「古城」三橋美智也と歌う

 

 

  1. 松風さわぐ丘の上 古城よひとりなにしのぶ 栄華の夢を胸に追いあああ 仰げばわびし天守閣
  2. 崩れしままの石垣に 哀れをさそうわくらばや 矢だまのあとのここかしこあああ むかしを語る大手門
  3. いらかは青くこけむして 古城よひとりなにしのぶ たたずみおれば身にしみてあああ 空行く雁の声悲し

藤堂高虎が築いた津城と大坂の陣

404年前、大阪夏の陣で大坂城が落城し豊臣家が滅びました。

津藩の初代藩主藤堂高虎(1556~1630)は徳川方の中核として、かって主君だった豊臣方と戦いました。

 

高虎は豊臣秀吉の弟・秀長(1540~91)に仕えていました。

熊野市紀和町赤木に赤木城跡があります。

 

 

赤木城

 

 

尾根の地形を巧みに使った山城で、石垣は高さ4~5mくらい積み上げられています。

 

高虎は近江・藤堂村(滋賀県甲良町)で生まれました。近江の戦国大名・浅井長政、織田信長の甥・信澄らに仕えた後、秀長の家臣になります。秀吉の紀州攻めの後、高虎は紀伊粉河を与えられ2万石の大名となります。

 

秀長が治める奥熊野で一揆がおきます。赤木城は鎮圧の拠点となり、高虎は一揆勢を田平峠で皆殺しにします。

 

「♪行たら戻らぬ赤木の城へ、見捨てどころは田平子じゃ」と歌われています。

高虎は、秀吉の死後、家康に近づきます。

 

慶長13年(1608)、津22万石の大名となります。

秀吉の子・秀頼(1593~1615)を擁する大坂城への備えとして伊賀上野城を大改修します。

石垣の高さ30mは全国の城の中でも1~2位を争うものでした。

 

高石垣と宝もの – 伊賀上野城

大坂冬の陣

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ケ原の戦いが繰り広げられます。

この勝利で徳川家康が、さらにその地位を不動のものにした戦いが15年後の大坂冬の陣でした。

 

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が始まります。

高虎は家康に命じられ、6千の軍勢を率いて先鋒となります。20万の大軍が大坂城を取り囲みます。

 

高虎は大坂城に入ろうとする豊臣恩顧の大名・福島正則の重臣の子・福島長門ら全員を討ち取ります。

 

豊臣方10万の軍勢は籠城し、真田幸村は大坂城の弱点とされる南側に出城「真田丸」を築きます。加賀藩、彦根藩、津藩(高虎)らが真田丸を攻めますが、真田軍の反撃で大損害を被り、退却します。

 

それ以上大規模な戦闘がないまま、徳川家康と豊臣秀頼の間で和議が成立。

大坂城は外堀だけでなく内堀も埋め立てられました。

高虎はトンネルを掘ったり堀の水を抜いたり、高楼を建てて場内を銃撃したりしました。

大坂夏の陣

翌、慶長20年4月、家康は再び大坂城を攻めます。15万の大軍を2手に分け、河内(東部)と奈良(南部)から大坂へ向かいます。高虎は5千の軍勢で津城をでて、河内方面の先鋒隊となります。

 

一方、豊臣方は5万の軍勢で長曾我部盛親、1万の軍勢で木村重成が河内方面で向かいうちの構えです。冬の陣で負け、外堀を埋められて本丸だけの裸同然になった大坂城では、敵の大軍の中に打って出て戦うより方法はなかったのです。

 

盛親は土佐の大名でした。父・元親が四国を制覇したものの、秀吉に降伏し土佐(高知)だけを与えられていたのです。それも関ケ原の戦いで豊臣方についたため家康にとりつぶされました。そのとき長曾我部の家臣を引き取ったのが高虎でした。

 

桑名吉成も豊臣方につきました。

「旧主(盛親)の大恩は命を捨て忠戦して報いた。新主(高虎)の恩はいまだ報いていない。ただ打ち死にして旧主の名をもあげる」と語ったと伝えられます。

 

5月8日、盛親軍(八尾)、重成軍(若江)が陣取っているを見て、高虎は家康本陣が突かれると判断し攻撃を仕掛けます。

 

高虎の甥・高刑、藤堂氏勝、吉成らが先鋒隊を壊滅させます。そのまま盛親本陣に迫りますが、槍兵に阻まれ高刑ら3人が討ち死にするのですね。

 

