Episode-27 岩手県釜石市「小島製菓」 | MY“Sweets”Road

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日本全国菓子めぐりの旅日記

125日、岩手取材2日目。前日の大船渡に引き続き、今度は釜石を目指した。出発地は盛岡。またしても片道約3時間の移動である。しかし、僕は釜石を訪れるのを楽しみにしていた。釜石には縁もゆかりもないのだが、日本選手権7連覇という金字塔を打ち立てた新日鐵釜石ラグビー部の男たちに魅せられた1人だからである。釜石市の中心部に向かう途中で、テレビで何度も見た松倉グラウンドが見えた。そして、現在は新日鐵住金となっている工場が見えた。僕は感慨深くその風景に見入った。


取材先は昭和20年創業の和菓子店『小島製菓』さん。3代目の菊地広隆さんが取材に応じてくださった。菊地さんは半年前までカナダにいた。カナダではリクルーティングの会社でマーケティングやマネージメントの仕事に従事されていたという。お菓子づくりに関しては「まったくですね。本当にアルバイト程度の知識しかありません」とのこと。「ですから、以前は職人である父の下に従業員の方たちがついてというスタイルだったのですが、いまは素人同然の僕が帰ってきて上ががらっと変わって、美味しいものをつくるのはもちろんなのですが、それをどう広めていくか、そこのスタンスがまったく父のころと変わっているので、従業員の方たちとコミュニケーションをとりながら商品開発に取り組んでいます」


商品開発は従業員の方たち全員で行っているという。「女性が多い職場ですので、スタッフ層に近い30代以降の女性をターゲットとした商品開発を念頭においています」と菊地さん。そんななかで生まれた商品が、公式ホームページでも紹介している“ゆべし衣”である。お団子をゆべしでくるんだもので、公式ホームページでは構成上、菊地さんが語っているかのような文章にせざるを得なかったのだが、このお菓子について語ってくださったのは発案者の米倉さんである。公式ホームページに掲載されている写真で菊地さんの隣にいらっしゃる方だ。さっそく、ゆべし衣の開発にまつわるお話を伺った。


「若社長から期間限定でいいから新商品をつくれないものかというお話があって、いま現在身近にある材料でつくれるお菓子をというのがまずありました。新たにいろんな材料を仕入れてもらって、結局それがものにならないで材料費だけ無駄にするよりも、すぐここでできるもの、で、ちょっと見た目も良くて簡単につくれればいいかなということで試作をはじめたんです」と米倉さん。味に関しては、ゆべし自体に甘みがあるなかで、さらにお団子に餡を入れてしまうと甘くなりすぎてしまうことから、それは避けたという。10パックほどつくって市内のスーパーに卸したところ好評だったことから、商品化が決まったという。ゆべし衣という商品名も米倉さんの考案だ。「いい響きじゃないですか」と絶賛する僕。コピーライターとして僕もいろんな商品のネーミングに携わってきたが、お世辞抜きにいいネーミングだと思ったのだ。お団子がゆべしにくるまれている様は、まさに十二単姿を思わせる。


また、商品のパッケージに貼られているシールのアイディアも米倉さんである。米倉さんがイメージを伝え、それをもとに菊地さん自らがデザインしたそうだ。「私がこんなイメージで、というと若社長がすぐにパソコンでつくって見せてくれるので、とても助かりました」と米倉さんは語る。この俊敏な機動力は、さらに職場を活気づかせたことだろうと僕は思った。事実、米倉さんも「私たちが希望をいえば即対応してくれるので、すごく励みになります」とおっしゃられていた。


