コミュニケーションにおける重要な概念 | コミュニケーションを極める実践トレーニングを学ぶスクール

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あなたもプロのコミュニケーションスキルを身につけませんか?

認識論というものはコミュニケーションにおいて結構重要な概念です。
なので、コミュニケーションを極めたいのなら、しっかりと抑えておいていただきたい。

認識論とは、
「知っていることをどのように知っているのか?」
という学問です。


「知っていることをどのように知っているか?」

この認識論が土台となってNLPが生まれています。

NLPの生みの親はジョン・グリンダー、リチャード・バンドラーではありません。
創始者は彼らですが、彼らを指導していた少なくとも4人位の師匠がいます。

そのうちの一人が、グレゴリー・ベイツンです。
もう一人が、催眠療法の大家ミルトン・H・エリクソンです。

残りの二人は、ゲシュタルト療法のフリッツ・パールズ、家族療法のバージニア・サティアです。

NLPのモデルは、大きく分けて2つのスタンダードです。
ひとつは、エリクソンの催眠のモデル。
もうひとつが、ベイツンの認識論のモデルです。

この2つが、NLPを生み出しています。

ですので、NLPの生みの親は、ベイツンとエリクソンです。

「NLPはリチャード・バンドラーとジョン・グリンダーによって生み出された。」
と解説されていますし、国内の殆どのNLPトレーナーはそう言いますが、間違いです。

よく調べてみてください。

それで、認識論という視点に立つと、目の前に座っている人が
「笑っている。」はOKですが「怒ってる。とか、喜んでる。」などの表現は、認識論的にはNGです。

違いがわかりますか?

「笑っている。」は万国共通じゃないですか?スマイルって。それはどういうことかというと
顔の筋肉がどうなっているか
口角が上がっているとかの描写なわけです。

しかしながら、
「怒っている。」とか「喜んでいる」は内部表現です。
つまり、怒り方や喜び方は人それぞれなので、相手の内部表現をこちらが側が判断できないのです。


なので、認識論という視点にたてば、
目の前の相手が
「怒っている」「喜んでいる」「幸せだ」
は認識論的にはありえないのです。

我々、プロコミュニケーターは認識論的に世界とつながります。

認識論的に世界とつながると
わかりやすいところで言うと、コミュニケーションのギャップとか、コミュニケーションの変な行き違いがなくなります。

例えば、会社であなたが上司で
「来週の月曜日までにレポートを提出しておいて。」と部下に言ったとします。

部下が
「わかりました。」

というわけです。

月曜の朝に、あなたはデスクの上にそのレポートが提出されていないことに気がつくわけです。
「先週の木曜日に言ったのに、まだ出してないのか?今日の朝までに出しとけと言っただろ。」

そのことを部下に伝えると、
部下はおかしな顔をしながら、
「何を言ってるんですか?先週の金曜日の時点で出していますけど。」

どうなっているのでしょうか?

部下は、先週の金曜日の時点でメールを上司に送っていたのです。
しかし、あなたはレポートと言ったら、紙で印刷されたものをデスクの上に置いておけ、という意味で伝えたのです。

お互いに「レポートを月曜日までに出す」という文字面は合っているのです。

しかし、この文字面にある意味付けが違う。

例えば、恋人同士が
「愛してるよ。」
「俺も、愛してるよ。」
と愛し合っている2人がいる。

しかし、認識論的な視点にたつと、ちょっと待って下さい。ということになります。

「今、俺とお前言葉合ったよな。」

ところが、意味付けは合ってるだろうか?
と考えなきゃいけない。

それで、もし意味付けがあっているのなら、
「俺達は愛し合ってるよな」

ということになるのです。

ほとんどの人は、こういう観点を持たないので、半年くらいたって、
「付き合い始めた頃とぜんぜん違う。」
ということを言い始めるのではないですか?

本当にコミュニケーションが下手くそです。
それは単に知らないから。

で、ツボとコツを身につけていきます。

認識論は、確かにめんどくさいのですが、
現場で、めんどくさいと感じられないように意味付けを合わすテクニックはいくらでもあります。

それで、このベイツンが
「ダブル・バインドが統合失調症を生む。」
という論文を発表したのです。

結構これは、周囲をあっと驚かせました。

お母さんが、部屋を散らかしている子供に
「掃除をしなさい。いつまでそんなこと言わせるの?もう少し自発的に動きなさい。」
と言ったとします。

これはやばいです。

「もう少し自発的に行動しろ。」といった場合難しいです。

なぜならば、注意された後に部屋を片付け始めると、
自発的に行動したことにはならないし、

かといって、そのときに、部屋を片付けないと、
「なんべん言わせるの?」と言って怒られる。

そのときに、どっちとっても、俺は救えない。
というふうになります。

これは、論理の飛躍があるかもしれないと思うけれど、
「このときに、現実と非現実の区別もつけられないような、いわゆる統合失調症に抜け道を見つけ出すということが往々にしてありますよ。」
ということに気がつくわけです。

「二重拘束が、統合失調症を生む。」
と多くの有識者がその可能性は大であるという結論に至っているわけです。

多くの母親は無意識的にやってるのです。
自分が子供にダブルバインドに入れてるというのは考えていないはずですが、認識論的な視点がないのでそのようになってしまうのです。
自分が言った言葉が、相手にどのような意味付けが広がるのかについて注意を払わなさすぎるわけです。

「コミュニケーションというのは、伝えたことがコミュニケーションではなく、伝わったことがコミュニケーションである。」
ということは、否定しようがありません。

何が伝わったのか、何が伝わろうとしているのかという部分についてコントロール可能な範囲で、我々は十分に注意しなきゃいけないということです。