東京国立博物館で「新田肩衝」が展示される
東京国立博物館で開かれる「大徳川展」に新田肩衝が展示される。
肩衝とは肩の角ばった茶入れの一種で、新田、初花、楢柴と合わせて天下三大茶名物といわれている。
なぜ茶道に興味のない私が「新田肩衝」にだけ興味があるかといえば、この茶器が新田義貞愛用の品だという伝承があるからだ。
伝来では「村田珠光が所持し、その後三好宗三が所持。そして織田信長に献上され、本能寺の変で一時明智光秀が所持する。が、光秀が討たれた後に大友宗麟の手に渡り、天正15年豊臣秀吉が似茄子と百貫で交換。その年の北野大茶会にも用いられた。その後大坂城が落城すると、徳川家康の命により藤重藤元・藤厳父子が焼け跡から拾い出して、漆で修正すると徳川家の所有物となった。これを水戸家始祖・頼房が拝領して現在に至っている。
そこでこの新田肩衝が新田義貞愛用の品だという説がある。桑田忠親氏も新田の名が付く以上、新田氏が所有していたものではないかと推察している。奥富敬之氏、浅田晃彦氏も新田氏所有説に賛同している。ただ義貞が所持していたものかどうかの確証は得られていない。しかし、新田の名をもつ天下の茶器が、最終的に天下を取り、新田源氏を名乗る徳川家康の手に渡ったという点が面白い。
①そこで天下の茶器を所有するほど、義貞や新田一族に茶を好む素地があったかという問題がある。しかし世良田の長楽寺(新田氏寺。世良田東照宮が隣接。世良田=徳川)の開山・栄朝は、茶祖といわれた栄西の弟子であった。また茶を広めたと言われる円爾弁円も一時長楽寺に入山していた。そして寺の回りには茶畑もあったというから、茶を親しむ習慣があったことは間違いない。
②当時お茶は薬であった。しかも貴重品だった。
日本で最初に書かれたお茶に関する本は、鎌倉時代に栄西によって書かれた『喫茶養生記』である。この本によると、お茶は養生の仙薬であり、主に効能を説いている。お茶は鎌倉時代までは僧侶や公家のものであった。
それが南北朝時代には武将の間で爆発的に普及し出したのである。義貞が、九州落ちした尊氏を追撃しなかった理由の一つとして、「闘茶」に凝っていたという説がある。
この闘茶とは、南北朝時代・室町時代に流行した茶会で、本茶と非茶を判別し、茶の品質の優劣を競った遊戯であった。佐々木道誉などの婆娑羅大名は、この遊戯に熱中した。義貞もこの遊戯に凝っていた可能性は高い。お茶はこの当時流行し、後の茶道のはしりとなった。
③分かっている新田肩衝の最初の所有者は村田珠光である。珠光は茶道の祖とも言われる人物で、1422年生まれであるから、義貞の活躍した百年ほど後に生まれている。そして新田肩衝については、珠光所有以前の来歴が全く分かっていない。不思議なことである。初花、楢柴もある程度の来歴は分かっている。それが新田肩衝に関しては不明なことが多く、その名前の由来さえも分かっていない。だが、多くの研究者が新田という名前、闘茶の流行などの点から、この茶器は義貞の持ち物であったと考えている。
④茶器にそれほど関心があったとも思えない家康が、わざわざ大坂城の焼け跡から見つけ出し、補修までさせた意図はどこにあったのだろうか。大坂城の焼け跡から見つかった茶器はこの他に、九十九髪肩衝や松本茄子などの名品もあった。だが、それら名品は、補修させた藤重親子にくれてしまった。それに藤重親子には功績として知行百五十石が与えられた。
家康は新田肩衝を手に入れると、茶道を好んだ水戸家始祖の頼房に与えた。ここで新田の名前を持つ茶器が、南朝志向の高い水戸家に伝わるという興味深いことになった。
さて、これは歴史ミステリー小説「東毛奇談」の一節で、新田肩衝にからめて新田氏と徳川家の関係を書いたものをまとめたものです。
で、これを書いていたこともあって、興味津々で新田肩衝を所蔵している「水戸徳川博物館蔵」に行ったことがある。ただこの日は、「新田肩衝」の展示をしていないと言われ、新田肩衝の絵はがきを買って泣く泣く帰ったのだった。(絵はがきになるほどの品なんですねー)
だから、まだ「新田肩衝」を見ていない。
さて今回は「初花」「新田」の2つが東京・上野で同時公開となるそうで、これは楽しみですね。距離的にも近いので必ず行きますよ。
そして、もし「新田肩衝」の前で立ち止って、齧りついて見ている怪しい年齢不詳の男がいたら、「物語を物語る」とか「消えた二十二巻」とか声をかけてみてください。
「あー」とか「うー」とか曖昧に答えて強く否定なかったら、それは私かもしれません。
