えていることを感じさせる。しかしその歪みははっきりとは描写されない。夫の父親を老人ホームに入れることを要求する妻。おじいちゃんを慕っているように見えて、老人ホームに入ると聞かされるや否や自分の部屋ができたと喜ぶ息子。コンビニで働きながらOLのヒモのような生活をしている弟(今田耕二)。小学校の教師をしている独身の弟(板尾創路)。
妻、息子の身勝手さ、残酷さは分かりやすい。弟(今田)の持つ歪みは兄弟との会話の端々や車をバックでぶつけてしまう場面などに描写されている。もう一人の弟(板尾)の歪みが一番分かりにくいが、板尾の存在そのものがそれを表現している。希有な役者である。溶接工(松本)は悪人ではないが、結果的に老人を死へと追いやる直接の原因となる言葉を告げたのは彼である。
人間の持つどうしようもなさ、日常の中に潜むグロテスクさに目を向ける松本の視点はある意味でビートたけしのそれに酷似している。映像の撮り方そのものにも彼の影響がどことなく感じられる(松本はたけしの映画を高く評価している)。このビデオ作品は小品に過ぎず、本格的な映画には内容としても及ばないが、松本が本気で映画を撮ったらどうなるかは何となく想像できる。
ビデオの最後には松本、今田、板尾による雑感的フリートークが収められている。松本はこのビデオはあくまでも視聴者の期待を裏切ることを狙ったと言う。笑いを意図的に除外したのはこのためである。「笑いにならない笑い」を目指したと彼は言う。
このビデオを見るかぎり、笑いとは正反対のストーリーである。しかし、松本が言いたかったのは、「この現実を見て笑うことができれば、笑いにできないものは何もない」ということであったのかもしれない。松本はこのビデオ完成の記者会見の時「人生にハッピーエンドはあり得ないと思っている」と発言している。
一番最後に松本が中華料理屋で、五目そばとして出された「頭頭(とうず)」を見て「何で髪の毛入ってんねん!」と怒鳴る場面でこの物語は終わる。松本はこれを「1時間かけてボケて最後に自らつっこむ高等テクニック」と評している。
ダウンタウン「ごっつええ感じ」企画評価(5段階絶対評価)
「Mr.オクレを探せ!」(5月4日オンエア)
吉本の事務所に謎の留守電を残して失踪し、白人女性と共に富士急ハイランドに逃げ込んだMr.オクレをダウンタウン等が捜索する。
評価:オクレのキャラクターを除けば取り立てて笑う要素がなく、企画そのものが面白味に欠けた。E。
「まことに一発ギャグを!」(5月4日オンエア)
個性の強いメンバーの揃っているシャ乱Qの中でどうも影が薄いドラムの「まこと」の相談に応じて、彼のために起死回生の一発ギャグを考えるレギュラー陣。
評価:まことのとぼけたキャラクターを生かそうとメンバーが奇抜なギャグを考える過程の面白さを狙った企画の意図そのものは成功しているが、素材の限界もあって強烈に笑えるというわけではない。C。
「松本人志スーパー記憶術」(5月11日オンエア)
松本が100人の素人にあだ名をつけ、顔とあだ名を全員一致させる。
評価:松本一人にすべてがかかっている企画だったが、随所に見事なひらめきを見せ、地肩の強さを示して、一歩間違うと退屈この上ない企画を最後まで飽きさせなかった。骨折のため動けない浜田のツッコミもいつもながら松本をうまくサポートしていた。A。
「点数をつけよう」(5月18日オンエア)
物や特技など、無作為に選んだものに各界の著名人10人が点数をつける。
評価:企画そのものは安直なので、審査員を務める各界著名人とダウンタウンとの絡みがポイントだったが、お互いに距離を縮めることができなかった感は否めない。ゲストの芸も空振りが多かった。D。
「ごっつレギュラー選考面接試験その1」(6月1日オンエア)
「ごっつええ感じ」のレギュラー獲得をかけて、メンバーが面接官となって候補タレントを面接する。今回の候補者は笑福亭鶴瓶。
評価:先輩芸人を正面からいびるという、ダウンタウンにしかできないギリギリの企画。吉本の幹部を真似た松本の演じる冷酷な面接官がリアルで、容赦なく浴びせる鶴瓶への厳しいコメントが背筋の寒くなるような笑いを生んでいた。A。
「ごっつレギュラー選考面接試験その2」(6月8日オンエア)
メンバー面接2回目。今回の候補者はガッツ石松。喋り、物真似、漫才、演技力、アドリブ能力などを審査する。
評価:前回と同様の趣旨だが、相手がガッツ石松ということもあって、DTのツッコミも鶴瓶の時のような鋭さに欠けた。C。
「ダウンタウンの間に入りまショウ」(6月15日オンエア)
今田、東野、板尾、蔵野のレギュラー陣が「ダウンタウンの間に入る」ために様々なゲームを行うが、今田だけ間に入ることができない。ふてくされた松本と浜田をとりなそうとするメンバー。収録現場には緊迫した空気が漂う。
評価:「メンバーいじめ」ネタの新たなバージョンで、これまたダウンタウンにしかできないギリギリの企画。どこまでがマジでどこからが演技かの境界線が見えない緊張感が最後まで持続した。今田の好演(半分本気?)が光る。A。
「ごっつプロレス開幕第一戦 ダウンタウンが橋本と対決!」(6月22日オンエア)
日本プロレス界に風穴を開けるべく旗揚げした「ごっつプロレス」。開幕第一戦の相手はチャンピオン橋本。お膳立ては整っているのに、ダウンタウンの2人はなんだかんだと理屈をつけてリングに上がろうとしない。
評価:前回に引き続き、ダウンタウンが性格の悪いわがままな大物タレントを演じる(そのまま?)。緊迫感は前回には及ばないが、DT(特に松本)の引き出しのバリエーションは多様で、見るものを次々に新たな笑いへと誘う。今田、板尾、東野等もしっかり脇を固めていた。B。
「山田花子のプロポーズ大作戦」(7月6日オンエア)
シャ乱Qのつんくが好きだという山田花子が女としての魅力を磨くために様々なゲームに挑戦する。
評価:ダウンタウンが楽をするためとしか思えない安直な企画。こういうのが続くと彼らの今後が危ぶまれる。E。
「すれ違いにらめっこ」(7月6日オンエア)
変装したメンバーが2組に分かれてオープンカーに乗り込み、すれ違う瞬間にお互いを笑わせるというもの。
評価:最後まで笑える場面がなかった。悪い意味で内輪で遊んでいるだけ。E。
「メカライオン対ライオン」(7月13日オンエア)
メカライオンと本物のライオンを戦わせる。
評価:低俗なだけで何の面白味もない。金の無駄。最悪の企画。E。
「ごっつレギュラースカウトキャラバン第3弾 八代亜紀編」(7月13日オンエア)
八代亜紀のリアクション、ギャグ、変装芸などを審査する。
評価:ツッコミが甘く、これまでの中で最もつまらないものになっている。D。
「仮面ライダーと遊ぼう」(8月3日オンエア)
藤岡弘を鬼にして鬼ごっこをする。シリーズ化される。
評価:レギュラーの苦しむ表情が見物らしいが、たいして面白くはない。D。
「エキセントリック少年ボウイのテーマ」
8月位から番組の冒頭とエンディングに流されるようになったテーマ音楽。テーマだけで実際のストーリーはない(今のところ)。ナンセンスでシュールなギャグが散りばめられた歌詞は松本の真骨頂とも言えるもので、久々に笑える歌を聞いたという感じ。皆でわいわいやりながら作っていく様子が目に浮かぶようである。ただ毎週毎週2回ずつ繰り返し流されると少し辛いものがある。しかしこれは視聴者の頭にたたき込む目的があったことが後に判明する。後からじわじわ来る笑い度B。
「エキセントリック少年ボウイ エンディング・テーマ」
番組の最後に流れるようになったエレジー。メロディーはもろ四畳半フォークで、ひねり度合いはそれほど高くない。C。
「エキセントリック少年ボウイCD発売記念 3番をつくろう」(8月30日)
CDの発売を記念して、3番の歌詞を皆で作ろうという大喜利の企画。企画の制作過程をそのまま放送しようというもので、それなりに面白かった。個人的には「〇〇〇なのはエキセントリック少年ボウイ いるからさ」のお題に対する答が一番面白かった。B。
「板尾レポーター おかんの寝起きどっきり報告」(8月30日)
板尾創路が久し振りに実家に戻ってハンディカメラでおかんの寝起きをレポートする。以前彼の実家で親父と相撲を取るという企画があったが、ここの父親は松本によれば少し「イタい」。今回も仕掛人であるにもかかわらず板尾が部屋に入った時には親父は爆睡していた。何とも言えない笑い度B。
「写真にらめっこ」(8月23日)
城南電機の宮路社長を被写体に、2チームに分かれて写真で笑いを競う。ハイレベルな争いだったが、浜田・今田・板尾チームの発想がやや上回っていたような気がする。それにしても宮路社長もよくやる人だ。半ば呆れつつも爆笑度A。
DTについては、その笑いを分析したものから、松本、浜田個人に関する評論や暴露本まで多数の書籍が出版されている。そのほとんどは彼らに共感する人々によって書かれたものだが、中には彼らの笑いをいじめを助長し、子供に有害な影響を与えているとして真っ向から非難するものもある。最近の読売新聞でも「ごっつええ感じ」の企画(「間に入りまショウ」と「橋本真也とのプロレス対決」)を巡って相反する意見が読者から寄せられ、論争に及ぶかと思われるところまでいった。
DT反対派の意見を要約してみると大体次のようになる。
①「訳がわからない。何が面白いのか分からない。」
②「態度が傲慢。先輩を敬うという感覚がない。」
③「自分たちで楽しんでいるだけ。笑いが閉鎖的。」
④「浜田のゲストをゲストとも思わない激しいツッコミや暴力的な言動が不快」
⑤「松本の笑いには悪意があり、本質的に陰湿なものである」
⑥「明らかにいじめとしか思えない企画がある。」
→ ① いじめられる芸人がかわいそう
② それを見た子供たちに悪影響を与える
これらの批判は、DTの目指す笑いの質そのものに関わる問題を含んでいる。松本自身は彼の著書「遺書」と「松本」の中でいくつか批判に対して反論しており、本人たちの言葉を参考にしながら、これらの批判について順に検証していくことにする。
①「訳がわからない。何が面白いのか分からない。」
松本は著書の中で「俺の笑いが分からないのは分からない奴のオツムが悪いから」と反論している。身も蓋もない議論と言ってしまえばそれまでだが、彼らの笑いを理解し、面白いと思っている人々がいる以上(それも非常にたくさん)、「分からないから駄目だ」という意見はそう言う人の主観でしかないと言わざるを得ない。
②「態度が傲慢。先輩を敬うという感覚がない。」
これはDTがデビューの頃から一貫して受けてきた批判であることから、少なくとも彼らが売れてから傲慢になったのではないことは確かである。傲慢というのは自信の一面であり、自分の才能に自信を持っていない芸人など芸人たるに値せず、というのが彼らの持論でもある。それに彼らが誰に対しても全く礼儀を知らない振る舞いをするほど愚かではないことも確かである。もしそうであったなら、とうの昔にこの世界から干されているだろう。特に浜田は上下関係に厳しく、先輩に礼儀正しいことでは有名である。
③「自分たちで楽しんでいるだけ。笑いが閉鎖的。」
DTの番組には確かに内輪の芸人をいじって笑いを取る企画が多い。「ごっつ」の企画はほとんどがそうだし、「ガキの使い」のオープニングはすべてそうであると言っても過言ではない。また彼らが今田、東野、板尾などの若手とつるんで一種「お笑いエリート集団」的な閉鎖的なグループを形成していることも事実である。しかし、だから彼らの笑いが閉鎖的で、自分たちが楽しんでいるだけだと言えるかどうかという点は検証の余地がある。ここで彼らの笑いの特徴について少し考えてみることにしよう。
松本の笑いを一言で表現すれば、「計算された天然ボケ」であると言える。これは一見明らかに逆説的な表現だが、DTのフリートークを聞いたことのある人なら、言わんとしていることの意味は分かるはずだ。つまり彼は、明らかにあり得ない状況を本気かギャグか分からないように語ることの達人なのである。これは彼のコントの作り方、そして企画の作り方にも通じるやり方である。特に企画の中で、彼らの最も優れた笑いは、常に本気かヤラセか見分けがつかないギリギリの場面で生まれる。その最たる例が「ガキの使い」の人気(?)シリーズ企画「岡本マネージャー怒る!」であり、最近の「ごっつ」で賛否両論の嵐を巻き起こした「間に入りまショウ」であり「橋本真也と対決」企画であった。これらの企画が成り立つためにはDTと絡む役者たち(マネージャー、今田、東野、板尾等)がDTの笑いのツボを完全に理解していることが必要である。
少しもって回った説明になったが、要するに彼らの笑いの性質上、また高度な笑いを追求していくためには、ある程度内輪で行うことはやむを得ないといえる。その結果、彼らの笑いは「自分たちだけで楽しむ」ものではなく、彼らと感性を同じくする者たちにとっては実にエンターテイメント性の高い普遍的な作品に仕上がっているのである。
④「浜田のゲストをゲストとも思わない激しいツッコミや暴力的な言動が不快」
これは②の批判にも通じるものがあるが、浜田のツッコミが芸として名人の域に達していることは多くの人が認めている。「芸」と言うのは、エンターテイメントとして成立していると同時に、つっこまれたタレントが本気で腹を立てることのないような配慮がなされている、ということである。実際浜田のツッコミはあまりにも芸として見事に完成されているので、時代がたてば古臭くなってしまうのではないかと思えるほどだ。また、一時期DTの影響を受けた若手芸人が過激なネタや激しいツッコミを真似るのが流行ったが、すぐに廃れてしまったのは、「芸」になっていなかったからである。浜田のツッコミの芸を不快に思うのは、危険なサーカスの芸や手品を嫌がる心理に通じるものがある。
⑤「松本の笑いには悪意があり、本質的に陰湿なものである」
これは一面の真実をついている。タモリやたけしを見ても分かるとおり、一流のお笑いタレントというのは、皆クールでニヒルな、ある種の「暗さ」を抱えているものだ。だが松本の場合、タモリのシニシズムや初期のたけしの毒とは違った、別種の「悪意」を感じさせる。その悪意は時にコントなどで醜悪な形で現れることもある。正義の味方が子供をめった切りにしたり、スーツで決めて登場した刑事に弾丸を雨あられのように浴びせるコントはどう見ても笑えないが、たけしの映画に見られる暴力シーンにも同種の情念を感じないでもない。松本のお笑いの根っこにはルサンチマンがあるのは本人も認めている通りであり、彼は人に嫌われるリスクを覚悟で笑いに魂を売った男である。ただ一つ言えるのは、彼がまったく愛すべきところのない男であったならば、成功することはできなかった
だろうということだ。
⑥「明らかにいじめとしか思えない企画がある。」
→ ① いじめられる芸人がかわいそう
② それを見た子供たちに悪影響を与える
世のDT批判のポイントはこの点にある。すなわち、DTの笑いがいじめを助長しているという批判である。①については、松本の「遺書」における反論に付け足すものは何もない。②については、微妙な問題を含んでいるので、慎重に論ずる必要がある。この点について、まず「ダウンタウンの笑いを読む」(×××著)という本の中で非常に的を得た議論が展開されているので、是非同書を参照されたい。
10月14日、「ダウンタウンのごっつええ感じ」が10月いっぱいで打ち切りになることが決定した。理由は、9月28日の「ごっつええ感じ 2時間スペシャル」が松本の了解を得ず急遽ヤクルトの優勝決定戦に差し替えられたことに松本が激怒し、フジでDT及び松本が持っている番組(「ごっつええ感じ」、「ヘイ・ヘイ・イ」、10月スタートの「一人ごっつ」)をすべて降りるとフジ側に申し入れたため。吉本を間に介した松本とフジの話し合いの結果、「ごっつ」は打ち切りとし、「ヘイ・ヘイ・ヘイ」と「一人ごっつ」は続行するという結論に達した。10月の番組改編直後にゴールデンタイムの番組