新日鐵釜石ラグビー部が前人未到の7連覇を成し遂げた1985年の日本選手権。その軌跡を前年の春から追ったドキュメンタリー番組があった。この番組を収めたDVDはいま、通信販売で購入できる。「なぜ強い! 松尾と鉄のラガーメン」と題されたDVDで価格は2,000円。うち、600円が釜石を本拠地とするクラブチーム・釜石シーウェイブスの活動・運営費として寄付される。興味がある人はぜひ、購入してほしい。この番組のなかで松尾雄治監督が柔軟体操を手伝っている若い選手に対し、「おっ、なかなかいいこと考えるじゃないかおまえ。そうやって、そういうアイディアをどんどんね、出せばいいんだよ。人にいわれてることしかやんないからダメなんだよ、いつも」といっているシーンがあった。僕はゆべし衣の商品開発にまつわるお話を聞きながら、この松尾監督の言葉を想い出していた。


さらに松尾監督は番組内でこうも語っている。「我々のラグビーっていうのはね、結局アマチュアスポーツでしょ。そういうものがベースになって、しかもラグビーだけやんなくたっていいんだし、何を選んだっていいわけだけど、そんなかでラグビーを選ぶってことはね、みんな好きなんですよねラグビーが。で、ラグビーを誰にもやらされてるんじゃないわけ、社会人の場合は。うちのムードなんてのは、まさにそうでしょ。俺がおまえ何やれ、これやれというのはまったくないわけですよ。それと大学生のラグビーを比較したときに、僕はどうしても大学のラグビーってのはね、これは教育課程だから仕方ないけれどもね、すごくこう、やらされている部分ってのが多いと思うんですよ。監督がいて、こうだああだといってね。選手たちが、やる気よりもやらされていることのほうが楽になっちゃってる。だから、あの人のいうことを聞いていれば間違いないというようなね、そういった気持ちになってきたら、僕は弱くなるような気がするんだね。のびのびとやってね、しかものびのびとやるなかに選手たちが楽しさを得てきてね、選手たちが、やろうじゃないかという、そういうものが出てきたときに本当の強さを発揮するなという気がするんですね」


不世出の天才ラガーマン・松尾雄治最後の試合ともなった1985年の日本選手権の相手は、後に神戸製鋼で同じくV7を達成する平尾誠二率いる同志社大学であった。平尾がこの試合から数年か後も「あれだけ打倒釜石に向けて練習してきたのに、なんで勝てなかったのかいまだにわからない」というようなことを語っていたことを記憶している。平尾とともに同志社から神戸製鋼へと進んだ大八木淳史も「あんなおっさんたちに負けるはずがないと思っていた」といっていた。


小島製菓の創業者である菊地さんのお祖父さんは釜石の生まれではない。流れ流れて大分のほうから釜石に移り住んだという。「最初、釜石に来たときは鉱山で働いていたそうなのですが、大分のころにお菓子づくりを身につけていたらしく、パン屋さんをはじめたそうなんです」と菊地さん。その後、和菓子店として創業後は、いまも小島製菓さんで続いているお正月用の餅づくりなども行いつつ事業を広げていったという。そして2代目である菊地さんのお父さんの代になって、会社も軌道に乗りはじめたそうだ。看板商品である“あぶらまんじゅう”も菊地さんのお父さんが約35年前に考案された商品である。「ヘルシーやら、カロリーオフやらいわれている時代に、あぶらまんじゅうってどうなのかなって思いますけどね」と菊地さんは笑われていたが、僕も子どものころから大好きなお饅頭である。ひょっとしたら、お饅頭のなかではいちばん好きかもしれない。「たしかに年間2万パック出るというのは、このあたりでもダントツの商品なんですね。ですので、この商品に関しましてはお客さまのお声を大切にいただいて、名前もそのままにしているんです」とのこと。特徴としては生地に木綿豆腐を加えているという。「これは和の食材を使うことで餡ドーナツとの差別化を図るという意味と、ふんわりなめらかな食感を出すために加えています」


