金曜日の朝、知的障害の叔父が亡くなりました。
43歳でした。
私が子供だったころ、私の家族と祖母と叔父の母子家庭は同居生活をしていましたので
一緒に育った叔父でした。
朝からのあちゃんに
「夢を見たの。男の子がのあちゃんを好きになってくれたの。」という話を延々と聞かされ
やっと落ち着いてきたから朝ご飯を食べよう・・・・
と思った時に、電話が鳴りました。
出ると、祖母からでした。
祖母が私の家に電話をしてくることなど、ほとんどないので
なんだろう??と思って出ると
「Kちゃんが死んだの。今朝トイレで死んでたって、園から電話が来たの。」と泣いています。
Kちゃんは、私の叔父です。
自閉症で、精神年齢は7歳です。
Kちゃんが3歳の時に
祖母が「Kちゃん、飛行機よ!」と空を指さした時に、
Kちゃんは全く空を見ようとしなかったので
この子は耳が聞こえないんじゃないかしら???と心配になって病院に行ったところ
「聴覚に問題はありません。」と言われ、自閉症が発覚したそうです。
私の幼いころの記憶の中では
私の両親は、Kちゃんと祖母を『青い鳥』というところによく送って行きました。
『横浜 青い鳥』で検索すると、『社会福祉法人 青い鳥』が出てきました。
http://aoitori-net.com/history.html
沿革を見ると、
Kちゃんは、精神薄弱児をケアしようと社会が動き始めた時代の最初の子供たちであったことがわかります。
Kちゃんは、魚屋さんの奥にある幼稚園に通っていました。
私は、魚屋さんの前に停めた父の車の中で、
祖母たちの用事が済むまで待たされることが多かったことを覚えています。
音愛ちゃんが「バレエを習いたい」と言い出したとき、
隣の奥さんにバレエ教室の会場となっている幼稚園まで見学に連れて行ってもらいました。
左手に魚屋さん、奥に石階段、石階段の上に幼稚園の門・・・・
「私、ここ知っている。いつもここで待っていた・・・・」と、幼い日の記憶がよみがえりました。
もう祖母は、Kちゃんの通った幼稚園の名前を忘れてしまっていましたが
「教会付属の小さな幼稚園に、無理を言ってお願いして、入園させてもらった」という一言で
Kちゃんが通っていた幼稚園は、音愛ちゃんが毎週バレエ教室で通ってい幼稚園であることがわかりました。
幼稚園を卒園した後、Kちゃんは隣の学区の中丸小学校に通いました。
私の通った三ツ沢小学校の特殊学級は、程度の重い知的障害児を受け入れる体制が整っていなかったのです。
Kちゃんは、中丸小学校の特殊学級を卒業して、
保土ヶ谷養護学校に進学しました。
小・中・高は、公立の学校で過ごしました。
高校を卒業した後、キリスト教の福祉施設である聖坂養護学校の専攻科に進学しました。
2年間通い、
その後、社会福祉法人聖坂学園のオリブ工房という通園施設に通い始めました。
ここもまた、キリスト教施設です。
亡くなるまで22年の間、レザークラフト、ワープロ、織物、陶芸・・・いろんな手仕事を経験しました。
Kちゃんたちが大人と言われる年齢に達すると
私の祖母たち知的障害の子を持つ親たちの間では、自分たちが死んだ後のことを不安に想うようになりました。
親がいなくても生きていかれるように・・・と、
知的障害者数名でグループを作り、グループで自立生活を送るための練習を始めようということになりました。(=グループホーム)
グループホームを始めるに当たり、戸建の貸家を探し始めたのが
私が不動産会社で営業をしていたころだったと思います。
(そんな時代もあったなぁ・・・)
入居者が知的障害者数名と福祉施設職員になるわけですから、
『いい物件をみつけても貸してもらえない』という時期が長かったと記憶しています。
やっと始められることになったグループホーム第1号の入居メンバーにKちゃんの名前がなかったとき、
祖母がとても怒っていたことを思い出します。
Kちゃんは、会話も、読み書きも、買い物(お金の勘定)もできましたから・・・・
「うちのKちゃんは、こんなに頭のいい子なのに、なぜ1号ホームのメンバーから外されたのか?」と、いつまでも文句を言ってと思います。
7年前、Kちゃんが36歳のとき
とうとうKちゃんもグループホームに入所することになりました。