が打ち切りになるというのは前代未聞の事態だという。
この「事件」に対して今後しばらく様々な意見、批評、批判、罵詈雑言が飛び交うことだろう。「またか」という感想もあろう(松本は以前にもTBSの番組を「スタッフのレベルが低い」と言って降板し、以後TBSとは絶縁状態になっている。また「客のレベルが低い」ことを理由に「笑っていいとも」のレギュラーを降りた話は有名)。松本よくやったという人はどのくらいいるのだろうか。
これを「局側の横暴な論理に立ち向かう芸人の意地」と見るか「売れたタレントの頭に乗ったわがまま」と見るか。実は松本は「ごっつ」を止めたがっていて、止める理由を探していたのかもしれない。「今回の事件でフジ制作側との信頼関係が崩れ、100%のボルテージで番組に取り組むことができなくなった」というのが松本の公式のコメントである。
最近の「ごっつ」はコントの数が激減し、企画も投げやりなものが目立ってきた。視聴率もピーク時から低下の一途を辿っており、番組として行き詰まっている感は否めない。今年DTが初めて司会を務めたフジテレビの「27時間テレビ」の平均視聴率は10%ギリギリで、これに不満を感じた松本は9月28日放送の「ごっつ2時間スペシャル」にすべてを賭けていたと言われる。
「スペシャル」は翌週10月5日に放映されたが、コントは全く無く企画オンリーで、よみうりランドで行われた「エキセントリック少年ボウイ」のライブを最初と最後にフューチャーし、間には「写真バトル」「藤岡弘と遊ぼう(最終回)」「山田花子公開お見合い」「志村けんと浜田ゴルフマッチ」「パフィーを交えたパイ投げバトル」等以前にやったことのある企画が並んだ。松本が力を入れて作ったと言われるだけあって、どれも出来はよく、最近の企画の中ではかなり面白かったと言える(間に唐突に入った浜田と志村けんのゴルフ対決だけは気の抜けた企画だったが)。
松本自身のコメントによると、フジが番組を差し替えたこと自体は全く構わないが、事前に何の連絡もなかったことが許せなかったという。「自分が魂を入れてつくったものを勝手にオクラ入りにされたことへの怒り」ということのようだ。真剣に仕事をしている者なら自分の気持ちは分かってもらえるはず、という。また、自分はフジに対して怒っているのであり、吉本には何の含みもないことを強調している。
一旦はフジの番組を全部降りると主張したにもかかわらず、「ヘイヘイヘイ」と「一人ごっつ」は続けることにした理由については、「自分の中のバランスを取る上で、その方が得だと判断したから」と、やや歯切れの悪いコメントを残している。
現在「ガキの使い」では思いつきの即興的な笑いに取り組んでおり、それとは別に、考え抜き、計算された笑いをつくっていく場も必要だと松本は言う。「一人ごっつ2」はコントを含めこれまで以上に実験的な笑いに取り組むための場として残しておきたいということだろう。確かに現時点で5回分の放送を見た限り、非常に試行錯誤しながら作っている跡がはっきり伝わってくる。
最近ダウンタウンは志村けんなど年上のコメディアンとも仕事をするようになった。松本はビートたけしの雑誌で初めてたけしと対談した。内容的には、すでに第一線を退いて開き直った大御所芸人と現役のトップランナーとして新しいことに挑戦することを義務づけられた男との対話という構図に忠実に沿った形で展開し、若手でもベテランでもない中途半端な年齢にあって少し迷いを見せている松本の微妙な位置を窺わせるものであった。
最近の「一人ごっつ」で多用されているコーナー(ネタ)に、松本が桂三枝に扮して日用品を紹介する「新婚さん聞きなっしゃい」がある。これは昨年末から毎週のように放送されており、内容的にもセリフに若干のバリエーションがある他はほとんど変化がない。
「ごっつ」でも一時期松本と浜田で桂三枝のパロディー・コントをしつこくやり続けたことがあったが、松本は三枝に何か含みを持っているのだろうかと思わせるほどの執着ぶりである。物真似としては全く似ていないのだが、何か無意識の領域に訴えかけてくるものがある、癖になるコントである。
「一人ごっつ2」はとりあえず平成10年3月をもって一旦終了した。当初は一人コントなどで力の入った番組を見せていたが、次第にテンションが下がり、最後の方は内輪で単純なゲームをやって遊ぶだけというていたらくであった。松本本人は「この笑いが分からない奴が悪い」と開き直っているのだろうが、客観的に見れば明らかに手抜き(或いはアイデアの枯渇)以外の何物でもない。最後の数回に
NHKspecial
1999年10月現在、松本人志は微妙な位置にいる。1997年9月の「ごっつ」終了が彼(及びDT)のキャリアの大きな曲がり角になったことは疑い得ないところである。あれ以来、一言で言えば松本の活動はそれまでの破竹の勢い、順風満帆、天下制覇の時期を過ぎて、新たな試行錯誤の時代に入った。一旦トップに登り詰めれば、あとは落ちるしかないというのが世の常である。天才松本人志といえども無論その例外ではない。1998年、かつての「お笑い界」の覇者ビートたけしと対談した彼は、「30代後半になると反射神経やアドリブ能力が落ちる時期が来る」と意味深い薫陶を受けた。松本自身折しも30代後半に突入、テレビでは「ごっつ」なき後「ガキの使い」「ヘイヘイヘイ」「DT DX」のみの露出が続いたこの2年近くの間、とりわけ「ガキ」のフリートークが以前ほど面白くないという声をあちこちで耳にする。確かに僕自身、以前のようにフリートークをビデオで繰り返し見ることもめっきり少なくなったし、見ていても笑えないことが多くなってきた。さらに、あってはならないことだが、いわゆる「さむい」気分を味わうことすらある。企画モノにしても、ここ1年くらいの「ガキ」のオープニングで繰り返し見るに値するだけの面白さを持った企画は両手にあまるほどしかない。はっきり昔のパターンの使い回しと思われるものも目立ってきた。最近特に「さむかった」のは「ようかん夫妻」という出囃子の公開レコーディングであった。和田アキ子を迎えて松本作詞作曲のコメディソングを客席の前で録音する(バックの演奏は山崎とココリコが務めた)という企画だったが、和田の歌と演奏がかみ合わず、松本の指示も不手際が目立って、長いし退屈だし、実際見に行った人は辛かったろうということがオンエアからも伺われる内容であった。(不評だったにもかかわらず半年以上この出囃子を続けているのは松本の意地かもしれないと勘ぐりたくもなる。)また、ファンの間で話題になったフリートークでの「浜ちゃんマジ切れ(?)事件」も記憶に新しい。これは9月オンエアの「ガキ」のフリートークで、ハガキに対して「ボケるのが邪魔くさい」等と言ってふてくされた態度を取った松本に浜田が一瞬本気と思える様子でつっこんだというものである。もちろん二人はそれをすぐさま「怒る浜田とびびる松本」の演技に変え、全体のシーンを笑いへと転化させたが、これがファンの間で話題になったのは、その背景に「最近松っちゃんのボケが鈍っている」という視聴者の共通の不安・疑問があったからだということは否めない。最近の松本は視聴者のハガキに対してボケきれずに逆切れで逃げたりうやむやに誤魔化したりという手段に走ることが確かに多くなったのは事実である。もちろんそれはそれで笑いにつながってはいるのだが、新しいパターンの笑いというよりは「松本」のキャラを前面に押し出すことによるごり押しの笑いという要素が強い。これは「引き」の笑いがDTの出発点であり、そこに松本の真骨頂があると思っている僕にとってはまったく逆行的な現象である。そもそも松本の笑いはしつこいくらいに前面に出てきて笑いを取ろうとするそれまでの大阪(吉本)の笑いに対するアンチ・テーゼとして始まったものではないのか。紳助が当時無名の若手だったDTの漫才を見て脅威を感じたのも、松本のボケに紳助自身の「引き」で笑いを取る高度な芸風の巨大な才能を見たからではなかったか。ところが最近では舞台の松本はいつもやたらハイテンションで、肩を怒らせて気張って笑いを取りに行こうとする姿勢が露骨である。それが最初に激しく露わになったのは、「ごっつ」が終わってしばらく後に、DTがウッチャンナンチャンと鶴瓶が司会を務める「いろもん」のスペシャルゲストに招かれた時のことである。同年代の仲間としての気安さから終始リラックス・ムードのUN、同じく肩の力を抜いた(少なくとも外見上はそう見えた)浜田、自分より大きく成長した後輩に対して幾分自虐的な態度を見せつつ、いつもの細やかな笑いへの気配りを見せる鶴瓶という面々の中で、松本だけはその「笑いへの闘争本能むき出し」のハイテンションな姿勢で異様に浮き上がって見えた。そして少なくともあの場においては、松本の実力が(普通のトーク番組の中でも)桁違いであることが証明された。あの番組を見た視聴者の大半は「やっぱり一番おもろいのはダウンタウンや」と思ったであろうし、実際松本はそう思わせるために全力を尽くしたのだ。しかし同時に、そこまで必死になって自らの実力を誇示しなければならぬほどあの時点で松本は追いつめられていたのだ、と逆の側から見ることも可能ではなかったか。(しかし彼は何に追いつめられていたのだろうか? 単刀直入に答えを言うと、「テレビ」に、である。しかしこのことについては後で詳述する。)当時松本にインタビューする機会を持った「CUT」編集長渋谷陽一もこのことに気づいていた。(ただ彼は実際のインタビューにおいてはあくまでも松本の才能を持ち上げる形でこのことを指摘するに留めている。渋谷と松本のつき合いはこのインタビューをきっかけとしてその後も続き、1999年1月には松本語り下ろしの自伝「松本坊主」をロッキン・オン社から発売することになる。渋谷はその間松本の番組やビデオ制作に深く関わっている「ワイズ・ビジョン」という会社と一緒に仕事し「吉本とは意外に相性がいい」などと発言していた。)ちなみに先述の「浜田マジ切れ(?)事件」には、視聴者の間に高まっている「疑惑」を(おそらくインターネットで)知った松本が次週のオンエアで「笑いを理解しない」視聴者に対して激しく怒ってみせるというおまけがついている。しかし結果的にファンの間ではこれに共感し「面白かった」という意見と「よけいにさむかった」という意見が分裂することになった。
「ごっつ」以後の松本の活動の中で最も特筆すべきは、1998年から1999年にかけて発売された一連のコント・ビデオ「ビジュアルバム」の制作だろう。テレビというコント作品発表の場を失った(「ごっつ」の後には「一人ごっつ」が残されたとはいえ、時間枠や予算の限界のため十分な制作活動ができず、コントの発表は早々に放棄された)彼が時間も資金も潤沢に投資することのできるビデオという媒体に目を向けたのは自然なことである。このビデオの出来には松本自身かなり満足しているようで、「よいスタッフに恵まれた」と色々な場で語っている(これは「ごっつ」で陥ったスタッフ不信への裏返しとも取れる発言である)。
実際その中身は確かに素晴らしい。現在の松本が持てる力をすべて出したと言ってよいのではないかと思う。あの立川談志にすら「見事なイリュージョン。これを見て俺は間違ってないと思った」と言わしめたほどである。気鋭の喜劇作家三谷幸喜も脱帽している。これらの作品は、「寸止め海峡(仮題)」と並ぶ「松本人志ワールド」の最高傑作として後世に残るだろう。ただ、渋谷陽一が指摘するように、完成され過ぎていて見る者に緊張を強い、テレビのコントのような力を抜いた(ポップな)面白みに欠けるという声もあるのは確かだが…。では、しばらくこの傑作コント群について順に論じていくことにしよう。
まず、第一巻「約束」。個人的には全三巻を通じて最高の出来だと思う。「俺の実力を見せつけたる」という松本の気負いがここでは(テレビでのように)空振りすることなく、そのまま力強さの印象を見る者に与える。テレビという制約の多い場を離れた彼の自由と喜びに溢れた創造性が存分に発揮されている。個々の作品の充実度、全体の流れ、構成も文句なし。
「システムキッチン」は「ビジュアルバム」の始まりを飾るにふさわしい快作。ここでは現在テレビでは見ることのできない松本の「引きの芸」を堪能することができる。「引きの芸」の定義は色々とあるが、その中には「通常ではとうてい笑いにつながらないような場面を笑いに転化させる才能」が含まれる。松本はまさにその天才である。ただしこれは見る側にも特殊な感性が要求される点で一般的な「受け」にはなりにくい。しかしその「不可能」を「可能」にしたのが松本人志の表現者としての最大の業績であろう。それは彼が見る者の感性を変化させた(「進化させた」のかどうかはまた別に論じる必要がある)、さらに言えば「意識を変えた」ということである(DTはよく「客を教育する」という表現を使う。)「システムキッチン」は見る者に対する挑戦状でありマニフェスト(宣言)であると評した人がいるが、これを見て面白いと思うかどうかで笑いへの感性が決定的に問われるリトマス試験紙的な特性を持つという点で、確かに象徴的な作品であると言える。
前置きが長くなってしまったが、コントそのものの内容について見ていこう。不動産屋に若者(30過ぎ位)がマンションを探しに来て、二人が物件について相談している場面から始まる。(映像はまるで映画のように処理されており、独特の効果を上げているが、とりあえずそのことについては深く触れないでおく。)この場面の最初の方で早くも、不動産屋が分裂症的な人格の持ち主であることが明らかになり、松本の笑いを見慣れた者にとっては、これが彼得意のアブノーマルな人格を扱ったコントであることが分かる。つまりこのタイプのコントは明確な「落ち」を持たず、松本扮する異常人格者の多種多様な「異常」「脱論理的」「破天荒」「不条理」なパフォーマンスで笑いを誘う展開になっている。平たく言えば「わけわからん」ことに対する笑いである。(このタイプのコントはシュールレアリスムの自動書記のようなもので、演っている本人にもまったく先が見えず、松本によれば「続けようと思えば延々と続くし、終わろうと思えばいつでも終わることができる」。)しかし、この最初の場面(不動産屋の中)ではまだ松本の発言はかろうじて論理性を保っている。浜田が一人暮らしするつもりなのか(同棲するつもりではないのか)、芸能人やロックミュージシャンではないのか(うるさい物音を立てたりしないか)を確かめることは、ややしつこい嫌いはあるが、不動産屋としては理解できる質問である。乱暴にメガネを放り投げたり、急にタメ口になったり、微妙な「異常さ」を感じさせる部分はあるが、全体としてまだ決定的に「異常者」と決めつけることができるほどではない。
次の場面は、二人が目当ての物件に向かって歩いていくところである。ここで交わされる会話がまた微妙なところを突いている。しかしここでもまだ明確な「脱論理」は生じていないことに注目してほしい。
そして、いよいよ第三の場面、マンションの中に入る。このマンションの場面はさらにいくつかの場面に分割される。
それまでくすぶっていた不動産屋(松本)の脱論理性が最初に否定できない形で明らかになるのは、風呂場のシャワーを指さして浜田が「カランって、どういう意味なんですかね」という意味のことを冗談めいた口調で尋ねた時である。ここではまだ若者(浜田)は不動産屋(松本)と普通のコミュニケーションが可能であると素朴に信じている。しかしそれに対する松本の答えはその(すでに危うくなっていた)信頼を無惨にうち砕く。曰く、「丁寧語やね。」しかもその言葉は(あたかもコミュニケーションを頭から拒絶するかのように)吐き捨てるように発せられる。見る者は、これを合図として、松本の言動が加速的に脱論理化に向けて進んでいくことを予感する。