小島製菓さんは釜石でも内陸のほうにあったため、直接的に震災の被害を受けることはなかったそうだ。地震があったときはちょうどお饅頭をつくっている最中で、菊地さんのお父さんの素早い判断により工場の2軒隣にある冷凍庫に素材をすべて保管。3月で寒かったこともあり、停電が続いても保管していたものはダメにならず2週間後には製造を再開することができたという。「よくその状況下で、とっさに冷静に判断できたものですね」と感心する僕。さらに「私なんか地震のとき、飼っている文鳥を助けなきゃと思って、文鳥を鳥カゴに入れて抱きかかえていましたよ」とボケまくりの言葉を続けた僕に、菊地さんは「うちのおふくろは饅頭じゃなくて、飼っていた犬のところに走ったみたいですよ。一緒ですね」と笑いながらツッコミ返してくださった。


菊地さんと同じように震災後、釜石に戻って来られた方は多いという。そういった方や、長年釜石で商売をされてきたお店の2代目・3代目といった若い世代の方たちが中心となって、「NEXT KAMAISHI」という活動を行っている。そうした活動のなかで小島製菓さんも、地元企業とコラボした新商品の開発に取り組まれている。いってみればオール釜石のお菓子なのだ。


新日鐵釜石ラグビー部の特徴として、よくいわれていたのが東北や北海道の高校出身者を中心としたチームづくりであった。後にキャプテンとして松尾監督を支えた洞口孝治選手や、洞口選手とともにフォワードの一翼を担った瀬川清選手は釜石工業高校の出身。同じ時期、チームに在籍していた釜石出身者の1人に及川英樹選手がいる。森重隆監督・松尾キャプテン体制でV4を達成した1982年のシーズンがNHK特集で取り上げられたことがある。「ノーサイドの笛は鳴った」というタイトルであった。この番組は震災後、再放送されたことがあるので記憶に新しい方もいるかもしれない。この番組のなかで及川選手は地元・釜石について「なんもつまんない町なんですよ、ここ。ここで生まれて、ここで育ってきたがら。若いやづらが力もって、なんかできるような町でもないし。友だちなんかも(釜石から)いなぐなったりね。ずっとこう、さみしい思いしてきて」と語っていた。及川選手が、このシーズン限りでの退部を申し出たことが番組のなかで紹介されていた。一度は釜石を離れた友人たちが再び釜石に帰ってきて、音楽をやったり絵を描いたり、文章を書いたりしている姿を見て、ラグビー以外の青春も送ってみたいと思うようになったことがきっかけという。


菊地さんが小島製菓を継ぐためにカナダから戻ってくるにあたっては、かなりの不安があったであろうことは容易に想像できる。加えて、従業員の方たちにも不安はあったろうと思う。古いたとえですまぬが、まさに花登筺の世界である。米倉さんも「戻ってきて店を継ごうとしてるからね、やっぱり従業員も売り上げアップに協力して少しでも、俺が店を盛り上げていくんだ、というのを感じさせてあげないと」とおっしゃられていた。


「うちの会社はまだ小さいので、全員が経営者の立場に立てるような取り組みをしています。売り上げなどの数字1つひとつをわかりやすいようにグラフ化して出すことで、みんなのやる気も上がりますし、原価に対する意識も向上したと思います。それによって作業効率もずいぶんと良くなりました。いちばんいいのは、社員が自発的にやってくれるということです」と菊地さん。カナダから帰国した菊地さんが、最初に社員の方たちに話したことは、いままでのようにやっていたら、自分は先代のようにお菓子づくりはできないのでつぶれる、みんなでやらないとヤバイよ、ということだったという。


新日鐵釜石ラグビー部が6連覇に向けて始動した19834月、フランカーの高橋博行選手が飲酒運転で事故を起こした。部は対外試合を自粛し、高橋選手には無期限の謹慎処分が下された。高橋選手は部をやめることも考えたという。しかし、いつか謹慎が解けグラウンドで責任を果たせる日がくるのを信じ、1人で黙々と走り込みなどの基礎練習に明け暮れた。その後、高橋選手の謹慎も解け、迎えた1984115日。6連覇を達成した釜石ラガーマンたちは、真っ先に高橋選手のもとに集まった。そして、高橋選手は泣きじゃくりながら胴上げされた。それはまさに「One for All,All for One」というラグビースピリットが凝縮されたような光景であった。