月曜日から金曜日までは、ホームでお友達と先生と一緒に暮らし
土曜日と日曜日は自宅に帰る という生活を7年続けてきました。
最初の1年は、グループホームに行くのが嫌で嫌でしがたがなかったというKちゃんですが
2年目からは、ホームに帰るのも、自宅に帰るのも、どちらも楽しみで楽しみで・・・
どちらもKちゃんにとっての我が家になりました。
今年の1月、祖母が胃がんで入院・手術したときは
祖母が退院するまで、ずっとホームで生活していたそうですが
部屋では、真夜中に裸になって窓を開けて窓際に立ち続け
「風邪をひきました。熱を測ってください。風邪をひきました。お家に帰ります。」と職員に訴えたそうです。
祖母が病気になると、心配で心配で家に帰りたくて、
しばしばこのような行動をとるのだそうです。
愛の手帳(知的障害者の手帳)では、精神年齢は7歳とされていますが
行動は、幼稚園に行きたくなくて仮病を使うようになった5歳児に似ていると思います。
金曜日の朝の電話で、グループホームに行くと
職員の方から
「夜中の2時にトイレに行ったのは、足音でわかりました。
足音で、誰が歩いているのかは聞き分けできるんです。」と説明されました。
「朝ご飯の時間になっても食堂に来ないので、Kさんの部屋を見に行ったんですが、
部屋にはいなかったので、トイレを見に行ったところ、トイレのドアが開かなかったんです。
トイレのドアは内開きなので、中にいる人に当たってしまってドアが開かなかったんですが
ちょっとできた隙間からのぞいてみると、Kさんが倒れていました。
救急車を呼んだんですが、もう冷たくなっていて、警察を呼ぶことになりました。」と説明されました。
Kちゃんが夜中の2時にトイレに行くのは日課だったので、
トイレから帰ってきたかどうかの確認はしていないそうです。
警察の鑑識の人の話では
「司法解剖をしてみないと詳しいことは解りませんが、
状況から観ると、嘔吐して、嘔吐物をのどに詰まらせて窒息死という線が濃厚です。」ということでしたので
職員の方は、とても責任を感じていました。
解剖の結果、死因は『くも膜下出血』でしたので、職員の方の気持ちは救われたことでしょう。
43歳でした。
私が子供だったころ、私の家族と祖母と叔父の母子家庭は同居生活をしていましたので
一緒に育った叔父でした。
朝からのあちゃんに
「夢を見たの。男の子がのあちゃんを好きになってくれたの。」という話を延々と聞かされ
やっと落ち着いてきたから朝ご飯を食べよう・・・・
と思った時に、電話が鳴りました。
出ると、祖母からでした。
祖母が私の家に電話をしてくることなど、ほとんどないので
なんだろう??と思って出ると
「Kちゃんが死んだの。今朝トイレで死んでたって、園から電話が来たの。」と泣いています。
Kちゃんは、私の叔父です。
自閉症で、精神年齢は7歳です。
Kちゃんが3歳の時に
祖母が「Kちゃん、飛行機よ!」と空を指さした時に、
Kちゃんは全く空を見ようとしなかったので
この子は耳が聞こえないんじゃないかしら???と心配になって病院に行ったところ
「聴覚に問題はありません。」と言われ、自閉症が発覚したそうです。
私の幼いころの記憶の中では
私の両親は、Kちゃんと祖母を『青い鳥』というところによく送って行きました。
『横浜 青い鳥』で検索すると、『社会福祉法人 青い鳥』が出てきました。
http://
沿革を見ると、
Kちゃんは、精神薄弱児をケアしようと社会が動き始めた時代の最初の子供たちであったことがわかります。
Kちゃんは、魚屋さんの奥にある幼稚園に通っていました。
私は、魚屋さんの前に停めた父の車の中で、
祖母たちの用事が済むまで待たされることが多かったことを覚えています。
音愛ちゃんが「バレエを習いたい」と言い出したとき、
隣の奥さんにバレエ教室の会場となっている幼稚園まで見学に連れて行ってもらいました。
左手に魚屋さん、奥に石階段、石階段の上に幼稚園の門・・・・
「私、ここ知っている。いつもここで待っていた・・・・」と、幼い日の記憶がよみがえりました。
もう祖母は、Kちゃんの通った幼稚園の名前を忘れてしまっていましたが
「教会付属の小さな幼稚園に、無理を言ってお願いして、入園させてもらった」という一言で