そしていよいよシステムキッチンの場面。ここで松本の発言は一気に無重力空間へとワープする。このダイナミズムは実際に見てみないと文字では伝わらないだろうから、ここでは具体的にセリフを書き起こすことはせず、二人の「内面のドラマ」を追っていくことにしよう。
手始めに、浜田からこのキッチンは何畳ぐらいあるのかと尋ねられたとき、松本は何ともあやふやな答えしかしない。その困惑した返答ぶりはとてもプロの不動産屋とは思えず、あたかも部屋の広さなど何が重要なのかとでも言いたげな態度である。引き続いて浜田にキッチンの装備の欠陥を追求されたとき、松本の困惑は一気に開き直りに変わる。それまで常に「守り」の姿勢に立たされていた松本が一気に「攻め」の姿勢に転じるのがここで、その合図が「これ、完全にシステムキッチンやからね」という説明(?)の開始である。しかしその説明たるや結局のところ何の説明にもなっておらず、浜田に何を尋ねられてもその場しのぎの支離滅裂な答えにしかならない。普通の客ならここで「席を蹴って」帰ってしまうところだが、一緒にマンションまで来てしまった以上、退散するわけにもいかない。そこで何とか松本の言うことを理解しようと努力するが、松本の説明は「飛ぶ」一方で、ついに浜田もこの男とまともにコミュニケーションすることに匙を投げ、「お前の言うことわからんわ」と松本を「お前」呼ばわりするまでになる。
ここで、不動産屋の内面に少し迫ってみよう。システムキッチンの説明を始めたものの結果的に墓穴を掘り、支離滅裂な言い逃れでその場を取り繕い続けたり、キッチンの不備を指摘されても居直る彼の態度は、顧客の満足を引き出して契約させる不動産屋としての義務を果たそうという気持ちが空回りしたというよりは、むしろ客を挑発して楽しんでいるかのように見える。彼は誰に対してもこんな調子で接しているのだろうか。それとも何かこの客(浜田)には特別なものを感じているのだろうか。それは次の場面で明らかになるかもしれない。
二人は次にリビングに入る。ここで二人の関係はまた不思議な変化を辿る。松本は相変わらず浜田の質問をはぐらかした後でおもむろに以下のように切り出す。正直ここまで二人の関係はお互いカリカリしていた部分もあったけれど、このリビングにきて何もかも解放されたような気がする、と。見る者にはいかにも唐突な印象を与えるこのセリフだが、実はその伏線は以前の場面にあったことはこの文章を読んできた人には分かるだろう。つまりこの時点で、この不動産屋の関心は始めから商売ではなく浜田そのものにあるということがはっきりするのだ。だから松本は立て続けにビジネスの場にはそぐわないプライベートな質問(例えば「自分、高卒なん?」)を畳み掛けるように浜田にぶつける。次の瞬間、二人は超接近して立ち、一転して部屋に妖しいムードが漂う…。
ここで、もう一つこのコントに関する中々面白いコメントがあるので少し長くなるが引用する。
「システムキッチン」を見て、最初に疑問に思うことはおそらく「何故タイトルがシステムキッチンなのか?」ではないだろうか。これは決して無意味に付けられたものではない。システムキッチンの出てくる場面をよく見て欲しい。松本さん扮する不動産業者は、システムキッチンて何ですか?と聞かれて、
「組み込まれとるんです。」
と言っている。これがこのコントの全てをあらわしている。
これだけではよくわからない人もいるだろう。順を追って説明する。浜田さん演じる普通の人が、部屋を借りに不動産屋に来る。この男は普通の人間である。2DK、フローリング、駅に近い、セパレート・・・・・・・次々と条件をだす。笑ってしまうくらい普通である。
(ちなみに笑い所はここなので、松本さんがサングラスを投げたり、コピーの間黙ってくれというのは、いってみればおまけである。つまり浜田さんが面白いのであって、松本さんが面白いわけではない。)
この男、部屋を見に行く途中でも遠いだの、ええとこやから高いんちゃうんとイチャモンをつけ(さんざん注文つけといてその上銭まで気にするか?)、そのくせ業者の
「お一人で住むんですか?」
の質問ははぐらかす。ハナッから女を連れ込むのは見え見えである。決して自分が立つ事は無いであろう(女が使うからね)台所に給湯器やインターホンだの細かい注文。その割には松本さんの、
「これドイツ製やから」
の一言でエエもんなんかと思い込む(欧米製やったらなんでもええんか?)。女の為に必死の男。だから、キッチンは「御本尊」なのだ。最後の部屋でも床暖を要求。ないと言われると、
「どこもそうやけどなあ」(そんな事あるか!大体そんな事は業者のもんが一番良くしっとるわ!つまらんハッタリこくな!)
そして窓の外は緑と言われると喜んで窓を開ける。
良い所に住みたがるのは自分一人ではない。かくして、駅前は高層マンションが建ち並ぶ。緑の場所など、あるはずもない。そこにすむのはこの男のような奴とそれに釣り合うような女。彼は間違い無く社会システムに「組み込まれている」のだ。そんな事も判らず喜んで窓を開けた男・・・・・・・。
つまり普通の人間に対して、「お前ら全員システムキッチン」というのがこのネタのテーマなのだ。
まあ、結構深い意味を持っている作品なので何度見ても面白いだろう。
「ごっつ」以後の松本の活動の中で最も特筆すべきは、1998年から1999年にかけて発売された一連のコント・ビデオ「ビジュアルバム」の制作だろう。テレビというコント作品発表の場を失った(「ごっつ」の後には「一人ごっつ」が残されたとはいえ、時間枠や予算の限界のため十分な制作活動ができず、コントの発表は早々に放棄された)彼が時間も資金も潤沢に投資することのできるビデオという媒体に目を向けたのは自然なことである。このビデオの出来には松本自身かなり満足しているようで、「よいスタッフに恵まれた」と色々な場で語っている(これは「ごっつ」で陥ったスタッフ不信への裏返しとも取れる発言である)。
実際その中身は確かに素晴らしい。現在の松本が持てる力をすべて出したと言ってよいのではないかと思う。あの立川談志にすら「見事なイリュージョン。これを見て俺は間違ってないと思った」と言わしめたほどである。気鋭の喜劇作家三谷幸喜も脱帽している。これらの作品は、「寸止め海峡(仮題)」と並ぶ「松本人志ワールド」の最高傑作として後世に残るだろう。ただ、渋谷陽一が指摘するように、完成され過ぎていて見る者に緊張を強い、テレビのコントのような力を抜いた(ポップな)面白みに欠けるという声もあるのは確かだが…。では、しばらくこの傑作コント群について順に論じていくことにしよう。
まず、第一巻「約束」。個人的には全三巻を通じて最高の出来だと思う。「俺の実力を見せつけたる」という松本の気負いがここでは(テレビでのように)空振りすることなく、そのまま力強さの印象を見る者に与える。テレビという制約の多い場を離れた彼の自由と喜びに溢れた創造性が存分に発揮されている。個々の作品の充実度、全体の流れ、構成も文句なし。
「システムキッチン」は「ビジュアルバム」の始まりを飾るにふさわしい快作。ここでは現在テレビでは見ることのできない松本の「引きの芸」を堪能することができる。「引きの芸」の定義は色々とあるが、その中には「通常ではとうてい笑いにつながらないような場面を笑いに転化させる才能」が含まれる。松本はまさにその天才である。ただしこれは見る側にも特殊な感性が要求される点で一般的な「受け」にはなりにくい。しかしその「不可能」を「可能」にしたのが松本人志の表現者としての最大の業績であろう。それは彼が見る者の感性を変化させた(「進化させた」のかどうかはまた別に論じる必要がある)、さらに言えば「意識を変えた」ということである(DTはよく「客を教育する」という表現を使う。)「システムキッチン」は見る者に対する挑戦状でありマニフェスト(宣言)であると評した人がいるが、これを見て面白いと思うかどうかで笑いへの感性が決定的に問われるリトマス試験紙的な特性を持つという点で、確かに象徴的な作品であると言える。
前置きが長くなってしまったが、コントそのものの内容について見ていこう。不動産屋に若者(30過ぎ位)がマンションを探しに来て、二人が物件について相談している場面から始まる。(映像はまるで映画のように処理されており、独特の効果を上げているが、とりあえずそのことについては深く触れないでおく。)この場面の最初の方で早くも、不動産屋が分裂症的な人格の持ち主であることが明らかになり、松本の笑いを見慣れた者にとっては、これが彼得意のアブノーマルな人格を扱ったコントであることが分かる。つまりこのタイプのコントは明確な「落ち」を持たず、松本扮する異常人格者の多種多様な「異常」「脱論理的」「破天荒」「不条理」なパフォーマンスで笑いを誘う展開になっている。平たく言えば「わけわからん」ことに対する笑いである。(このタイプのコントはシュールレアリスムの自動書記のようなもので、演っている本人にもまったく先が見えず、松本によれば「続けようと思えば延々と続くし、終わろうと思えばいつでも終わることができる」。)しかし、この最初の場面(不動産屋の中)ではまだ松本の発言はかろうじて論理性を保っている。浜田が一人暮らしするつもりなのか(同棲するつもりではないのか)、芸能人やロックミュージシャンではないのか(うるさい物音を立てたりしないか)を確かめることは、ややしつこい嫌いはあるが、不動産屋としては理解できる質問である。乱暴にメガネを放り投げたり、急にタメ口になったり、微妙な「異常さ」を感じさせる部分はあるが、全体としてまだ決定的に「異常者」と決めつけることができるほどではない。
次の場面は、二人が目当ての物件に向かって歩いていくところである。ここで交わされる会話がまた微妙なところを突いている。しかしここでもまだ明確な「脱論理」は生じていないことに注目してほしい。
そして、いよいよ第三の場面、マンションの中に入る。このマンションの場面はさらにいくつかの場面に分割される。
それまでくすぶっていた不動産屋(松本)の脱論理性が最初に否定できない形で明らかになるのは、風呂場のシャワーを指さして浜田が「カランって、どういう意味なんですかね」という意味のことを冗談めいた口調で尋ねた時である。ここではまだ若者(浜田)は不動産屋(松本)と普通のコミュニケーションが可能であると素朴に信じている。しかしそれに対する松本の答えはその(すでに危うくなっていた)信頼を無惨にうち砕く。曰く、「丁寧語やね。」しかもその言葉は(あたかもコミュニケーションを頭から拒絶するかのように)吐き捨てるように発せられる。見る者は、これを合図として、松本の言動が加速的に脱論理化に向けて進んでいくことを予感する。
そしていよいよシステムキッチンの場面。ここで松本の発言は一気に無重力空間へとワープする。このダイナミズムは実際に見てみないと文字では伝わらないだろうから、ここでは具体的にセリフを書き起こすことはせず、二人の「内面のドラマ」を追っていくことにしよう。
手始めに、浜田からこのキッチンは何畳ぐらいあるのかと尋ねられたとき、松本は何ともあやふやな答えしかしない。その困惑した返答ぶりはとてもプロの不動産屋とは思えず、あたかも部屋の広さなど何が重要なのかとでも言いたげな態度である。引き続いて浜田にキッチンの装備の欠陥を追求されたとき、松本の困惑は一気に開き直りに変わる。それまで常に「守り」の姿勢に立たされていた松本が一気に「攻め」の姿勢に転じるのがここで、その合図が「これ、完全にシステムキッチンやからね」という説明(?)の開始である。しかしその説明たるや結局のところ何の説明にもなっておらず、浜田に何を尋ねられてもその場しのぎの支離滅裂な答えにしかならない。普通の客ならここで「席を蹴って」帰ってしまうところだが、一緒にマンションまで来てしまった以上、退散するわけにもいかない。そこで何とか松本の言うことを理解しようと努力するが、松本の説明は「飛ぶ」一方で、ついに浜田もこの男とまともにコミュニケーションすることに匙を投げ、「お前の言うことわからんわ」と松本を「お前」呼ばわりするまでになる。
ここで、不動産屋の内面に少し迫ってみよう。システムキッチンの説明を始めたものの結果的に墓穴を掘り、支離滅裂な言い逃れでその場を取り繕い続けたり、キッチンの不備を指摘されても居直る彼の態度は、顧客の満足を引き出して契約させる不動産屋としての義務を果たそうという気持ちが空回りしたというよりは、むしろ客を挑発して楽しんでいるかのように見える。彼は誰に対してもこんな調子で接しているのだろうか。それとも何かこの客(浜田)には特別なものを感じているのだろうか。それは次の場面で明らかになるかもしれない。
二人は次にリビングに入る。ここで二人の関係はまた不思議な変化を辿る。松本は相変わらず浜田の質問をはぐらかした後でおもむろに以下のように切り出す。正直ここまで二人の関係はお互いカリカリしていた部分もあったけれど、このリビングにきて何もかも解放されたような気がする、と。見る者にはいかにも唐突な印象を与えるこのセリフだが、実はその伏線は以前の場面にあったことはこの文章を読んできた人には分かるだろう。つまりこの時点で、この不動産屋の関心は始めから商売ではなく浜田そのものにあるということがはっきりするのだ。だから松本は立て続けにビジネスの場にはそぐわないプライベートな質問(例えば「自分、高卒なん?」)を畳み掛けるように浜田にぶつける。次の瞬間、二人は超接近して立ち、一転して部屋に妖しいムードが漂う…。
ここで、もう一つこのコントに関する中々面白いコメントがあるので少し長くなるが引用する。
「システムキッチン」を見て、最初に疑問に思うことはおそらく「何故タイトルがシステムキッチンなのか?」ではないだろうか。これは決して無意味に付けられたものではない。システムキッチンの出てくる場面をよく見て欲しい。松本さん扮する不動産業者は、システムキッチンて何ですか?と聞かれて、
「組み込まれとるんです。」
と言っている。これがこのコントの全てをあらわしている。
これだけではよくわからない人もいるだろう。順を追って説明する。浜田さん演じる普通の人が、部屋を借りに不動産屋に来る。この男は普通の人間である。2DK、フローリング、駅に近い、セパレート・・・・・・・次々と条件をだす。笑ってしまうくらい普通である。
(ちなみに笑い所はここなので、松本さんがサングラスを投げたり、コピーの間黙ってくれというのは、いってみればおまけである。つまり浜田さんが面白いのであって、松本さんが面白いわけではない。)
この男、部屋を見に行く途中でも遠いだの、ええとこやから高いんちゃうんとイチャモンをつけ(さんざん注文つけといてその上銭まで気にするか?)、そのくせ業者の
「お一人で住むんですか?」
の質問ははぐらかす。ハナッから女を連れ込むのは見え見えである。決して自分が立つ事は無いであろう(女が使うからね)台所に給湯器やインターホンだの細かい注文。その割には松本さんの、
「これドイツ製やから」
の一言でエエもんなんかと思い込む(欧米製やったらなんでもええんか?)。女の為に必死の男。だから、キッチンは「御本尊」なのだ。最後の部屋でも床暖を要求。ないと言われると、
「どこもそうやけどなあ」(そんな事あるか!大体そんな事は業者のもんが一番良くしっとるわ!つまらんハッタリこくな!)
