1982.12.17 | NAOのブログ

1982.12.17

今日はとことんまで、自分の事を書きたい。


普段から滅多に自分の事話ませんが。。
何となく、気分的に。

注意)本気で長いので、家に帰ってシャワーを浴びて、
寝る準備万端にしてから、僕のシングル「Paper Moon」を、
エンドレスリピートしながら読んで頂けたら幸いです(^_^)v





それでは。。






僕は、クリスマスより1週間早くの、12.17に産まれました。
1982年は、古き良きと言うには相応しい、
物がとても輝いていた時代だったと、今になってわかった。

父親が残した機材と同じ物が、今でも音楽の現場では最前線で使われているんです。

「良い物」を見分けれた、
そんな父親に恋をした母親との間に、
僕ら兄弟3人は産まれた。


小さい頃の思い出がセピア色なのは、
記憶が古い事と、うすくなって残る印象からだけではなく、
自分自身の中でのドラマを自分の記憶の中で作りあげたからかも知れない。

悔しい事も、嬉しい事も、

いっぱい記憶してある。


3、4歳の頃、初めて父親に教えてもらい両手で弾けた「森のクマさん」が、
僕の音楽の扉となった。

現在の、「曲が完成して嬉しい気持ち」は、その頃と全然変わってない。
本当に嬉しかったなぁ。



悲しい記憶では、まだ小学校にあがる前の事かな。
父親の葬儀を終えて、家に家族で戻って来た時、
ラジカセから聞こえる、父が好きだった「スカボローフェアー」サイモン&ガーファンクルの曲が、
今になって聞いても胸を締め付けられて息が荒くなるぐらい、
幼少の僕を痛めつけた。


母はもっと苦しかっただろうな。


母親の苦しみが、家族だからこそかもしれないけど、
理解をこえて自分の身と肌で実感として感じれてしまっていた。


そのことが、何よりも悲しかった。



その後、小学校に進み、どの教科よりも音楽が楽しくなり、
体が悪いことが理由でやらされるんじゃなく、
心から音楽が好きになっていた。

たて笛も、オルガンも、合唱も、
公園でサッカーをするよりも楽しかった。


部屋で兄と二人、ラジカセを使って自分の歌を録音した事も、
現在につながっている。

小学校3年。
地元のブラスバンドに参加し、
僕はトランペット。
兄はドラムを始めた。


母親が買ってくれたおもちゃのドラムを、
兄がたたいて、僕がラジカセで録音して。
そうして、仕事を終えて帰ってくる母親の晩ご飯まで、
ずっと遊んでいた。

でもここで暴露しますが、
僕は兄が「エイトビート」を叩けるようになる、
遥か前に(^^;)実はできていたんです。。

兄のどぎまぎしたのを、
イライラしながら見てました(-_☆)笑

でもやっぱりピアノが好きで、
学校をずる休みして毎日毎日ピアノばっか弾いてた。
NHKの「さわやか3組」も忘れてしまうほど、ピアノに集中してた。
その頃、ショパンの「別れの曲」が弾きたくて、
いっぱい練習してたなぁ。

手が小さいから、
全然進まなかったけど。。。



そして中学にあがった頃、
みんなが人生で1度は経験する、
バンドしようぜ!の瞬間がきたんですよ。

その頃は、BOOWYかユニコーン派かにわかれてたんですが、
僕は両方好きやった。

キーボードを担当してたんですが、
どっちのバンドにも、
あまりキーボードのパートがなくて、
だからほぼ適当&オリジナルで練習に参加してた。

今みたいに、
あちこちに練習スタジオがあったわけじゃなくて、
中学校の近くにある青◯年会館ってところに、
バンドしてる先輩や後輩がいっせいに集まって練習と喧嘩をしてた。

もちろん、ヤンキーの先輩の圧力に、
ささくさと逃げて行く僕ですから、
ほとんど練習なんてできなかったっす。

って練習できたとしても、
ぼろぼろで斜めになったピアノと、
破れたドラムがあるだけなので、
やりたい奴だけ、なんとなくやってた感じ。

僕はそれが嫌になって、
同級生の親友と二人で組んで音楽を続けた。

そいつはギターがうまくて、洋楽が好きだった。
それが僕の音楽の大きなポイントになったんだ。

そいつにも兄貴がいて、
その兄貴の影響で洋楽を聞いていた。

Mr.Bigや、Aerosmith、Bonjoviとかを、
二人でよくカバーした。

ある日の夜中、そいつの家の屋上へ、
ギターを持って行って歌ったり語ったり、
朝までずっとそんな青春ドラマのワンシーンを、
親友同士でつくっていった。
その時に歌ったMr.Bigの「To be with you」は、
僕の歌の原点で。


いつか大きな会場で、
大声で歌いたい!