Kちゃんが通っていた幼稚園は、音愛ちゃんが毎週バレエ教室で通ってい幼稚園であることがわかりました。
幼稚園を卒園した後、Kちゃんは隣の学区の中丸小学校に通いました。
私の通った三ツ沢小学校の特殊学級は、程度の重い知的障害児を受け入れる体制が整っていなかったのです。
Kちゃんは、中丸小学校の特殊学級を卒業して、
保土ヶ谷養護学校に進学しました。
小・中・高は、公立の学校で過ごしました。
高校を卒業した後、キリスト教の福祉施設である聖坂養護学校の専攻科に進学しました。
2年間通い、
その後、社会福祉法人聖坂学園のオリブ工房という通園施設に通い始めました。
ここもまた、キリスト教施設です。
亡くなるまで22年の間、レザークラフト、ワープロ、織物、陶芸・・・いろんな手仕事を経験しました。
Kちゃんたちが大人と言われる年齢に達すると
私の祖母たち知的障害の子を持つ親たちの間では、自分たちが死んだ後のことを不安に想うようになりました。
親がいなくても生きていかれるように・・・と、
知的障害者数名でグループを作り、グループで自立生活を送るための練習を始めようということになりました。(=グループホーム)
グループホームを始めるに当たり、戸建の貸家を探し始めたのが
私が不動産会社で営業をしていたころだったと思います。
(そんな時代もあったなぁ・・・)
入居者が知的障害者数名と福祉施設職員になるわけですから、
『いい物件をみつけても貸してもらえない』という時期が長かったと記憶しています。
やっと始められることになったグループホーム第1号の入居メンバーにKちゃんの名前がなかったとき、
祖母がとても怒っていたことを思い出します。
Kちゃんは、会話も、読み書きも、買い物(お金の勘定)もできましたから・・・・
「うちのKちゃんは、こんなに頭のいい子なのに、なぜ1号ホームのメンバーから外されたのか?」と、いつまでも文句を言ってと思います。
7年前、Kちゃんが36歳のとき
とうとうKちゃんもグループホームに入所することになりました。
月曜日から金曜日までは、ホームでお友達と先生と一緒に暮らし
土曜日と日曜日は自宅に帰る という生活を7年続けてきました。
最初の1年は、グループホームに行くのが嫌で嫌でしがたがなかったというKちゃんですが
2年目からは、ホームに帰るのも、自宅に帰るのも、どちらも楽しみで楽しみで・・・
どちらもKちゃんにとっての我が家になりました。
今年の1月、祖母が胃がんで入院・手術したときは
祖母が退院するまで、ずっとホームで生活していたそうですが
部屋では、真夜中に裸になって窓を開けて窓際に立ち続け
「風邪をひきました。熱を測ってください。風邪をひきました。お家に帰ります。」と職員に訴えたそうです。
祖母が病気になると、心配で心配で家に帰りたくて、
しばしばこのような行動をとるのだそうです。
愛の手帳(知的障害者の手帳)では、精神年齢は7歳とされていますが
行動は、幼稚園に行きたくなくて仮病を使うようになった5歳児に似ていると思います。
金曜日の朝の電話で、グループホームに行くと
職員の方から
「夜中の2時にトイレに行ったのは、足音でわかりました。
足音で、誰が歩いているのかは聞き分けできるんです。」と説明されました。
「朝ご飯の時間になっても食堂に来ないので、Kさんの部屋を見に行ったんですが、
部屋にはいなかったので、トイレを見に行ったところ、トイレのドアが開かなかったんです。
トイレのドアは内開きなので、中にいる人に当たってしまってドアが開かなかったんですが
ちょっとできた隙間からのぞいてみると、Kさんが倒れていました。
救急車を呼んだんですが、もう冷たくなっていて、警察を呼ぶことになりました。」と説明されました。
Kちゃんが夜中の2時にトイレに行くのは日課だったので、
トイレから帰ってきたかどうかの確認はしていないそうです。
警察の鑑識の人の話では
「司法解剖をしてみないと詳しいことは解りませんが、
状況から観ると、嘔吐して、嘔吐物をのどに詰まらせて窒息死という線が濃厚です。」ということでしたので
職員の方は、とても責任を感じていました。
解剖の結果、死因は『くも膜下出血』でしたので、職員の方の気持ちは救われたことでしょう。