1985年の日本選手権において新日鐵釜石ラグビー部は前述のとおり7連覇を達成したのだが、この道のりも決して平たんではなかった。最初の大きな危機は準決勝の東芝府中戦。一時は19-10と引き離されてしまった新日鐵釜石は、試合中にもかかわらず松尾監督がゴールポスト下に選手全員を集め、フィフティーンが手をつないでもう一度意志の疎通を図った。この試合で神がかり的な仕事をしたのが、センターの金野年明選手。プレースキックの名手は残り20分のなかで3本のペナルティゴールを決め、19-19の引き分けに持ち込んだ。特に残り8分に決めた3本目のゴールは、距離は42メールという超ロングキックによるゴールだった。


抽選の結果、決勝に進んだ新日鐵釜石は決勝で神戸製鋼を圧倒。この試合で、いまも語り継がれる13人トライが生まれている。しかし、この試合後、松尾監督は痛めていた左足首を手術。まだ抜糸もしていない状態の足首に麻酔を打ち、日本選手権に出場した。試合後、松尾監督はチームメイトたちによって高々と胴上げされた。釜石に縁もゆかりもない少年をも魅了し続けた天才ラガーマンの、最後のユニホーム姿であった。松尾監督は語った。「僕は何から離れるのが嫌かといったら、やっぱり彼らと別れるのがいちばん嫌ですね。釜石で得たものというのは、もう僕のすべてですよね。僕はねえ、大学時代からね、非常に生意気な男だったんですね。ただラグビーが好きなんだってことが裏にあったから、みんなは認めてくれてたと思うんですよ。そういう男がね、釜石へ行ってホントに松尾ってやつは変わったなといわれるんであれば、それは釜石で僕が人間的な成長をしたということがいえると思うんです。それが釜石の洞口や清やね、ああいうやつらから僕が教えられたものだと思うんですよね」


先に取り上げたNHK特集において、及川英樹選手は新日鐵釜石でのラグビー人生について「俺はね、ラグビーですごいやづらに会えた。こいつはすごいと思わされるやづらど一緒にやれた」と語っていた。一方、森監督は、福岡でご実家の家業を継ぐためV4を置き土産に釜石を去る日、駅のホームでエールを送る仲間たちを前に、電車の窓枠に両手をつき、ずっと頭を下げて肩をかすかに震わせていた。残念ながらこの映像をなんの番組で見たのかはもう記憶にないのだが、このときの森監督の姿だけはいまも鮮明に憶えている。これ以上に美しい男の姿を、僕は見たことがない。


「釜石という町は新日鐵に支えられ乗っかってきたなかで、全盛期だったころにいい商売をされていたのが先代の代、50代後半から60代・70代の方たちなんです。その後、新日鐵の火が消え衰退していったことにより、釜石だからもうダメだ、なにやってもダメだという意識が多くの人々のなかにあったんですね。震災前から釜石の経済は疲弊していたというのが実態だと思います。でも、それはブランディングができていなかったからだと思うんですね。残るところはしっかり残っていますし。値段が高くても、お客さまに支持されているお店もありますので、釜石のブランドイメージの構築というのをいま、いろんな方たちと取り組んでいるところです。イオンの出店や高速道路の計画といったインフラ整備も進められてはいるのですが、そればかりに乗っかってしまっては以前と同じになってしまう。新しい釜石をつくるには企業自体が、1人ひとりが力をつけて各々の会社のブランディングをしっかりやることが大切だと思います」と菊地さん。選手個々の能力アップなしにチーム力の向上は望めないことと同じように、やはり町づくりもそうなのであろう。


新日鐵釜石ラグビー部。いまなお語り継がれる釜石の伝説である。それに負けない新しい釜石の伝説づくりは、いまも着々と続けられている。


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