吉成の首は、盛親の元へ差し出されます。

盛親は「新主への奉公を全うした」とほめ、首を吉成の子に返します。

高虎は「武士はこうありたいもの」と盛親の計らいを喜んだと伝えられます。

 

高虎のいとこ・良勝、その子・良重は、重成軍と戦闘します。

藤堂軍は兵の半数を失い、良勝・良重は戦死。高虎の身も危うくなります。

そこへ助太刀に入ったのが彦根藩・井伊直孝です。

形勢は逆転し重成は戦死、盛親は退却します。

 

八尾の常光寺で、高虎は敵の首を並べます。首実検その数788。

しかし自軍も300人余を失うのです。

「藤堂家の侍らしき侍は大方討ち死にした」と言われるほどでした。

高虎はこれをもって翌日の先鋒隊を辞退するのです。 

夏草や兵どもが夢のあと

大坂夏の陣の最終決戦で、徳川方15万、豊臣方5万が大坂城の南・天王寺で激突します。

数に劣る豊臣方ですが、真田幸村軍が西に、毛利勝永軍が東に布陣し、南の家康本陣に向けて総攻撃を仕掛けます。

 

毛利軍と対峙したのが桑名藩・本多忠朝です。

初代桑名藩主・本多忠勝の長男・忠政が後を継ぎ、次男・忠朝は上総大多喜5万石の藩主でした。

 

毛利軍の猛反撃で忠朝は討ち死。酒を飲みすぎによる不覚だったようです。

忠政は、南の道明寺で激戦を繰り広げます。

 

毛利軍の進撃はすさまじく、10部隊を破って家康本陣に迫ります。

真田軍は「赤備え」といって、目立つように旗・具足を赤に統一し、松平忠直(家康の孫)の大軍を打ち破り、3度に渡って家康本陣に迫ります。

 

本陣は大混乱で、家康も一時は自刃を覚悟したほどだと伝えられます。

高虎軍は本陣の苦境を知り、彦根藩・井伊直孝の軍ととともに救援に向かいます。

高虎は自軍が負けそうになったとき、「敗走する者は射殺すべし、射よ射よ」と叫んだといいます。

 

精鋭の母衣衆が槍で防戦し、敵を敗走させます。

藤堂軍は79の首を挙げたが、自軍も71人戦死しました。

 

藤堂軍は真田軍とも対戦しています。

坂井直義、堀信家、岡本安貞、中小路宗久ら「藤堂の四槍」が奮戦し、ついに真田幸村も戦死し、大坂夏の陣は終焉を迎えます。

 

5月8日、大阪城は、裏切り者の放火によって燃え上がり、淀君・秀頼母子は自刃、豊臣家は滅びます。秀頼23才、母・淀君は49才でした。千姫>家康の孫で秀頼の妻)はこの時19才、落城の時救い出され後日、本多忠政の子・忠刻(姫路城藩主)の嫁になります。

 

家康は、高虎の手を握り「藤堂の働き比類なく心入った。手柄とはこのことだ」と杯に自ら酒をついだといいます。

ほとんどの大名が夏の陣後に褒美を貰えなかった中で、高虎だけが5万石も加増されたのです。

津城の成り立ちと歴史

津城は藤堂家の前まで織田信包(信長の弟)のものでした。

 

伊勢上野城からお市の方と娘たち(浅井三姉妹・茶々、初、江)とともにこの城に移ってきたとされてきましたが、実は滞在していたのは守山城のようです。お市の方はその後、柴田勝家と再婚してますしね。

 

信包は石垣を普請し堀を巡らせて、本丸・二の丸・三の丸を整備し天正5年(1577年)には5重天守と小天守をつくりました。

 

その後、豊臣家の富田一白が5万石を与えられ入城し一白の子、信高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍につき、西軍の毛利秀元・長宗我部盛親軍3万の軍勢に城を攻撃され大半を焼失します。

 

慶長13年(1608年)信高は伊予宇和島藩に移り、代わって伊予今治藩より藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石をもって入城したようです。そういえば津市の老舗・おぼろタオルは今治の職人が多くいましたね。

 

大坂の陣の功績で元和元年(1615年)と元和3年(1617年)に5万石ずつの加増を受け、藤堂家は32万3,000石の大大名となります。江戸時代に大改修され、明治時代まで藤堂家の居城となりました。本丸の石垣や内堀の一部が現在は「お城公園、お城西公園」として整備されています。

 

 

 

 

 

津城復元平面図

当時の津城周辺地図

津城の歴史と構成図