去年の3月12日から5日間、
私が不眠不休でmixiで発信し続けた内容が、JNNの番組になっています。

あの日、あの時、
計算した結果や、データを解析した結果がこうだったから、

燃料は健全ではなくメルトダウンしている』と主張したのだけれど、

『私の発信によって平常心を乱された』とか
『被ばくなんてするわけないじゃない』とか
『関東にプルームがくるわけがない』とか、
たくさん非難されたし、
未だに批難されている事実は変わっていません…

315は、日本の各地で人々を分断したままです。


あの時点でメルトダウンを主張した私は、
たかだか原発の爆発程度のことで、精神が崩壊した精神異常者だと思われていますあせる



3月14日の23時頃から、
NHKは『2号機で冷却機能を喪失』という字幕スーパーを表示したままでしたし
キャスターは、脂汗を流しながら2号機の危機的状況を報じ続けていました。

解説員の水野さんは、
真っ青な顔で『3月15日は外に出てはいけない』
『洗濯物が外にある場合は、絶対に取り込んではいけない』と言いました。


この動画によると、
14日午後11時は、2度目の弁開放で

大量の放射性物質が格納容器の外に出た時刻です。

関東に到達するのが15日の昼頃だと、わかっていたのでしょう。


枝野さんが
『今日から単位はミリシーベルトを使用します』と言ったのが
3月15日の朝で、

2号機の爆発音は、3月15日の午前6時頃でした。


福島在住のママは、2号機の爆発の衝撃波が一番大きかったと言います。



その後、NHKは危険な状況になるたびに、
風向きと風速を発表し続けましたが、

たびたび全画面表示になった15日の風向きは、関東に向かって吹いていました。



ウワサの4号機が倒壊したのは、
3月15日のミヤネ屋放送中のできごとでしたが、
その時の風も南に向かいました。
(番組放送中に倒壊の様子を生中継してしまい、あわてて映像を替えましたね・・・)


4号機倒壊直後に、
茶色い砂の雲が東京方面から横浜に飛んできました。


東神奈川駅上空を 龍のような長い雲(砂の塊)が
すごい勢いで通過していく様子を、(飛んで行った・・という表現が多かったです)
たくさんの人が教えてくれました。

みなとみらいまで飛んで行き、ランドマークタワーにぶつかって
茶色い雲(人によっては灰色の雲、砂の雲、黄砂の雲)が停滞した様子は、

その場で開催されていたイベントに参加中だった女子大生たちがつぶやいてくれました。



私は、最初は、
4号機の倒壊で出たガレキが雲になって飛んできたものだと思っていたのだけれど、

ダンナが時系列で各地の線量データを追った結果、
2号機由来だと判明しました。


最大量の放射性物質を放出したのが2号機だったことも、
3月15日に放射能プルームが関東を覆ったことも

自分で知ろうと思えば、知ることができた事実です。
(インターネット環境と、ある程度の英語力がないと無理でしたが…)



あの日、あの時、あの瞬間に、
私でもわかったことなのだから、

きっと多くの関係者は、なにもかも知り得ていたに違いないことです。



3月15日、
のあちゃんの幼稚園では、予定通り卒業式が執り行われました。

子どもたちを、絶対に外に出してはいけなかった日です。

いくら待っても「卒業式中止」の緊急連絡網が鳴らなくて
心配になって幼稚園に電話してみたものの、

NHKの深夜の放送を観なかった人には、
「3月15日は外出禁止」だったなんて、信じられないことだったでしょう。。。

卒業式は予定通り行われ、
放射能プルームがやってきた時間に、卒業式が終わり、祝会になり、
大気中にヨウ素、セシウム、テルル、キセノンが含まれている中、
卒業生は謝恩会の会場へと移動して行ったようです。


翌日のテレビでは、
「生きている間にキセノンを観測できる日が来るとは思いませんでした!!」と
大興奮で嬉しそうに語る千葉県内の観測所の研究員が映し出されました。


2011年3月15日。
内閣官房長官が
『今日から単位はマイクロシーベルトを止めて、ミリシーベルトを使用します』と言った日。


この日、外に出たかどうかが、子どもたちの未来を分けるだろうと言われているけれど、
1人でも多くの子どもたちが、健康に育っていかれますように。