そう、ぶ厚い友情と夢を、
この時の心に記憶させた。


中学から始めたトロンボーンも、
音楽の基盤をつくる大きな要素になったかな。

毎日、仮病を使って、
母親が仕事に出かけるのを待ってから、
5時間目くらいまで家でピアノ弾いて、
それから用意して6時間目ぎりぎりに、
学校に入る。
放課後の吹奏楽クラブで、
トロンボーンを吹く為に。
3年間まったくな程、休まず参加した。
まじめなんだか、不登校なんだか。。。


その頃、3年間ずっと片想いしてた同級生の女の子が、
同じ吹奏楽クラブにいて、それも重なってたから続いたのかも。

切なくも、その子からは僕とは違う人への恋相談の相手を受けたりもした。
(T T)/

まじで、片想いが楽しかった。

今の時代なら確実にストーカーやね。


そんな吹奏楽クラブの時にやった、
「指輪物語」や、「サロメ」は、
音楽の可能性を、どーんっと開いた。

音楽の自由さを知る。





切ない中学生活から、
我が校でたった1人僕だけが受けた高校へ、
進学する事になった。


正直無理した。



その高校で出会った先輩が、
僕をダークな世界へ連れてってくれた(^^;)
メタルバンドするから、ドラム叩いてくれ!

って言われ、わけもわからずドラムで参加。

文化祭で初ドラムライブですよ。


その先輩は、もうめちゃくちゃメタル人なんです。
なんと言うか、人生がメタル。
高校生で肩より下に伸ばす髪の毛と、
ほぼドレッドな感じなんです。


クラブに行ったのもそんとき。

ライブハウスに行ったのも。



衝撃やったね。


KORNやLimpBizkit、SoulFly,
Marilyn Manson、Sepultura
とか。。

この頃に聞いた激しいのは、
言い出したらきりがないほど、
ガンガンに人生観を変えた。

KORNの「Blind」
Soulflyの「bleed」


ひたすら頭振ってた。


人間の感情の果ては、
「叫び」なんだと、
この頃、インプットしたんだ。


悲しみ、
喜び、
恐怖、
驚き、

限界を超えると、
人間は叫んでしまう。

ほんとの「エモーショナル=激情」の答えは、
シャウトにあるんだと。



そんな事を知った高校生活から、
僕は飛び出して、

自由な音楽を求めた。


バンドを組んで、
たくさんライブして。

団体で行動する儚さと、
独りになった虚しさとの落差が、

心の模様を描いていった。



僕の人生で、消したい時間があるとすればこの頃かも。


ちょうど20歳からの3、4年間。


絶望と、希望の狭間を、
他人の言葉によって行き来したこの時期に、
裏切りも、我慢も、いっぱい経験した。
というかさせられた。

期間が長ければ長いほどに、
心がだんだん弱っていって、
最終的に選んだ答えが、
「独り」だったんだ。


地下の氷のベッドで眠るように、
人から逃げるような生活を選ばされた。

仮面をかぶる仲間よりも、
見繕った優しさでもくれた他人が、
心から温かく思えた。




そしてその僕を導いたのが、
その時に聞いていた、

Def Techだった。


曲の「中身」を感じれた。


音楽って中身があったんだ!って。


見た目や豪華さで飾らない、
手作りのそんなDef Techの音楽に、
僕は救われた。


お二人の全部の曲を、
希望への教科書とした。


「君は日本一になれる!」


そう言ってくれたMicroさんの、
言葉よりも、僕はその声に励まされた。

音楽の意味。

それを深く考えたとき、
僕は決めた。




絶望を希望に変える。
喜びを幸せに変える。
恋を愛に変える。





そんな音楽がもしできるのなら、

今まで生きたこの人生の全てに、

意味を持つことができる。
そして、今までつながらなかった、
点と点を、
1本の線にできるのだと。

自分の経験からの「重い想い」を、
みんなが今いるその場所への手段として、

音楽を選んだその答えが、





生きる為の「命」を与えてくれたんだ。



「森のクマさん」から、
シングル「Paper Moon」ができるその間に出会った、


たくさんの音楽が、
僕を育てた。


そして今、


僕はようやく、

みんなの場所へと、走りだした。




もうダメダが、
もしかしたら。

もしかしたらが、
きっと。

きっとが絶対に。


絶対にが、ほらね。



へと変化できるその証明を、



僕は伝え続けたい。








願いは叶う。






これからも、音楽と共に生きますよ☆









最後まで読んでくれたあなた。

愛してます。






明日も笑顔を多めに。





Honahona♪



1982.12.17生まれの、NAOより