以前、デーツという

 

砂漠の国の食べ物をご紹介しました

 

 

 

上の記事に書いてあるとおり

 

デーツというのは

 

なつめやしという木の、実です

 

 

この「なつめやし」の木が

 

聖書に出てくる場面があります

 

 

 

 

それは旧約聖書の

出エジプト記15章27節「マラの苦い水」

 

という節の最後の部分です

 

 

 

エジプトで奴隷になっていた

 

ヘブライ人たちは

 

 

 

モーセの導きによってエジプトを脱出し

 

カナンを目指す旅にでます

 

 

 

途中、エジプト軍が

 

追いかけてきますが

 

 

 

ヘブライの人々はエジプト軍を
 

葦の海で撤退させ

 

 

 

そのあと、まずは

 

マラという所へたどり着きます

 


 

 

モーセはイスラエルを

 

葦の海から旅立たせた

 

 

彼らはシュルの荒れ野に向かって

 

荒れ野を三日間進んだが、

 

水を得なかった

 

 

マラに着いたが、そこの水は

 

苦くて飲むことができなかった

 

 

こういうわけで、そこの名は

 

マラ(苦い)と呼ばれた

 

 

 

マラ、という地名が先にあったのか

 

水が苦かったからマラと呼ばれたのか…

 

おそらく後者だと思いますが…

 

 

 

 

このシナイ半島あたりの水は

 

「流産を起こすほど」の硬水

 

と言われていて

 

 

 

 

加えて、塩土層を通ったため塩分が高く

 

それらを「苦い」と表現したのでは、

 

ということです

 

 

 

聖書には続いてこうあります

 

 

 

民はモーセに向かって

 

「何を飲んだらよいのか」と

 

不平を言った

 

 

モーセが主に向かって叫ぶと

 

主は彼に一本の木を示された

 

 

その木を水に投げ込むと

 

水は甘くなった

 

 

 

 

砂漠環境の専門家によると

 

マグネシウムを豊富に含んだ

 

強力な下剤作用がある水は

 

 

 

 

ヘブライの人々が

 

エジプトから持ってきた、かもしれない

 

寄生虫や致死性の細菌の大半を

 

消滅させる効果があったと推測されてます

 

 

 

 

つまり「マラの苦い水」というのは

 

これからの困難な砂漠の旅の備えとして

 

神さまが用意してくださった

 

 

 

 

体の中を浄化させるための

 

医療効果のある「薬」だったのでは

 

ということです

 

 

「マラの苦い水」が薬だったというのは

 

その後に続く聖書の

 

神さまの言葉からも窺えます

 

 

 

 

もしあなたが、あなたの神、

 

主の声に必ず聞き従い

 

 

彼の目にかなう正しいことを行い

 

彼の命令に耳を傾け

 

すべての掟を守るならば

 

 

わたしがエジプト人に下した病を

 

あなたには下さない

 

 

わたしはあなたをいやす主である

 

 

 

“エジプトでの病”を下さない

 

と言ってますね

 

 

 

 

マラで水を飲んでから

 

イスラエルの人々はエリムに着きます

 

 

 

彼らがエリムに着くと、

そこには十二の泉があり

七十本のなつめやしが茂っていた

 

 

また、「マラ」=「苦み」という言葉は

 

人生における苦しみ

 

いう意味も含んでいます

 

 

 

 

旧約聖書に「ルツ記」という

 

夫を亡くし、姑のナオミとともに生きる

 

ルツという女性の話があります

 

 

姑のナオミは、息子に先立たれ

 

嫁のルツとともに

 

夫の故郷であるベツレヘムへ帰ります

 

 

 

ベツレヘムに着いてみると

 

町中が二人のことでどよめき

 

 

女たちが

 

ナオミさんではありませんかと

 

声をかけてくると、ナオミは言った

 

 

「どうが、ナオミ(快い)などと
 

呼ばないで

 

マラ(苦い)と呼んでください

 

 

全能者がわたしを

 

ひどい目に遭わせたのです

 

 

 

 

ルツについてはこちらもどうぞ

 

 

 

神さまも、ひどい言われようです

 

でも、長い人生、時には

 

こんな心境になることがありますよね

 

 

 

 

解釈としては

 

 

 

 

人は、苦しい状況に陥ったり

 

すべては自分の力によるものだと

 

おごった考えになったりすると

 

 

 

 

天や神からの恵みを忘れ

 

不幸はすべて周りのせいだと

 

神さまを責めたりもします

 

 

 

 

それが、人の本質である魂に生じる

 

「苦み」である、というものです

 

 

でも神さまは、

 

水を癒してくれましたし

 

 

 

 

私たちも、神さまのような

 

すでにそこに存在する力に気づけば

 

道が拓かれ、癒されることができます

 

 

 

 

モーセが投げ入れた

 

水を甘くした一本の木は

 

のちのキリストの十字架を

 

象徴しているとも言われてます

 

 

私たちは誰もが、人生において

 

苦い水のところを訪れますが

 

 

 

 

それは、神が祝福を贈るための

 

ひとつの手段であって

 

 

 

 

その先にある、

 

それぞれの「エリム」へと導かれている

 

ということだそうです

 

 

 

 

 

なんだか今回は

 

「聖書っぽい内容」でしたね(≧▽≦)