そして窓の外は緑と言われると喜んで窓を開ける。
良い所に住みたがるのは自分一人ではない。かくして、駅前は高層マンションが建ち並ぶ。緑の場所など、あるはずもない。そこにすむのはこの男のような奴とそれに釣り合うような女。彼は間違い無く社会システムに「組み込まれている」のだ。そんな事も判らず喜んで窓を開けた男・・・・・・・。
つまり普通の人間に対して、「お前ら全員システムキッチン」というのがこのネタのテーマなのだ。
まあ、結構深い意味を持っている作品なので何度見ても面白いだろう。
7年前に書いた文章を貼り付けます
10年前にエレファント・カシマシという奇妙な名前のグループがデビューした時、当時17歳の高校生だった僕は、「デーデ」「てって」「習わぬ経を読む男」といった曲名に見られる特異な言語感覚、激しい苛立ちと怒りを内包しながらも凛として力強い宮本浩次のボーカル、そしてロックかくあるべしといったハードなサウンドに打ちのめされ、たちまち彼らの虜になった。
彼らのデビュー・アルバムは非常に衝撃的で、ある意味で既に完成されたといってもよいスタイルを持っていた。このアルバムは僕にとって生活上欠かせないものとなった。
その約1年後に発売されたセカンド・アルバムは、1stほどの激しさは失われていたが、内側に深く沈殿するような面を見せ、後のアルバムに見られる内向的世界を垣間見せる内容になっており、いくつかの楽曲は文句なしに優れていたものの僕にとっては少し物足りなかった。
3rd以降はアルバムを買うことはなかったが、心情的には日本で最も支持するバンドであり続けた。しかし一部で熱狂的なファンの支持を受ける一方でセールス的には大苦戦し、アルバムを出す毎に、彼らをあくまでも支持するカルト的なファンと一般のリスナーとの間の溝は広まっていった。その間僕はそのどちらにも属さない傍観者的な立場で彼らの動きを見るともなく見ていた。
しばらくして、レコード会社との契約が切れ、宙ぶらりんの状態になったと聞いた時には、さすがに彼らも終わりかと思った。日本のロックが日の目を見るようになり、巨大なセールスを記録する時代になったとは言え、エレカシのような優れたバンドが活動停止を強いられる状況というのはろくでもないものだと思わざるを得なかった。
しかし彼らはそこでは終わらなかった。ロッキン・オン・ジャパンの支援を受けて新しいレコード会社と契約し、いくつかの素晴らしい楽曲を携えて復活したエレカシの再デビュー盤と言ってもよいのがシングル「悲しみの果て」であり、アルバム「ココロに花を」であった。それらのサウンドは、これまでのエレカシ・サウンドとはうって変わり、生活に追われて初めて目覚めたかのようなキャッチーな音であった。
楽曲は確かにより洗練され、歌詞もそれまでのようなアジテーションや懐古的な要素は取り除かれていた。以前のガチガチのハードなサウンドが巷のロック・バンド程度に耳当たりのよいものになった中で、変わっていなかったのは宮本の凛とした力強いボーカルだった。しかしそれは、以前のようにがなりたてるのではなく、より「聴かせる」ことに重点を置いたものになっていた。
久しぶりに聞いたエレカシは、普通のロックのように聞こえた。サウンドがソフトになり、エレカシらしさが失われたように思われた。復活するために支払わねばならない代償なのかとも思った。事実、宮本は外部プロデューサーを入れて作ったこのアルバムのサウンドを聴いたとき、ウォークマンを叩きつけたということを後で知って安心した。
しかし、シングルにもなった「悲しみの果て」や「孤独な旅人」といった曲は文句なしに素晴らしく、これからのエレカシの進むべき方向を示しているように思われた。正直、宮本にこれほどソングライティングの才能があるとは思っていなかった。これまでの宮本のエキセントリックなイメージは、これらの名曲を正しく鑑賞するための妨げとなっているようにすら感じられる。
宮本は何にもまして優れたミュージシャンであり、彼の個性はその付け足しに過ぎないのだ。エレカシはその楽曲の素晴らしさだけで、十分歴史に名を残すことのできるバンドなのだ。そのことをさらに再確認させたのが今度の新作「明日に向かって走れ 月夜の歌 」である。ロッキン・オンの山崎氏はこれを「名曲集」と呼んでいたが、まさにその通り、どの楽曲も非常に素晴らしく、もはやロックという狭いジャンルに限定され得ないほどの普遍的なメロディーを持っている。歌詞もまた、よい意味で洗練されてきた。
このアルバムに合わせて出版された「風に吹かれて」という彼らの単行本は、デビューから現在までのロッキン・オン・ジャパンに掲載された彼らのインタビューやディスク・レビュー、身辺雑記等をすべてまとめたもので、10年に渡るバンドの軌跡を辿る決定版とも言うべき内容になっている。その多くの部分を占めるのが宮本とROジャパン編集長山崎氏とのインタビューである。
僕自身この本の冒頭に掲載されているデビュー直後のインタビューを約10年ぶりに読み返してみて、そのすべての言葉を明確に覚えている自分に驚いた。当時それをいかに真剣に読んでいたかの証であり、彼らの言葉はもはや自分の身体の一部となっている。宮本の語る言葉は今でもその強烈なインパクトを全く失っていない。読みながら何度か爆笑してしまった。ミュージシャンへのインタビューでこれだけ笑えるというのは滅多にないことである。
宮本のキャラクターはつくづく特異である。普遍的で、本質的には非常に優しいメロディーを生み出す天才的な音楽的才能と、超硬派で過激な潔癖主義、そして同時に自分自身と世界を笑い飛ばすユーモアのセンスが同居している。山崎氏の言うとおり「とんでもなく嫌な奴」でありながら、とても愛すべきキャラクターでもある。
豊かな音楽的才能と表現力に恵まれながらエレカシが長い不遇の時を過ごさなければならなかったのは、宮本の潔癖主義的な部分が突出しすぎて、レコードを作る上での技術的な稚拙さとも相まって、一般のリスナーに訴える魅力を備えた作品を提示することができなかったことにある。ライブでは客を罵倒し、「分かる奴にだけ分かればいい」を通り越して「誰にも分かるわけがない」と諦めきったかのような態度で超マイペースな活動を行っていた。
しかし、エレカシは一部のカルト的愛好者たちを相手に自己満足的な世界を保ち続けるにはあまりにも器が大きすぎた。宮本の個性、才能のスケールは桑田佳祐や忌野清志郎をも超えていると思う。しかし今まではそれを分かりやすく提示する方法論も技術も経験もなかった。忌野清志郎が脚光を浴びたデビューからどん底の時期を経て「ラプソディー」で華々しく復活したように、宮本もまた「ココロに花を」「明日に向かって走れ」を契機に快進撃が始まるだろう。
アルバムの最後の曲で、ドラマの主題歌にもなっている「今宵の月のように」はこれまでのエレカシの最高傑作と多くの人が認めている。まっすぐで伸びやかなメロディーを唱歌のように朗々と力強く歌う宮本。「くだらねえとつぶやいて さめたツラして歩く いつの日か輝くだろう あふれる熱い涙」という冒頭の歌詞が今のエレカシのスタンスを象徴的に表している。この矛盾した内容をすんなり聴かせることができるのは宮本の才能である。今後、ここに笑いの要素を加えることができれば言うことはない。その場合宮本には天然の気があるので、桑田や忌野の歌詞に含まれる皮肉なユーモアとは一味違ったものになろう。今でもその片鱗は伺える。
新作のプロモーションでメディアに露出する機会の多い宮本だが、彼がTVで放つ独特の違和感は特筆に値する。彼の過剰なエゴが絶え間ない注目を要求し、単にTV慣れしていないというだけでは済まされない、あのような落ち着きのない動作につながっている。これは渋谷陽一が言っていたことだが、彼の場合、本番中に物を壊したり過激な行為をしても、「見てはいけないものを見てしまった」というような後味の悪い思いを引き起こさないという得な性格を持っている。後味の悪い思いをするどころか、爆笑を誘うのが通例のパターンである。泉谷しげるに似ているが、もっと生の感情から来ている。
宮本の書くメロディーは、日本人の心の琴線に触れるようなツボをよく心得ており、極めて日本的な旋律である。「悲しみの果て」や「孤独な旅人」そして「今宵の月のように」といった曲を聞いて分かる通り、極めてまっすぐで稟とした、そして適度に感傷的なメロディーラインは日本人としての懐かしい感情に訴えてくる。歌詞にも英語はほとんど出てこないし、出てきたとしても極めて日本人的な文脈の中で使われており、いわゆる「バタ臭い」部分は全くない。
宮本は「生活」というアルバムを「メロディーの宝庫」と考えているらしい。明治時代の唱歌を思わせるようなメロディーと「遁生」「偶成」「晩秋の一夜」というタイトルからも分かる通り、明治大正文学のような語彙の羅列は、確かに宮本の真骨頂であり、その世界をとことんまで究めた結晶のような作品である。「月の夜」が特にいい。ただしアルバム・ヴァージョンではボーカルの粗雑さのためにメロディーの美しさと歌詞の叙情性が損なわれている。新作の「月夜の歌」は同系列の曲であるが、こちらの歌い方はより洗練されている。
ROジャパン12月号のインタビューで宮本は、新作がオリコン初登場2位、年末まで売上見込50万枚という数字に決して満足していないと語っている。彼はどうやらとてつもなく高い所を狙っているようで、それこそ「国民歌謡」「現代日本を代表する大衆音楽」の域に達するまでは満足できないらしい。相変わらずの自意識過剰ぶりが伺える。
彼の自信は大いに結構だが、実際彼の書く曲のレベルが彼の望む領域に達しうるだけの質を持っているかどうかは正直疑問が残る。「今宵の月のように」は確かに名曲ではあったが、誰かが指摘していた通りメロディー自体はかつての青春歌謡の使い回しで、エレファントカシマシの真骨頂である「これは」という斬新さとインパクトは感じられない。歌詞にしてもいかにも中途半端な印象を与える。
12月にはエピック時代の7枚から選曲したベスト盤が発売される。この時期に出すのはいかにも商魂見え見えの感が否めない。1枚目から7枚目を振り返って、自分なりにベストの選曲をしてみたら、次のようになった。
①習わぬ経を読む男 ⑦無事なる男
②おはようこんにちわ ⑧おまえの夢を見た(ふられた男)
③上野の桜 ⑨奴隷天国
④珍奇男 ⑩東京の空
⑤男は行く ⑪涙
⑥月の夜 ⑫寒き夜
宮本浩次は1997年12月19日の深夜「タモリ倶楽部」に出演し、江戸の古地図を頼りに東
京の街を巡るという企画に参加した。タモリとは「ミュージック・ステーション」で何度か共演したことがあり、宮本の扱い方を心得ている彼はツボを押さえたやりとりをしていた。宮本はもう一人の共演者元キッチュと絡む気は毛頭なく、タモリと元キッチュがやりとりしている間はそっぽを向いてつまらなそうな顔をしていたが、自分が喋る段になるとがぜんはりきって持ち前のオーバーアクションと共にわめきたてる。彼の言うことはいちいち面白いのだが、どうも自意識過多というか、いわゆる「お笑い」の型からは外れた性質の笑い(苦笑と呼んでもいい)を引き起こす。
これを見た誰もが彼の特異なキャラクターを頭に焼き付けたことだろう。ガキのような態度に呆れ、不愉快な思いをした人もいるかもしれない。へりくだった態度の裏にある自意識に辟易した人もいるだろう。うさんくさい危ない奴という印象は誰もが受けたことであろう。正直今の宮本浩次にはテレビの世界は似合わない。とても安心して見ていられない。しかしだからこそもっと出てほしいとも言える。
彼らのデビュー・アルバムは非常に衝撃的で、ある意味で既に完成されたといってもよいスタイルを持っていた。このアルバムは僕にとって生活上欠かせないものとなった。
その約1年後に発売されたセカンド・アルバムは、1stほどの激しさは失われていたが、内側に深く沈殿するような面を見せ、後のアルバムに見られる内向的世界を垣間見せる内容になっており、いくつかの楽曲は文句なしに優れていたものの僕にとっては少し物足りなかった。
3rd以降はアルバムを買うことはなかったが、心情的には日本で最も支持するバンドであり続けた。しかし一部で熱狂的なファンの支持を受ける一方でセールス的には大苦戦し、アルバムを出す毎に、彼らをあくまでも支持するカルト的なファンと一般のリスナーとの間の溝は広まっていった。その間僕はそのどちらにも属さない傍観者的な立場で彼らの動きを見るともなく見ていた。
しばらくして、レコード会社との契約が切れ、宙ぶらりんの状態になったと聞いた時には、さすがに彼らも終わりかと思った。日本のロックが日の目を見るようになり、巨大なセールスを記録する時代になったとは言え、エレカシのような優れたバンドが活動停止を強いられる状況というのはろくでもないものだと思わざるを得なかった。
しかし彼らはそこでは終わらなかった。ロッキン・オン・ジャパンの支援を受けて新しいレコード会社と契約し、いくつかの素晴らしい楽曲を携えて復活したエレカシの再デビュー盤と言ってもよいのがシングル「悲しみの果て」であり、アルバム「ココロに花を」であった。それらのサウンドは、これまでのエレカシ・サウンドとはうって変わり、生活に追われて初めて目覚めたかのようなキャッチーな音であった。
楽曲は確かにより洗練され、歌詞もそれまでのようなアジテーションや懐古的な要素は取り除かれていた。以前のガチガチのハードなサウンドが巷のロック・バンド程度に耳当たりのよいものになった中で、変わっていなかったのは宮本の凛とした力強いボーカルだった。しかしそれは、以前のようにがなりたてるのではなく、より「聴かせる」ことに重点を置いたものになっていた。
久しぶりに聞いたエレカシは、普通のロックのように聞こえた。サウンドがソフトになり、エレカシらしさが失われたように思われた。復活するために支払わねばならない代償なのかとも思った。事実、宮本は外部プロデューサーを入れて作ったこのアルバムのサウンドを聴いたとき、ウォークマンを叩きつけたということを後で知って安心した。
