まず民主派閣僚の暗殺未遂や、非共産党系の閣僚に爆弾
小包が送りつけられる事件が相次いだ。非共産党系の法相
の調査で、共産党活動家による犯行との容疑が出て、警察
もやむなく起訴にふみきり、裁判は翌一九四八年二月に開
かれることになった。裁判が開かれれば、共産党は致命的
な打撃を受け、選挙で敗れることが明白である。
共産党の内相は一九四八年に入るや、素早い動きを見せ
る。首都プラハ警察の非共産党幹部八人を追放し、共産党
員にすげ替えたのである。民主派政党は共産党の横暴を非
難、この人事の撤回を要求し、閣議もこれを承認した。と
ころが、この閣議決定を共産党の首相ゴットワルトは言を
左右にして実行に移さない。
怒った国民社会党、人民党、スロヴァキア民主党の反共
派閣僚十二人は、二月二十日ベネシュ大統領に辞表を提出
した。その一方彼らは舞台裏で、ベネシュ大統領に辞表を
受理しないよう強く要請すると同時に、中間派の社民党の
三閣僚にも同調を求めた。閣議の席上、十人の共産党閣僚
を少数派として孤立させ、内閣を総辞職に追いこむ作戦だ
っヽ″ヽ。
ところがそのとき何の前ぶれもなく、ソ連のゾーリン外
務次官がプラハに飛んできた。前にルーマニアの首都ブカ
レストにソ連外務次官が突然現れて、荒療治を行なったこ
