話題になった時期からは大いに隔たってしまうのだが,今回は森 達也氏の『放送禁止歌』を紹介しよう。フリーランスの放送ドキュメンタリー制作者である氏が,1999年に世に送り出した「放送禁止歌」を扱う番組の制作過程を,ルポルタージュにまとめたのがこの本である。  そこで明らかになったことは二つ。一つめはそもそも番組制作時点までに,「放送禁止歌」なるものは制度上存在しなくなっていたということ。そして二つめは,にもかかわらず放送業界の少なからぬ人々が,その実在を疑うことなく,当該番組の企画内容を憂慮したり,進行にストップをかけたりしたということだ。つまり当のドキュメンタリー番組に限らず,「放送禁止歌」の実在を信じる人々によって制作/認可されたすべての番組では,長年にわたっていわれのない楽曲選別がなされていた可能性があることになる。  俗に言う「放送禁止歌」とは,1959年に民放連が作った「要注意歌智付ㄖ贫取工酥付à丹欷扛瑜韦长趣扦ⅳ毪长欷悉饯猡饯飧鞣潘途证潘亭工?しないを独自に判断するためのガイドラインにすぎず,強制力も罰則もないことを,著者はインタビューを通じて明らかにする。そのうえ1983年を最後に指定は更新されなくなっているし,そもそもこの制度自体,すでに廃止されていたのだという。  また,俗に「放送禁止歌」だと言われているものの多くが,この指定には入っていない。つまり放送局のスタッフがどこかのタイミングで「なんかヤバいらしいよ」と思った曲が,「放送禁止歌」と信じ込まれたままになっていたというのが,現実に近いらしい。  インタビュー対象は局考査部,またその担当者によれば,かつての糾弾主体だという部落解放同盟へと移っていくものの,この本で部落差別と関わりがあるとされる歌を,部落解放同盟が糾弾したという事実は,過去いっさいないことが明らかになる。単にメディア関係者側が自分の頭で考えず,他人の言葉を鵜呑みにしてきただけなのだと。  さて表現と規制といえば,ゲーム業界も他人事ではない。CEROをはじめとする業界団体による各種指定の性格を考えるなら,例えばCEROは「購入の際、情報としてご活用頂くものです」(原文ママ)としており,これは欧米におけるゾーニングの考え方と一致するものだ。  ただし,A?DそしてZからなるレーティングについては,rmt,「禁止表現を含むソフトには、レーティングを与えないようにしております」(原文ママ)という形になっていて,販売店での取り扱いと併せ考えたとき,事実上の規制として機能する。  とはいえ,CEROのチェックを通さないソフトも多々あるし,PCゲームに関しては,DQ10 RMT,審査を受ける機関を受け手がある程度選べる状態が続いている(ソフ倫,メディ倫など)。論理的に考えるとこれは少々おかしいのだが,審査の恣意性に対するメーカー側の自衛手段として機能している面もあって,一概に否定できないのが現状だ。  また規制より生々しい話として,アクチュアルモチーフ,とくに政治モチーフを扱うゲームではしばしば,ゲーム内の用語を選ぶに際して,各種団体および個人によるテロルを警戒した配慮がなされているとの話も聞く。話の性格上具体例を挙げられないが,これは紛れもない事実であって,表には出ないものの,実に嘆かわしい事態なのである。  インターネットサイトや携帯電話用サイトの規制議論がかまびすしい昨今,我々はいわれのない規制や圧力に対する疑問を,きちんと疑問として認識する習慣から,身につけなければならないのかもしれない。緊急かつ明白な危険性がない限り,表現の自由は守られるべきというのが,我が国の憲法における原則だし,あるべき社会の姿を一元的に決めて,それに敵対するものを締め出すならば,それはあまりにも懐かしきファシズムの一丁上がりだ。そして,これだけテクノロジー的隙間の増えた現代では,規制が裏目に出ることだってある。  メディアの中で一番お金を使える部類のはずのテレビ業界が,かくも“物わかりのいい人”揃いであって,惰性と事なかれ主義で動いていたという本書のレポート内容は,やはり我々のあり方そのものに跳ね返ってくる論点を,多々含んでいるように思う。  「KY」(空気読めない)などという流行語を新しいと思って得々と使っている場合ではなく,KYが言外に含む“主体的反論の放棄指向”をこそ,むしろ過去からの因習としてあぶり出すべきではないのか。そんなことを考えさせてくれる本だ。
関連トピック記事: