【新作イラスト】松本城六紋武将隊 | 和風イラスト(日本刀・着物・和服・セクシーガールズ・美人画・美少女画)制作

【新作イラスト】松本城六紋武将隊

●松本城六紋武将隊
松本城六紋武将隊

かつて松本城を収めてきた歴代城主が集いし【松本城六紋武将隊】。
六つの紋を順に繋ぎ松本城を守ってきた武将達が現代に魂を宿して一堂に会した。



という設定で松本城の歴代武将を集結させました。
それぞれ生きた時代が違うので実際には会うことのなかった方々ばかりですが、こうして同じお城の城主という縁で結ばれ、時代は違えど共に松本城を守ってきた同志として集結させるのも、恐らく他の武将隊にはないだろうと思い結成しました。

当ブログの読者の方々ならおわかりかと存じますが、小笠原秀政公以外のデザインは【松本城忍衆 烏-KARASU-】をモチーフとしています。



それ故、女体化っぽい方々もおりますが、現代に魂を宿した場所が女性だったというだけで、実際は当然ながら全員男性でした。
小笠原秀政公は烏-KARASU-よりも先にキャラクターデザインしていたのでオリジナルイメージにて。

それでは一人ずつご紹介していきましょう。

●石川数正
石川数正

【松本城主】石川氏(1590~1613年)
信濃松本藩の初代藩主であり、徳川家康の重鎮としても有名な石川数正。
徳川家康が今川義元の人質だった頃から近侍として仕え、家康からの信頼もとても厚い人物であった。
しかし1585年、突如出奔し豊臣秀吉の家臣となる。(理由は諸説有り)
1590年、これまで小笠原氏が治めていた松本城に入り、城下の安定や城の改築を図る。
数正の病没後も、後を継いだ康長が本格的に城や城下を整備した。
天守、総掘り、石垣、黒門、太鼓門も築いたとされている。
しかし、分不相応な城を作ったことなどを理由に1613年に改易された。
替わりに小笠原氏が治めることとなる。



●小笠原秀政
小笠原秀政

【松本城主】小笠原氏(15??~1550年)(1583~1590年)(1613~1617年)
元々信濃守護家であった小笠原氏が、1504~1520年の間に築城した深志城が松本城の始まりとされている。
しかし1550年に甲斐の武田氏に侵攻され小笠原氏は没落。小笠原氏は深志城を追われ、武田氏の拠点とされることとなる。
没落した小笠原氏は京に逃れ、上杉謙信や織田信長の家臣を経て信濃復帰に望みをかける。
1582年に武田氏が滅亡し、織田信長が死去すると、小笠原貞慶(秀政の父)は徳川家康の家臣となるべく、長男秀政を家康のもとへ人質として差し出した。
秀政は石川数正に預けられ、貞慶は徳川家康の家臣となった。
家康の配下となった貞慶は、1583年、遂に念願叶って旧領を回復。深志城を松本城に改名した。
しかし1585年、石川数正が秀政を引き連れ豊臣秀吉のもとへ出奔。
貞慶も秀吉に仕えざるを得なくなった。
1589年、秀政は貞慶から家督を譲り受け当主となり、秀吉の仲介で家康と和睦し、家康の孫娘・登久姫と結婚した。
しかし1590年に貞慶は秀吉の怒りを買って改易される。
貞慶・秀政は再び徳川家康の家臣となるも、松本城から下総古河に移されることとなる。
(変わりに松本城は石川数正が治めることとなる)
1601年には関ヶ原の戦いで挙げた軍功により、飯田城に移る。
そして1613年、松本城主であった石川康長が改易されると、秀政も念願かなって旧領への復帰となるのである。
秀政は城下町の統制を図り、法度を定めて治安維持に努めた。
1615年の大阪夏の陣にて秀政は長男・忠脩と共に戦死。家督は次男・忠真がが継ぐこととなる。
1617年、忠真は播磨明石10万石に加増転封され、松本城を後にする。



●戸田康長
戸田康長

【松本城主】戸田氏(1617~1633年)(1726~1870年)
戸田康長は、徳川家康の養妹・松姫と婚姻し、松平姓を名乗ることを許されていたため、松平康長ともいわれる。
家康の三河時代の時から多くの戦功を挙げ、人柄も実直で穏やかであり、とても信頼の厚い人物であった。
1617年に松本藩に加増移封され、松本城主となり家臣団の再編成や城下町の建設などを行った。
1632年に康長が病没すると、家督は三男の庸直が継ぎ、1633年に播磨国明石藩に転封する。

時は流れ1726年、山城淀藩の第2代藩主であった戸田光慈は、鳥羽藩から信濃松本へ移封となる。
それから明治維新まで、松本城は戸田氏が代々居城とした。



●松平直政
松平直政

【松本城主】松平氏(1633~1638年)
戸田氏に変わって松本城へ入ったのは、徳川家康の孫に当たる松平直政。家光とはいとこ関係に当たる。
直政は大阪の陣にも出陣し、兄・忠直の率いる「越前勢」に参加して、あの真田幸村(信繁)をはじめとする多くの敵将を討ち取るなど、大きな戦功を挙げている。
1633年に松本城へ加増移封される。
いとこである将軍・徳川家光が松本城へ立ち寄るために、辰巳付櫓や月見櫓を増設し、城門の修復を行った。
また、松本に新銭座を起こして寛永通宝松本銭を鋳造するなど、小藩では許されない大事業を認可されている。
1638年、出雲松江に加増移封され、国持大名となった。
とても人物器量共に優れた人物であった。



●堀田正盛
堀田正盛

【松本城主】堀田氏(1638~1642年)
松平氏に替わって松本城へ入ったのは堀田正盛。
将軍徳川家光の近習(主君の側近にあって奉仕する役)に取り立てられ、一代で大出世した人物である。
1638年、信濃松本藩に加増転封。老中のまま大政参与(幕政の重要な課題に関与・主導する臨時職)となり家光を補佐した。
しかし幕政に参画していたため松本藩の藩政にはほとんど関与できず、入国したのも入封した年の1回のみともされている。
1642年に下総佐倉藩に加増転封され、松本城をあとにした。



●水野忠清
水野忠清

【松本城主】水野氏(1642~1725年)
1642年、三河吉田から信濃松本へ加増封入したのは水野忠清。
忠清の封入後は水野氏が代々居城とするが、百姓には非常に厳しい改革もあったようだ。
3代目忠直の時には年貢の増徴策に対して全村の80%の農民が参加した一揆が起こり、要求をのみこんだとみせて首謀者は処刑された。 磔(はりつけ)8名、獄門(ごくもん=さらし首)20名にものぼったという。
そして6代目の忠恒は、日頃から奇行がたびたび見られ、酒に溺れて狩猟ばかりし、藩政は家臣任せだったという。
1725年、将軍へ婚儀報告をするため江戸城に登城した際、松の廊下ですれ違った他藩の大名に対して刃傷沙汰を起こし、改易された。
水野氏の城主期間は6代83年間も続いたが、このような幕引きとなった。



長っ^^;
非常に長くなりましたが、以上の6名です。
まだこのイラスト以上のことは考えておりませんが、このイラストをご覧になった方が松本城へお越しいただける何かのきっかけにでもなってくだされば幸いです。

というわけで、以上、松本城六紋武将隊でした♪



【pixiv】
http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=42651201
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