しかし、シングルにもなった「悲しみの果て」や「孤独な旅人」といった曲は文句なしに素晴らしく、これからのエレカシの進むべき方向を示しているように思われた。正直、宮本にこれほどソングライティングの才能があるとは思っていなかった。これまでの宮本のエキセントリックなイメージは、これらの名曲を正しく鑑賞するための妨げとなっているようにすら感じられる。
宮本は何にもまして優れたミュージシャンであり、彼の個性はその付け足しに過ぎないのだ。エレカシはその楽曲の素晴らしさだけで、十分歴史に名を残すことのできるバンドなのだ。そのことをさらに再確認させたのが今度の新作「明日に向かって走れ 月夜の歌 」である。ロッキン・オンの山崎氏はこれを「名曲集」と呼んでいたが、まさにその通り、どの楽曲も非常に素晴らしく、もはやロックという狭いジャンルに限定され得ないほどの普遍的なメロディーを持っている。歌詞もまた、よい意味で洗練されてきた。
このアルバムに合わせて出版された「風に吹かれて」という彼らの単行本は、デビューから現在までのロッキン・オン・ジャパンに掲載された彼らのインタビューやディスク・レビュー、身辺雑記等をすべてまとめたもので、10年に渡るバンドの軌跡を辿る決定版とも言うべき内容になっている。その多くの部分を占めるのが宮本とROジャパン編集長山崎氏とのインタビューである。
僕自身この本の冒頭に掲載されているデビュー直後のインタビューを約10年ぶりに読み返してみて、そのすべての言葉を明確に覚えている自分に驚いた。当時それをいかに真剣に読んでいたかの証であり、彼らの言葉はもはや自分の身体の一部となっている。宮本の語る言葉は今でもその強烈なインパクトを全く失っていない。読みながら何度か爆笑してしまった。ミュージシャンへのインタビューでこれだけ笑えるというのは滅多にないことである。
宮本のキャラクターはつくづく特異である。普遍的で、本質的には非常に優しいメロディーを生み出す天才的な音楽的才能と、超硬派で過激な潔癖主義、そして同時に自分自身と世界を笑い飛ばすユーモアのセンスが同居している。山崎氏の言うとおり「とんでもなく嫌な奴」でありながら、とても愛すべきキャラクターでもある。
豊かな音楽的才能と表現力に恵まれながらエレカシが長い不遇の時を過ごさなければならなかったのは、宮本の潔癖主義的な部分が突出しすぎて、レコードを作る上での技術的な稚拙さとも相まって、一般のリスナーに訴える魅力を備えた作品を提示することができなかったことにある。ライブでは客を罵倒し、「分かる奴にだけ分かればいい」を通り越して「誰にも分かるわけがない」と諦めきったかのような態度で超マイペースな活動を行っていた。
しかし、エレカシは一部のカルト的愛好者たちを相手に自己満足的な世界を保ち続けるにはあまりにも器が大きすぎた。宮本の個性、才能のスケールは桑田佳祐や忌野清志郎をも超えていると思う。しかし今まではそれを分かりやすく提示する方法論も技術も経験もなかった。忌野清志郎が脚光を浴びたデビューからどん底の時期を経て「ラプソディー」で華々しく復活したように、宮本もまた「ココロに花を」「明日に向かって走れ」を契機に快進撃が始まるだろう。
アルバムの最後の曲で、ドラマの主題歌にもなっている「今宵の月のように」はこれまでのエレカシの最高傑作と多くの人が認めている。まっすぐで伸びやかなメロディーを唱歌のように朗々と力強く歌う宮本。「くだらねえとつぶやいて さめたツラして歩く いつの日か輝くだろう あふれる熱い涙」という冒頭の歌詞が今のエレカシのスタンスを象徴的に表している。この矛盾した内容をすんなり聴かせることができるのは宮本の才能である。今後、ここに笑いの要素を加えることができれば言うことはない。その場合宮本には天然の気があるので、桑田や忌野の歌詞に含まれる皮肉なユーモアとは一味違ったものになろう。今でもその片鱗は伺える。
新作のプロモーションでメディアに露出する機会の多い宮本だが、彼がTVで放つ独特の違和感は特筆に値する。彼の過剰なエゴが絶え間ない注目を要求し、単にTV慣れしていないというだけでは済まされない、あのような落ち着きのない動作につながっている。これは渋谷陽一が言っていたことだが、彼の場合、本番中に物を壊したり過激な行為をしても、「見てはいけないものを見てしまった」というような後味の悪い思いを引き起こさないという得な性格を持っている。後味の悪い思いをするどころか、爆笑を誘うのが通例のパターンである。泉谷しげるに似ているが、もっと生の感情から来ている。
宮本の書くメロディーは、日本人の心の琴線に触れるようなツボをよく心得ており、極めて日本的な旋律である。「悲しみの果て」や「孤独な旅人」そして「今宵の月のように」といった曲を聞いて分かる通り、極めてまっすぐで稟とした、そして適度に感傷的なメロディーラインは日本人としての懐かしい感情に訴えてくる。歌詞にも英語はほとんど出てこないし、出てきたとしても極めて日本人的な文脈の中で使われており、いわゆる「バタ臭い」部分は全くない。
宮本は「生活」というアルバムを「メロディーの宝庫」と考えているらしい。明治時代の唱歌を思わせるようなメロディーと「遁生」「偶成」「晩秋の一夜」というタイトルからも分かる通り、明治大正文学のような語彙の羅列は、確かに宮本の真骨頂であり、その世界をとことんまで究めた結晶のような作品である。「月の夜」が特にいい。ただしアルバム・ヴァージョンではボーカルの粗雑さのためにメロディーの美しさと歌詞の叙情性が損なわれている。新作の「月夜の歌」は同系列の曲であるが、こちらの歌い方はより洗練されている。
ROジャパン12月号のインタビューで宮本は、新作がオリコン初登場2位、年末まで売上見込50万枚という数字に決して満足していないと語っている。彼はどうやらとてつもなく高い所を狙っているようで、それこそ「国民歌謡」「現代日本を代表する大衆音楽」の域に達するまでは満足できないらしい。相変わらずの自意識過剰ぶりが伺える。
彼の自信は大いに結構だが、実際彼の書く曲のレベルが彼の望む領域に達しうるだけの質を持っているかどうかは正直疑問が残る。「今宵の月のように」は確かに名曲ではあったが、誰かが指摘していた通りメロディー自体はかつての青春歌謡の使い回しで、エレファントカシマシの真骨頂である「これは」という斬新さとインパクトは感じられない。歌詞にしてもいかにも中途半端な印象を与える。
12月にはエピック時代の7枚から選曲したベスト盤が発売される。この時期に出すのはいかにも商魂見え見えの感が否めない。1枚目から7枚目を振り返って、自分なりにベストの選曲をしてみたら、次のようになった。
①習わぬ経を読む男 ⑦無事なる男
②おはようこんにちわ ⑧おまえの夢を見た(ふられた男)
③上野の桜 ⑨奴隷天国
④珍奇男 ⑩東京の空
⑤男は行く ⑪涙
⑥月の夜 ⑫寒き夜
宮本浩次は1997年12月19日の深夜「タモリ倶楽部」に出演し、江戸の古地図を頼りに東
京の街を巡るという企画に参加した。タモリとは「ミュージック・ステーション」で何度か共演したことがあり、宮本の扱い方を心得ている彼はツボを押さえたやりとりをしていた。宮本はもう一人の共演者元キッチュと絡む気は毛頭なく、タモリと元キッチュがやりとりしている間はそっぽを向いてつまらなそうな顔をしていたが、自分が喋る段になるとがぜんはりきって持ち前のオーバーアクションと共にわめきたてる。彼の言うことはいちいち面白いのだが、どうも自意識過多というか、いわゆる「お笑い」の型からは外れた性質の笑い(苦笑と呼んでもいい)を引き起こす。
これを見た誰もが彼の特異なキャラクターを頭に焼き付けたことだろう。ガキのような態度に呆れ、不愉快な思いをした人もいるかもしれない。へりくだった態度の裏にある自意識に辟易した人もいるだろう。うさんくさい危ない奴という印象は誰もが受けたことであろう。正直今の宮本浩次にはテレビの世界は似合わない。とても安心して見ていられない。しかしだからこそもっと出てほしいとも言える。
5、6年前に書いた文章を貼り付けます
ダウンタウン コント傑作集 総合評価
「おかん」
大阪の少年なら誰もが知っている「おかん」のキツさをデフォルメした傑作コント。オチと呼べるようなものはなく、松本扮する「おかん」が息子のマー君(浜田)にこれでもかとばかりに余計な世話を焼き、それをうっとおしがるマー君の表情がまた笑える。
「ミラクルエース」
弱虫のマー君が近所の悪い人達にいじめられている所を救ってくれる謎の超人ミラクルエース。その正体は、ただの近所のおっさん・・・本筋とは全く関係のない所で展開されるマー君とおっさん(ミラクルエース)のシュールな会話が引き起こす笑いは、一度その魅力に取りつかれたら中毒になりそうなほどの独自の世界を作り上げている。このペーソス路線は後の「とかげのおっさん」にも引き継がれることになる。
「キャシー塚本の料理教室」
料理番組という予定調和の世界に出現した異人キャシー中島の壊れぶり、狂気を前面に押し出した破壊的コント。制御不可能なキャシーを懸命にフォローしようと誠実なしかし無益な努力を重ねる司会者(今田)、自分の置かれた異常な状況に茫然とするアシスタント(篠原涼子)との絶妙な絡み(後者は絡みとは呼べない?)が見事だったが、シリーズを重ねるにつれて暴力性のみが前面に出てくる傾向が見られた。
「とかげのおっさん」
松本扮するとかげが人妻に誘惑されたり借金のカタに取られたり相撲取りの飛び下り自殺騒ぎに巻き込まれたりと様々な苦難に遭遇する。一見オーソドックスなコントのパターンを踏襲しているように見えるが、随所に新しい実験的な試みが見え隠れする。長期シリーズ化し、これまでのコントの集大成的な趣もある。
「パイロット」
ジャンボジェットのコックピットの中。機長の松本と副操縦士の今田、東野がつまらないことでケンカし、訳の分からない機内放送をかける。設定は単純だが、くだらないことで争う3人のアホな絡みが絶妙で、笑い飛ばさずにはおれない。
「ポチ」
飼い主に捨てられた犬(今田)が主人(板尾)にもう一度飼ってほしいと頼みにいく。設定の妙。吉本の上司と売れない芸人を模した主人とポチ(板尾と今田)のチグハグな会話が涙なしには聞けない、地味だが、味のある笑いを生んでいる。
「ごっつ歌謡ショー」
浜田司会の歌番組で人気歌手板尾が超ウルトラ・ナンセンスな即興歌謡を披露する。ある意味では松本以上にシュールな板尾のセンスがいかんなく発揮されたシリーズ。
「はーのやつ」
小粒だが味のある短編。新任警官が飲酒運転の検査に用いる棒状の器具(はーのやつ)を手に入れて興奮し、自分の部屋の中で何度も試してみて喜ぶ。うまくいった時の松本の表情が見事な効果を生んでいる。
「スカイハングリンジャー」
見るからに怪しい男がインストラクターとなり、一般の受講者に椅子に乗って空を飛ぶ「スカイハングリンジャー」の講習を行う。訳の分からん男と一般人とのシュールな会話は松本の最も得意とする所である。
ダウンタウン漫才ネタ集
「誘拐ネタ」
誘拐犯(松本)と子供の父親(浜田)との電話での会話を演じる、DTのレパートリーの中でも最もよく知られたものの一つ。ボケとツッコミのテンポの良いやりとり、ちゃんとしたオチなど、彼らの中では最も正統的な漫才ネタと言える。ゲイシャ・ガールズのCDの中でも聞くことができる。
「クイズネタ」
「さて何でしょう」「全問正解するとフィリピン人になれる」等、松本の発想の原点とも言える不条理ネタ。10年前にはかなり斬新なネタだったが、今から見ると素朴で微笑ましいとさえ思える。
「医者ネタ」
息子が癌であることを知らされた父親(浜田)と医者(松本)とのやりとり。話がクライマックスに達した所で松本が全く別のネタに入っていく。ブラック・ユーモアとナンセンスの融合。
「野球部ネタ」
野球部を辞めたいという浜田と監督松本とのやりとり。まったく引き止めようとしない松本に浜田が業を煮やして「とめろや!」と叫ぶと「ほんなら親父のパジャマで・・・」とボケる松本。わりとオーソドックスなネタの一つ。
「怪談ネタ」
夏の定番「怖い話」を色々と披露する浜田にひねくれたボケをかます松本。「おばんは生きとんねや!」という浜田のシャウトは「ゲイシャ・ガールズ」のCDでも聞くことができる。
「料理番組ネタ」
浜田が料理番組のレポーターとなり、松本家自慢の料理を取材する。その料理の材料は松本家で飼っていた豚だったというのがオチだが、オチは早々にバらされ、後は二人のテンポの良いやりとりで最後まで引っ張る。
「テレビ番組ネタ」
「サザエさん」や「妖怪人間ベム」等、テレビ番組のおかしな点を指摘する、最も入りやすいパターンの一つだが、ダウンタウンがその草分け的存在ではなかったか。
「一人ごっつ」
松本が一人で大喜利に挑戦。彼の定番「写真で一言」や「お題」「キャラクター」「表情」「出世させよう」「日本語で返そう」など様々な課題のバリエーションで松本の特異なセンスが野放図に炸裂する。
「写真で一言」は武道館ライブ以来彼の定番になっていて、文字通り写真を見てそのシチュエーションに「はまる」一言を付け加えることで笑いを取るというもの。わかりやすいものから相当の頭の回転が要求されるものまで、松本の笑いの発想の原点が垣間見れるような気がする。
「お題」は、オーソドックスな大喜利のパターンだが、設定の仕方がまたぶっとんでいる。例えば「”戸棚にドーナツが入っています”というようなおやつの書きおきに嫌気がさした母親が考えた斬新なおやつとは?」「殴られても蹴られても宮本亜門が握りしめて放さなかったものとは?」「中華の出前を頼んで、”完全になめられてる”と感じるのはどんな時?」これに対する回答はまさに松本にしかできないもの。
お題例:「あんなに頑固だったオヤジが・・・」
回答例:「催眠術でニワトリになった」
「犬を必要以上によけた」
「スパゲティを食べるのにスプーンを使った」
「1オクターブ上げた」
「キャラクター」では、とぼけた似顔絵の人物の特徴を次々と列挙していく。似顔絵とはほとんど無関係に繰り出されるユニークな特徴(「かしといて」というのが口癖/プロレスにめちゃめちゃ詳しい/授業で後ろの席の奴が当てられた時思いっきり振り返る)そのものが笑いを誘う。
「表情」は、「足の指がぶつかってくる寸前のタンスの角の顔」「”フレンドパーク”を支えている視聴者が”フレンドパーク”を見ている時の顔」「念願のマイホームの竣工の時、”やっぱり屋根瓦の色は赤茶色が良かったなあ”とふと思ったお父さんの顔」等を想定して表情をつくる。
「出世させよう」は様々な人や物を出世(進化)させていくとどうなるかという、発想の飛躍を狙ったもの。
「日本語で返そう」は、全くわからない他国語を聞いて日本語で一言返すというもの。
「一人ごっつ 2」
平成9年10月から再開することになっていた「一人ごっつ」は、松本とフジテレビのトラブルから一時は中止になりかけたが、第1回目を以前の総集編とし、翌週から開始された。週1回の30分番組という枠になり、コント、工作等様々な実験的企画を含む「松本人志の世界を表現するものになった。
良くも悪くも実験性が強く、早い時間帯では決して放映できない内容を含み、クオリティーにもムラがある。様々な小企画がある中で毎回目玉になっているのは、マネキン人形を相手に様々なシチュエーションを演じる「一人コント」だろう。これも当たり外れが激しく、未完成の実験的作品といったところだろうか。
第1回:母子家庭に新しい夫としてやって来た男(松本)と子供(マネキン)。仕事から帰り、家で一人で飯を食っている所を無表情で見つめる子供に男がくってかかる。途中で女/母から電話。息子の首を締めながら「なついてしゃあないわ」と男が叫ぶ所でend 。
感想:かなり暴力的で、ギャグらしきものもなく、どこで笑っていいのか分からず、ただ松本の怒りをぶつけただけのように思える。
第2回:朝、浜辺の小屋の中で、気まずそうに背中を向け合って座るセーラー服の女(マネキン)と学生服の男(松本)。悪態をつきながらも何度も何度も未練たらしく戻ってくる男。
感想:とりたてて面白いことを言うわけでもないが、じわじわと後に残る。コントとしてはもう一つ素直に笑える場所が欲しかったところ。
第3回:剣豪を思わせる男(松本)に対して父の仇を打ちにきた子供(マネキン)。いくら投げ飛ばしても倒れない子供に対して訳の分からない文句を垂れる男。
感想:松本得意の不条理なセリフが次々と飛び出し、文句なしに笑える。1万円ライブでやった「赤い車の男」をもっと薄めたものと言えるかもしれない。
第4回:お笑いタレント(松本)がコンビニから部屋に帰ってくると、入口の前にファンとおぼしき少女(マネキン)が座っている。無反応の少女に対してギャグを飛ばし続ける男。
感想:試行錯誤しながら作っている様子が伝わってくるコント。意図的につまらないギャグを連発することで笑いを呼ぼうとするパターンだが、いま一つキレが足りなかったような感じ。
第5回:バラエティー番組(多分生放送)の収録が終わった後、段取りの悪さに腹を立ててダメ出しを連発するコメディアン。返事をするスタッフの声(笑い)だけが入る。怒り心頭に達してはいるものの、生活のために仕事を続けざるをえず、男が最後に「これからもよろしくお願いします」としおらしく頭を下げてオチ。
感想:今までの中では一番面白い。設定が分かりやすく、一つ一つの言葉がよく練られており、最後まで笑いが持続する。ダメ出しを連発するわがままなタレントと最初に思わせておいて、最後には彼が哀れに見えてくるという展開もいい。
コント以外の企画ではこれまでのところ特に面白いものはないが、電話で有名外人スターのおかんにとんでもない伝言をことづけるショート・コントや、粘土細工の作品を作るコーナー、即興で歌詞を作るコーナーなどがある。一番訳がわからないのが、スリッパやキムコ・ジャイアントなどの値段を10年前と比較しながら松本がコミカルに踊るコーナーである。これについては何を狙っているのかがまだ見えてこない。
松本の特異性は、不条理とナンセンスを巧みに組み合わせ、そこに人間の感情の襞を絶妙に絡めていく能力にある。彼の作った傑作コント「ミラクルエース」や「とかげのおっさん」では後者が強調され、クイズネタに代表される漫才では前者が強調されている。残念なことに松本・浜田の漫才はもう見られなくなってしまったが、「ガキの使い」でのフリートークでは発想のみで勝負のボケが即興的に繰り広げられる。
ポスト・ダウンタウンとして今一番注目されているのが、「ガキの使い」で山崎と一緒にオープニング企画に参加しているココリコであろう。田中のボケはある種独特の感覚を持っており、今後この感覚を磨いていけば松本に匹敵するものになる可能性もある。遠藤のツッコミは田中の強烈な個性にやや負けている感が否めないが、努力型なので、場馴れしてもっと力をつければかなり面白い所まで行くだろう。しかし彼らはダウンタウンのような図太さに欠けており、いじめるよりいじめられる側で面白さを発揮するタイプなのでポスト・ダウンタウンというよりポスト・99と言った方がふさわしいかもしれない。
ダウンタウンの弟分にあたる今田耕二、東野幸治はいずれも「いじめられ芸人」タイプであり、板尾創路と蔵野洋三はまだ十分に実力を発揮しているとは言えない状態だが、とぼけた味のギャグ・センスは現在の若手ではトップクラスである。
「おかん」
大阪の少年なら誰もが知っている「おかん」のキツさをデフォルメした傑作コント。オチと呼べるようなものはなく、松本扮する「おかん」が息子のマー君(浜田)にこれでもかとばかりに余計な世話を焼き、それをうっとおしがるマー君の表情がまた笑える。
「ミラクルエース」
弱虫のマー君が近所の悪い人達にいじめられている所を救ってくれる謎の超人ミラクルエース。その正体は、ただの近所のおっさん・・・本筋とは全く関係のない所で展開されるマー君とおっさん(ミラクルエース)のシュールな会話が引き起こす笑いは、一度その魅力に取りつかれたら中毒になりそうなほどの独自の世界を作り上げている。このペーソス路線は後の「とかげのおっさん」にも引き継がれることになる。
「キャシー塚本の料理教室」
料理番組という予定調和の世界に出現した異人キャシー中島の壊れぶり、狂気を前面に押し出した破壊的コント。制御不可能なキャシーを懸命にフォローしようと誠実なしかし無益な努力を重ねる司会者(今田)、自分の置かれた異常な状況に茫然とするアシスタント(篠原涼子)との絶妙な絡み(後者は絡みとは呼べない?)が見事だったが、シリーズを重ねるにつれて暴力性のみが前面に出てくる傾向が見られた。
「とかげのおっさん」
松本扮するとかげが人妻に誘惑されたり借金のカタに取られたり相撲取りの飛び下り自殺騒ぎに巻き込まれたりと様々な苦難に遭遇する。一見オーソドックスなコントのパターンを踏襲しているように見えるが、随所に新しい実験的な試みが見え隠れする。長期シリーズ化し、これまでのコントの集大成的な趣もある。
「パイロット」
ジャンボジェットのコックピットの中。機長の松本と副操縦士の今田、東野がつまらないことでケンカし、訳の分からない機内放送をかける。設定は単純だが、くだらないことで争う3人のアホな絡みが絶妙で、笑い飛ばさずにはおれない。
「ポチ」
飼い主に捨てられた犬(今田)が主人(板尾)にもう一度飼ってほしいと頼みにいく。設定の妙。吉本の上司と売れない芸人を模した主人とポチ(板尾と今田)のチグハグな会話が涙なしには聞けない、地味だが、味のある笑いを生んでいる。
「ごっつ歌謡ショー」
浜田司会の歌番組で人気歌手板尾が超ウルトラ・ナンセンスな即興歌謡を披露する。ある意味では松本以上にシュールな板尾のセンスがいかんなく発揮されたシリーズ。
「はーのやつ」
小粒だが味のある短編。新任警官が飲酒運転の検査に用いる棒状の器具(はーのやつ)を手に入れて興奮し、自分の部屋の中で何度も試してみて喜ぶ。うまくいった時の松本の表情が見事な効果を生んでいる。
「スカイハングリンジャー」
見るからに怪しい男がインストラクターとなり、一般の受講者に椅子に乗って空を飛ぶ「スカイハングリンジャー」の講習を行う。訳の分からん男と一般人とのシュールな会話は松本の最も得意とする所である。
ダウンタウン漫才ネタ集
「誘拐ネタ」
誘拐犯(松本)と子供の父親(浜田)との電話での会話を演じる、DTのレパートリーの中でも最もよく知られたものの一つ。ボケとツッコミのテンポの良いやりとり、ちゃんとしたオチなど、彼らの中では最も正統的な漫才ネタと言える。ゲイシャ・ガールズのCDの中でも聞くことができる。
「クイズネタ」
「さて何でしょう」「全問正解するとフィリピン人になれる」等、松本の発想の原点とも言える不条理ネタ。10年前にはかなり斬新なネタだったが、今から見ると素朴で微笑ましいとさえ思える。
「医者ネタ」
息子が癌であることを知らされた父親(浜田)と医者(松本)とのやりとり。話がクライマックスに達した所で松本が全く別のネタに入っていく。ブラック・ユーモアとナンセンスの融合。
「野球部ネタ」
野球部を辞めたいという浜田と監督松本とのやりとり。まったく引き止めようとしない松本に浜田が業を煮やして「とめろや!」と叫ぶと「ほんなら親父のパジャマで・・・」とボケる松本。わりとオーソドックスなネタの一つ。
「怪談ネタ」
夏の定番「怖い話」を色々と披露する浜田にひねくれたボケをかます松本。「おばんは生きとんねや!」という浜田のシャウトは「ゲイシャ・ガールズ」のCDでも聞くことができる。
「料理番組ネタ」
浜田が料理番組のレポーターとなり、松本家自慢の料理を取材する。その料理の材料は松本家で飼っていた豚だったというのがオチだが、オチは早々にバらされ、後は二人のテンポの良いやりとりで最後まで引っ張る。
「テレビ番組ネタ」
「サザエさん」や「妖怪人間ベム」等、テレビ番組のおかしな点を指摘する、最も入りやすいパターンの一つだが、ダウンタウンがその草分け的存在ではなかったか。
「一人ごっつ」
松本が一人で大喜利に挑戦。彼の定番「写真で一言」や「お題」「キャラクター」「表情」「出世させよう」「日本語で返そう」など様々な課題のバリエーションで松本の特異なセンスが野放図に炸裂する。
「写真で一言」は武道館ライブ以来彼の定番になっていて、文字通り写真を見てそのシチュエーションに「はまる」一言を付け加えることで笑いを取るというもの。わかりやすいものから相当の頭の回転が要求されるものまで、松本の笑いの発想の原点が垣間見れるような気がする。
「お題」は、オーソドックスな大喜利のパターンだが、設定の仕方がまたぶっとんでいる。例えば「”戸棚にドーナツが入っています”というようなおやつの書きおきに嫌気がさした母親が考えた斬新なおやつとは?」「殴られても蹴られても宮本亜門が握りしめて放さなかったものとは?」「中華の出前を頼んで、”完全になめられてる”と感じるのはどんな時?」これに対する回答はまさに松本にしかできないもの。
お題例:「あんなに頑固だったオヤジが・・・」
回答例:「催眠術でニワトリになった」
「犬を必要以上によけた」
「スパゲティを食べるのにスプーンを使った」
「1オクターブ上げた」
「キャラクター」では、とぼけた似顔絵の人物の特徴を次々と列挙していく。似顔絵とはほとんど無関係に繰り出されるユニークな特徴(「かしといて」というのが口癖/プロレスにめちゃめちゃ詳しい/授業で後ろの席の奴が当てられた時思いっきり振り返る)そのものが笑いを誘う。
「表情」は、「足の指がぶつかってくる寸前のタンスの角の顔」「”フレンドパーク”を支えている視聴者が”フレンドパーク”を見ている時の顔」「念願のマイホームの竣工の時、”やっぱり屋根瓦の色は赤茶色が良かったなあ”とふと思ったお父さんの顔」等を想定して表情をつくる。
「出世させよう」は様々な人や物を出世(進化)させていくとどうなるかという、発想の飛躍を狙ったもの。
「日本語で返そう」は、全くわからない他国語を聞いて日本語で一言返すというもの。
「一人ごっつ 2」
平成9年10月から再開することになっていた「一人ごっつ」は、松本とフジテレビのトラブルから一時は中止になりかけたが、第1回目を以前の総集編とし、翌週から開始された。週1回の30分番組という枠になり、コント、工作等様々な実験的企画を含む「松本人志の世界を表現するものになった。
良くも悪くも実験性が強く、早い時間帯では決して放映できない内容を含み、クオリティーにもムラがある。様々な小企画がある中で毎回目玉になっているのは、マネキン人形を相手に様々なシチュエーションを演じる「一人コント」だろう。これも当たり外れが激しく、未完成の実験的作品といったところだろうか。
第1回:母子家庭に新しい夫としてやって来た男(松本)と子供(マネキン)。仕事から帰り、家で一人で飯を食っている所を無表情で見つめる子供に男がくってかかる。途中で女/母から電話。息子の首を締めながら「なついてしゃあないわ」と男が叫ぶ所でend 。
感想:かなり暴力的で、ギャグらしきものもなく、どこで笑っていいのか分からず、ただ松本の怒りをぶつけただけのように思える。
第2回:朝、浜辺の小屋の中で、気まずそうに背中を向け合って座るセーラー服の女(マネキン)と学生服の男(松本)。悪態をつきながらも何度も何度も未練たらしく戻ってくる男。
感想:とりたてて面白いことを言うわけでもないが、じわじわと後に残る。コントとしてはもう一つ素直に笑える場所が欲しかったところ。
第3回:剣豪を思わせる男(松本)に対して父の仇を打ちにきた子供(マネキン)。いくら投げ飛ばしても倒れない子供に対して訳の分からない文句を垂れる男。
感想:松本得意の不条理なセリフが次々と飛び出し、文句なしに笑える。1万円ライブでやった「赤い車の男」をもっと薄めたものと言えるかもしれない。
第4回:お笑いタレント(松本)がコンビニから部屋に帰ってくると、入口の前にファンとおぼしき少女(マネキン)が座っている。無反応の少女に対してギャグを飛ばし続ける男。
感想:試行錯誤しながら作っている様子が伝わってくるコント。意図的につまらないギャグを連発することで笑いを呼ぼうとするパターンだが、いま一つキレが足りなかったような感じ。
第5回:バラエティー番組(多分生放送)の収録が終わった後、段取りの悪さに腹を立ててダメ出しを連発するコメディアン。返事をするスタッフの声(笑い)だけが入る。怒り心頭に達してはいるものの、生活のために仕事を続けざるをえず、男が最後に「これからもよろしくお願いします」としおらしく頭を下げてオチ。
感想:今までの中では一番面白い。設定が分かりやすく、一つ一つの言葉がよく練られており、最後まで笑いが持続する。ダメ出しを連発するわがままなタレントと最初に思わせておいて、最後には彼が哀れに見えてくるという展開もいい。
コント以外の企画ではこれまでのところ特に面白いものはないが、電話で有名外人スターのおかんにとんでもない伝言をことづけるショート・コントや、粘土細工の作品を作るコーナー、即興で歌詞を作るコーナーなどがある。一番訳がわからないのが、スリッパやキムコ・ジャイアントなどの値段を10年前と比較しながら松本がコミカルに踊るコーナーである。これについては何を狙っているのかがまだ見えてこない。
松本の特異性は、不条理とナンセンスを巧みに組み合わせ、そこに人間の感情の襞を絶妙に絡めていく能力にある。彼の作った傑作コント「ミラクルエース」や「とかげのおっさん」では後者が強調され、クイズネタに代表される漫才では前者が強調されている。残念なことに松本・浜田の漫才はもう見られなくなってしまったが、「ガキの使い」でのフリートークでは発想のみで勝負のボケが即興的に繰り広げられる。
ポスト・ダウンタウンとして今一番注目されているのが、「ガキの使い」で山崎と一緒にオープニング企画に参加しているココリコであろう。田中のボケはある種独特の感覚を持っており、今後この感覚を磨いていけば松本に匹敵するものになる可能性もある。遠藤のツッコミは田中の強烈な個性にやや負けている感が否めないが、努力型なので、場馴れしてもっと力をつければかなり面白い所まで行くだろう。しかし彼らはダウンタウンのような図太さに欠けており、いじめるよりいじめられる側で面白さを発揮するタイプなのでポスト・ダウンタウンというよりポスト・99と言った方がふさわしいかもしれない。
ダウンタウンの弟分にあたる今田耕二、東野幸治はいずれも「いじめられ芸人」タイプであり、板尾創路と蔵野洋三はまだ十分に実力を発揮しているとは言えない状態だが、とぼけた味のギャグ・センスは現在の若手ではトップクラスである。
奥○恵と僕
恥ずかしながら、僕はかつて奥○恵というアイドル女優にのめりこんだことがある。熱病というのか、寝ても醒めても奥○恵のことが頭から離れないという状態が、何年か続いた。
彼女の虜になったきっかけが何だったのかは、よく覚えていない。たぶん雑誌か何かでグラビアを見たのが最初だったのだろうと思う。それから彼女の出演するテレビ番組をチェックし、映画やビデオを見て、彼女がグラビアを飾っている雑誌は欠かさず買い、彼女の出演する舞台を熱心に見に行ったりした。
『週刊テレビガイド』で彼女の1週間の動向をチェックし、追いかけることが毎週の欠かせない行動となった。ここまでは普通のアイドルファンの域を出ていないが、彼女に対する関心はどんどんエスカレートし、雑誌に載っている写真や情報の断片から彼女の通っている学校を特定し、本名を探り、住んでいる場所を特定し、そのあたりを「散歩」したりするようになるに至った。こうなるともはやストーカーに近い。
彼女の本名は比較的、というか相当珍しい苗字なので、彼女の実家のある地域の住宅地図を調べても件数は限られている。一度、彼女の通った小学校の近くにある、彼女の本名と同じ家を住宅地図で調べて、行ってみたことがある。何をするというわけでもなく、ただ家の前を通り過ぎて帰ってきただけだったのだが、今から考えたら、とんでもなく危ない奴だ(もう時効だと信じて、どうかお許しください)。
当時の僕をそこまで奥○恵に引き付けたものは何だったのか。ピュアで透明な存在感がどうとか、瞳に力があるとか、もっともらしい理由は何とでも書くことができるが、要するに、彼女のつらがまえに惚れたのである。当時は奥○よりも広末涼子の方が人気があったのだが、広末にはたいして魅力を感じなかった。広末がビートルズとすれば奥○はストーンズで、常にカウンター的な存在を好む僕の天邪鬼な性格がそう仕向けたのかもしれない。
奥○恵のテレビ出演作としては、岩井俊二監督の出世作『打ち上げ花火 下から見るか横から見るか』(後に映画化)や、キンキキッズと共演した『若葉のころ』『青の時代』が代表的なところだろう。伝説的な可愛さとしてファンの間では伝説になっている『とっても母娘』は、僕がファンになる前の放映だったので、残念ながら見ることができなかった。
あとは時たま出るトーク番組やバラエティ番組で可愛さを振り撒いていたが、トークは基本的に苦手で、今のバラエティに必要な笑いの反射神経も持ち合わせていなかったので(そこから「おっとりした性格」という印象が形成されたのだと思う)、そういう番組ではいつも浮いていた。そこがまたファンには堪えられなかったりする。しかし、中山秀征とやった日曜昼のバラエティ『トロトロで行こう』という番組だけは、あまりにも番組の進行から浮き上がっていて、見ていられない位だった(番組そのものも悲惨だったのだが)。毎回顔を覆いたくなるような状態で、思わず真剣に事務所(パーフィット・プロダクション)に止めさせてくれと手紙を書こうとしたほどだ。彼女の数多い仕事の中でも、あれだけは失敗だったと断言できる。
彼女の本領が発揮されるのはやはり舞台だと思う。『アンネの日記』は2年とも見に行ったし、市川染五郎と共演した『ハムレット』も見た。『アンネの日記』は、歌も演技も素晴らしかった。ただのアイドルではない、という評価を得たのもあの舞台が大きかったと思う。
歌手としても3、4枚アルバムを出している。今はもう持っていない(結婚するときに奥○関係のものはすべて処分した。)が、どれもクオリティの高い作品だった。音楽にはちょっと五月蝿い僕が聴いても、良質なポップスとして愛聴できた。一度だけコンサートもやった。そのビデオも買ったが、正統派のじつにいい作品だった。
奥○への関心が薄れたのは、僕自身の結婚と軌を一にしている。だから、松尾スズキと組んだ『キレイ』も、『天国のKISS』も、『呪怨』も『弟切草』も『ビギナー』も知らない。気がついたら、奥○自身も結婚していた。その前に、押尾学とのH写真がBUBUKAに掲載されて多くのファンにショックを与えた。あの事件でそれまでのファンも急速に離れたのだろう。数多くあったファンサイトも今はほとんど消滅している。
今年の2月にITベンチャー企業の社長と結婚したときには、玉の輿などとずいぶんやっかみ半分の声もあったようだが、もはや彼女に関心を失っていた僕は「ふーん、お幸せに」という以上の感想は持てなかった。
最近、彼女の夫であるサイバー・エージェント社長藤田晋氏のブログを見つけて、そこにときどき間接的に登場する彼女を懐かしさ半分、今どうしてるんだろうという好奇心半分で、ちらちらと読んでいた。
ところが、最近、奥○自身が匿名で書いているブログがある、という情報を偶然ネットで知った。覗いてみたところ、そこに含まれている情報や内容から、間違いなく奥○本人のブログであると確信した。
ログが削除されかけているようなので、必死で保存して、一通り読んでみた。ここに書かれているのは疑いなく素の彼女の心情であろう。これを読んで、彼女に対する僕のイメージはよい意味で裏切られた。といっても、正確に言えば、基本的な性格は僕がすでに把握していたとおりなのだが(僕は奥○の内面については奥○以上に深く知っているという自負がある)、僕が入れ込んでいた頃の少女が、すっかり成熟した大人の女性になっていた、ということへの軽い驚きである。
僕は以前彼女の書いた文章はほとんど読み込んでいる。それらは語彙も稚拙で、素直ではあるが幼いとさえいえる感情表現以上のものはなかった。ところが、このブログには、僕の知っている奥○らしからぬ洗練された表現が多用されている。そのことにまず驚いた。もう彼女も25歳なのだから、当然といえば当然なのだが。例えば、ブログのタイトル「匿名女優ノート」の下には、次のように記されている。
「日々の出来事を記してみようと思います。若輩ゆえ、稚拙な文章をお許しください。何卒です。」
「若輩ゆえ」とか「稚拙な」とか「何卒」とか、僕の知っている奥○のボキャブラリーにはなかったはず。ここには、知的で茶目っ気があり、可愛くて仄かな色気すら漂わせている一人の大人の女性がいる。
特に驚いたのが、次の文章。
「2004年07月30日
表裏一体
私は生と死の狭間でなんとか生きている。
昔から人の嫌なところばかり見てきてしまった。
愛情の裏に潜む卑しい心。
私は愛に飢えている。人を愛する喜びはなんとか知っても、愛される欲求を止めることができない。
抱きしめて欲しい、名前を呼んで欲しい、目を見つめて欲しい、心で深く繋がりたい。愛というものが愛おしくもあり、そして怖いのだと思う。
この孤独が自分の心の奥底に眠るコンプレックスとして私を蝕んでゆく。
愛が存在しないところに私は存在できない。
此れに負けたとき、私は居なくなってしまいそうな気がする。でも卑屈になったりはしない。人のせいにもしない。全ては自分の歩んできた道なのだから。
人には変われる可能性が無限にあると信じている。
孤独を愛さなければ。孤独と共存しなければ。全ての愛のために深い慈愛を。。。」
これは、奥○の実存から発せられた言葉にほかならない。少女の頃の奥○は、上のようなメッセージを、その稀有な存在感そのものによって、言外に僕たちに伝えていた。しかし、ここには、自分自身の内奥にある感情を、しっかりと対象化して、言葉で表現できる一人の女性がいる。
表面的に見れば、仕事が忙しくて中々帰ってこない夫に対する新妻の寂しさを表現したものとも読めるが、到底それだけには収まらない激しい感情がそこには込められている。
彼女が10代で味わってきたのであろう、奥○恵をして「生と死の狭間でなんとか生きている」と言わしめるような経験が、具体的にはどんなものだったのか、知る由もない。
「昔から人の嫌なところばかり見てきてしまった。愛情の裏に潜む卑しい心。」
この言葉から推測できるのは、彼女の生きてきた芸能界という特殊な世界におけるさまざまな葛藤や経験のことだ。あるいは、芸能界入りする前にも、何かがあったのかもしれない。
奥○は、10代の頃から、何かそういうもの(幼少時の不幸な体験と関わっている?)の存在を感じさせる部分があった。その、彼女の存在に纏わる影のようなものが、彼女の演技に無意識のうちに陰影を与えていた。
「私は愛に飢えている。人を愛する喜びはなんとか知っても、愛される欲求を止めることができない。」
奥○恵は何人もの男とつきあっているというような噂が立っていたことがある。押尾学との写真はその噂を立証するものに思われた。女優という職業柄、魅力的な男と出会う機会には事欠かなかったであろう、心に癒され難い傷を抱えた少女が、しばしば誘惑に勝てなかったとしても、僕は特段責める気にはなれない。
セックス依存症に陥る少女はほとんど例外なく、幼い頃に両親の愛情を十分に与えられなかったという経験を持っているという。奥○がそうだというわけではないが、愛情に関する何か深いトラウマが、彼女の絶え間ない愛への飢餓感につながっているのかもしれない。
この文章の中には、「孤独」という言葉が何度も出てくる。孤独に蝕まれそうになりながらも、孤独を愛さなければ、孤独と共存しなければ、と彼女は自分に言い聞かせている。
最後の、「全ての愛のために深い慈愛を。。。」という一節はいくぶん意味不明だが、表面的に解釈すれば、「自分が夫の愛を独占することを我慢することで、全体により多くの愛が行き渡るよう、深い慈愛の心を持ちたい」というような意味なのかもしれないが、ここには、奥○の持っている霊的なもの、超越的なスピリチュアリティへの憧憬のような感情が表現されていると読み込むことも可能だろう。
いずれにしても、ここには自己の内面を劇的な文章の形で表現できる一人の女優がいる。まだ若干の幼さは感じさせるが、そこが彼女の魅力だと今でも素直に思える。
もうひとつ、彼女の文章の中に目立つのは、精神的なものへの関心の高さだ。ヒーリングや自然療法に凝ってみたり、Oリングテストをやって自分に合う石を集めたり、ヨガで自分の内面を見つめてみたりと、スピリチュアルなものへの志向は相当に強い。
芸能人が新興宗教や自己啓発セミナーにはまるというパターンはありふれたものだが、奥○の場合、そういうものではなく、もっと個人的な内面性の探求に向かっている印象を受ける。
一般に芸術的な仕事に従事している人は通常人よりも霊的なものに引かれる傾向がある。芸術とは自己の内面を深く見つめ、それを外に向けて表現する行為に他ならないから、芸術家が内面性(精神性、スピリチュアリティ)の探求に向かうことはある意味当然といえる。
奥○の場合、それに加えて、インタビューなどでもよく語っているように、かなり霊感が強く、彼女自身が霊媒的な資質を備えているようだ。彼女にとって舞台女優が天職であるという秘密が、ここにある。
舞台女優という存在には、ある意味、巫女と類似した部分がある。大勢の聴衆の中で、舞い、歌い、演技し、非日常的な高揚感を聴衆に提供する。舞台演劇におけるステージと聴衆との一体感、高揚感の中で、独特の磁場が形成される。この体験はテレビや映画では起こりえないものだ。
奥○恵は、ステージに登場しただけで、何か聴衆との間に化学反応を起こし、磁場を生み出すような、独特の存在感と雰囲気を備えている。これには彼女の霊媒的な資質が大いに関係していると思われる。松尾スズキやケラリーノ・サンドロビッチのようなマニアックな劇団の演出家が好んで彼女を起用するのは、彼女のこうした資質を見抜いてのことだろう。
奥○が、自らの霊媒的な資質を明確に自覚し、その資質を、少女の頃のように無意識的にではなく、意識的に演技の中で活用するようになったとき、途方もない女優が生まれるのではないかという予感が僕にはある。
しかし、そういうスピリチュアルな能力を、自己の力だけで目覚めさせることはできない。彼女がその稀な資質を安全に開発し、上手く発達させることのできる適切な指導者を見出すことができるかどうかが、今後の奥○恵の女優としての運命を決めるのだろう。
最後に、彼女のブログから、僕が読んで感銘を受けた文章を引用したい。
(引用開始)
命 2004.06.07 00:31:47
私は広島で生まれました。年代は違うけれど原爆が落とされた8月6日に生まれました。私自身、戦争を経験したことはありませんが、周りに戦争体験者や原爆によって家族を失ってしまった人たちもたくさんいたのでそんな環境の中で育ってきて日頃から平和を望む心や、死というものをきっと人1倍に考えるようになったのではないかと思います。自分の命を自分で殺めるということほど愚かなことはないと思います。望まなくても亡くなってしまった人たちはたくさんいるのです。今、そのことを思うと理由はともかくとして、私は胸が張り裂けそうな気持ちでいっぱいです。誰もが心の傷を背負っていると思いますが私はそれに負けてはいけないと思います。何か意味があるのだと思います。どうすることも出来ず、ただひたすら苦しみに耐えなければならない時もあると思います。強くはありません。だけれどもこれも自分です。こんな自分を受け入れてあげようと思います。そんなことをしたって決して自分一人で楽になるとは思えません。もっと深い傷と悲しみを生んでしまうと思います。…
(引用終わり)
彼女の虜になったきっかけが何だったのかは、よく覚えていない。たぶん雑誌か何かでグラビアを見たのが最初だったのだろうと思う。それから彼女の出演するテレビ番組をチェックし、映画やビデオを見て、彼女がグラビアを飾っている雑誌は欠かさず買い、彼女の出演する舞台を熱心に見に行ったりした。
『週刊テレビガイド』で彼女の1週間の動向をチェックし、追いかけることが毎週の欠かせない行動となった。ここまでは普通のアイドルファンの域を出ていないが、彼女に対する関心はどんどんエスカレートし、雑誌に載っている写真や情報の断片から彼女の通っている学校を特定し、本名を探り、住んでいる場所を特定し、そのあたりを「散歩」したりするようになるに至った。こうなるともはやストーカーに近い。
彼女の本名は比較的、というか相当珍しい苗字なので、彼女の実家のある地域の住宅地図を調べても件数は限られている。一度、彼女の通った小学校の近くにある、彼女の本名と同じ家を住宅地図で調べて、行ってみたことがある。何をするというわけでもなく、ただ家の前を通り過ぎて帰ってきただけだったのだが、今から考えたら、とんでもなく危ない奴だ(もう時効だと信じて、どうかお許しください)。
当時の僕をそこまで奥○恵に引き付けたものは何だったのか。ピュアで透明な存在感がどうとか、瞳に力があるとか、もっともらしい理由は何とでも書くことができるが、要するに、彼女のつらがまえに惚れたのである。当時は奥○よりも広末涼子の方が人気があったのだが、広末にはたいして魅力を感じなかった。広末がビートルズとすれば奥○はストーンズで、常にカウンター的な存在を好む僕の天邪鬼な性格がそう仕向けたのかもしれない。
奥○恵のテレビ出演作としては、岩井俊二監督の出世作『打ち上げ花火 下から見るか横から見るか』(後に映画化)や、キンキキッズと共演した『若葉のころ』『青の時代』が代表的なところだろう。伝説的な可愛さとしてファンの間では伝説になっている『とっても母娘』は、僕がファンになる前の放映だったので、残念ながら見ることができなかった。
あとは時たま出るトーク番組やバラエティ番組で可愛さを振り撒いていたが、トークは基本的に苦手で、今のバラエティに必要な笑いの反射神経も持ち合わせていなかったので(そこから「おっとりした性格」という印象が形成されたのだと思う)、そういう番組ではいつも浮いていた。そこがまたファンには堪えられなかったりする。しかし、中山秀征とやった日曜昼のバラエティ『トロトロで行こう』という番組だけは、あまりにも番組の進行から浮き上がっていて、見ていられない位だった(番組そのものも悲惨だったのだが)。毎回顔を覆いたくなるような状態で、思わず真剣に事務所(パーフィット・プロダクション)に止めさせてくれと手紙を書こうとしたほどだ。彼女の数多い仕事の中でも、あれだけは失敗だったと断言できる。
彼女の本領が発揮されるのはやはり舞台だと思う。『アンネの日記』は2年とも見に行ったし、市川染五郎と共演した『ハムレット』も見た。『アンネの日記』は、歌も演技も素晴らしかった。ただのアイドルではない、という評価を得たのもあの舞台が大きかったと思う。
歌手としても3、4枚アルバムを出している。今はもう持っていない(結婚するときに奥○関係のものはすべて処分した。)が、どれもクオリティの高い作品だった。音楽にはちょっと五月蝿い僕が聴いても、良質なポップスとして愛聴できた。一度だけコンサートもやった。そのビデオも買ったが、正統派のじつにいい作品だった。
奥○への関心が薄れたのは、僕自身の結婚と軌を一にしている。だから、松尾スズキと組んだ『キレイ』も、『天国のKISS』も、『呪怨』も『弟切草』も『ビギナー』も知らない。気がついたら、奥○自身も結婚していた。その前に、押尾学とのH写真がBUBUKAに掲載されて多くのファンにショックを与えた。あの事件でそれまでのファンも急速に離れたのだろう。数多くあったファンサイトも今はほとんど消滅している。
今年の2月にITベンチャー企業の社長と結婚したときには、玉の輿などとずいぶんやっかみ半分の声もあったようだが、もはや彼女に関心を失っていた僕は「ふーん、お幸せに」という以上の感想は持てなかった。
最近、彼女の夫であるサイバー・エージェント社長藤田晋氏のブログを見つけて、そこにときどき間接的に登場する彼女を懐かしさ半分、今どうしてるんだろうという好奇心半分で、ちらちらと読んでいた。
ところが、最近、奥○自身が匿名で書いているブログがある、という情報を偶然ネットで知った。覗いてみたところ、そこに含まれている情報や内容から、間違いなく奥○本人のブログであると確信した。
ログが削除されかけているようなので、必死で保存して、一通り読んでみた。ここに書かれているのは疑いなく素の彼女の心情であろう。これを読んで、彼女に対する僕のイメージはよい意味で裏切られた。といっても、正確に言えば、基本的な性格は僕がすでに把握していたとおりなのだが(僕は奥○の内面については奥○以上に深く知っているという自負がある)、僕が入れ込んでいた頃の少女が、すっかり成熟した大人の女性になっていた、ということへの軽い驚きである。
僕は以前彼女の書いた文章はほとんど読み込んでいる。それらは語彙も稚拙で、素直ではあるが幼いとさえいえる感情表現以上のものはなかった。ところが、このブログには、僕の知っている奥○らしからぬ洗練された表現が多用されている。そのことにまず驚いた。もう彼女も25歳なのだから、当然といえば当然なのだが。例えば、ブログのタイトル「匿名女優ノート」の下には、次のように記されている。
「日々の出来事を記してみようと思います。若輩ゆえ、稚拙な文章をお許しください。何卒です。」
「若輩ゆえ」とか「稚拙な」とか「何卒」とか、僕の知っている奥○のボキャブラリーにはなかったはず。ここには、知的で茶目っ気があり、可愛くて仄かな色気すら漂わせている一人の大人の女性がいる。
特に驚いたのが、次の文章。
「2004年07月30日
表裏一体
私は生と死の狭間でなんとか生きている。
昔から人の嫌なところばかり見てきてしまった。
愛情の裏に潜む卑しい心。
私は愛に飢えている。人を愛する喜びはなんとか知っても、愛される欲求を止めることができない。
抱きしめて欲しい、名前を呼んで欲しい、目を見つめて欲しい、心で深く繋がりたい。愛というものが愛おしくもあり、そして怖いのだと思う。
この孤独が自分の心の奥底に眠るコンプレックスとして私を蝕んでゆく。
愛が存在しないところに私は存在できない。
此れに負けたとき、私は居なくなってしまいそうな気がする。でも卑屈になったりはしない。人のせいにもしない。全ては自分の歩んできた道なのだから。
人には変われる可能性が無限にあると信じている。
孤独を愛さなければ。孤独と共存しなければ。全ての愛のために深い慈愛を。。。」
これは、奥○の実存から発せられた言葉にほかならない。少女の頃の奥○は、上のようなメッセージを、その稀有な存在感そのものによって、言外に僕たちに伝えていた。しかし、ここには、自分自身の内奥にある感情を、しっかりと対象化して、言葉で表現できる一人の女性がいる。
表面的に見れば、仕事が忙しくて中々帰ってこない夫に対する新妻の寂しさを表現したものとも読めるが、到底それだけには収まらない激しい感情がそこには込められている。
彼女が10代で味わってきたのであろう、奥○恵をして「生と死の狭間でなんとか生きている」と言わしめるような経験が、具体的にはどんなものだったのか、知る由もない。
「昔から人の嫌なところばかり見てきてしまった。愛情の裏に潜む卑しい心。」
この言葉から推測できるのは、彼女の生きてきた芸能界という特殊な世界におけるさまざまな葛藤や経験のことだ。あるいは、芸能界入りする前にも、何かがあったのかもしれない。
奥○は、10代の頃から、何かそういうもの(幼少時の不幸な体験と関わっている?)の存在を感じさせる部分があった。その、彼女の存在に纏わる影のようなものが、彼女の演技に無意識のうちに陰影を与えていた。
「私は愛に飢えている。人を愛する喜びはなんとか知っても、愛される欲求を止めることができない。」
奥○恵は何人もの男とつきあっているというような噂が立っていたことがある。押尾学との写真はその噂を立証するものに思われた。女優という職業柄、魅力的な男と出会う機会には事欠かなかったであろう、心に癒され難い傷を抱えた少女が、しばしば誘惑に勝てなかったとしても、僕は特段責める気にはなれない。
セックス依存症に陥る少女はほとんど例外なく、幼い頃に両親の愛情を十分に与えられなかったという経験を持っているという。奥○がそうだというわけではないが、愛情に関する何か深いトラウマが、彼女の絶え間ない愛への飢餓感につながっているのかもしれない。
この文章の中には、「孤独」という言葉が何度も出てくる。孤独に蝕まれそうになりながらも、孤独を愛さなければ、孤独と共存しなければ、と彼女は自分に言い聞かせている。
最後の、「全ての愛のために深い慈愛を。。。」という一節はいくぶん意味不明だが、表面的に解釈すれば、「自分が夫の愛を独占することを我慢することで、全体により多くの愛が行き渡るよう、深い慈愛の心を持ちたい」というような意味なのかもしれないが、ここには、奥○の持っている霊的なもの、超越的なスピリチュアリティへの憧憬のような感情が表現されていると読み込むことも可能だろう。
いずれにしても、ここには自己の内面を劇的な文章の形で表現できる一人の女優がいる。まだ若干の幼さは感じさせるが、そこが彼女の魅力だと今でも素直に思える。
もうひとつ、彼女の文章の中に目立つのは、精神的なものへの関心の高さだ。ヒーリングや自然療法に凝ってみたり、Oリングテストをやって自分に合う石を集めたり、ヨガで自分の内面を見つめてみたりと、スピリチュアルなものへの志向は相当に強い。
芸能人が新興宗教や自己啓発セミナーにはまるというパターンはありふれたものだが、奥○の場合、そういうものではなく、もっと個人的な内面性の探求に向かっている印象を受ける。
一般に芸術的な仕事に従事している人は通常人よりも霊的なものに引かれる傾向がある。芸術とは自己の内面を深く見つめ、それを外に向けて表現する行為に他ならないから、芸術家が内面性(精神性、スピリチュアリティ)の探求に向かうことはある意味当然といえる。
奥○の場合、それに加えて、インタビューなどでもよく語っているように、かなり霊感が強く、彼女自身が霊媒的な資質を備えているようだ。彼女にとって舞台女優が天職であるという秘密が、ここにある。
舞台女優という存在には、ある意味、巫女と類似した部分がある。大勢の聴衆の中で、舞い、歌い、演技し、非日常的な高揚感を聴衆に提供する。舞台演劇におけるステージと聴衆との一体感、高揚感の中で、独特の磁場が形成される。この体験はテレビや映画では起こりえないものだ。
奥○恵は、ステージに登場しただけで、何か聴衆との間に化学反応を起こし、磁場を生み出すような、独特の存在感と雰囲気を備えている。これには彼女の霊媒的な資質が大いに関係していると思われる。松尾スズキやケラリーノ・サンドロビッチのようなマニアックな劇団の演出家が好んで彼女を起用するのは、彼女のこうした資質を見抜いてのことだろう。
奥○が、自らの霊媒的な資質を明確に自覚し、その資質を、少女の頃のように無意識的にではなく、意識的に演技の中で活用するようになったとき、途方もない女優が生まれるのではないかという予感が僕にはある。
しかし、そういうスピリチュアルな能力を、自己の力だけで目覚めさせることはできない。彼女がその稀な資質を安全に開発し、上手く発達させることのできる適切な指導者を見出すことができるかどうかが、今後の奥○恵の女優としての運命を決めるのだろう。
最後に、彼女のブログから、僕が読んで感銘を受けた文章を引用したい。
(引用開始)
命 2004.06.07 00:31:47
私は広島で生まれました。年代は違うけれど原爆が落とされた8月6日に生まれました。私自身、戦争を経験したことはありませんが、周りに戦争体験者や原爆によって家族を失ってしまった人たちもたくさんいたのでそんな環境の中で育ってきて日頃から平和を望む心や、死というものをきっと人1倍に考えるようになったのではないかと思います。自分の命を自分で殺めるということほど愚かなことはないと思います。望まなくても亡くなってしまった人たちはたくさんいるのです。今、そのことを思うと理由はともかくとして、私は胸が張り裂けそうな気持ちでいっぱいです。誰もが心の傷を背負っていると思いますが私はそれに負けてはいけないと思います。何か意味があるのだと思います。どうすることも出来ず、ただひたすら苦しみに耐えなければならない時もあると思います。強くはありません。だけれどもこれも自分です。こんな自分を受け入れてあげようと思います。そんなことをしたって決して自分一人で楽になるとは思えません。もっと深い傷と悲しみを生んでしまうと思います。…
(引用終わり)