慌しく仕事をしている毎日。
がけっぷちが勤める会社は2月決算。
ということで3月は新しい期のスタートでした。
OA機器の点検・修理が仕事のがけっぷちですが、
前期は営業的な動きに少し力をいれてみました。
結果はしっかり粗利数字や取引商材の幅などで出せたと思うのですが、
限られた時間の中でメンテナンス・営業・システムの仕事をこなすのは思ったようにいかず、
納得いく一年ではありませんでした。
今期はメンテナンス活動を60%・システム的な動きを30%・営業的な動きは10%
そんなバランスで動けるか試行錯誤しながら試してみようと思っています。
春はお別れの季節。
がけっぷちの勤める会社でも後輩が今月一人退職されます。
昨年末にはメーカーの担当者さんが松江に転勤になり、
テレビ番組やラジオ番組も色々と番組改編によってお別れになってます。
平日の楽しみだったNHKのラジオ番組、「午後のまりやーじゅ」が終わってしまい、
先日も帰宅してテレビを見ているとNHKの「Sportプラス」が終わるとのこと。
一昨日も「おそ松さん」が最終回を迎えたそうですし。
そんな中、深夜布団の中で再放送を拝見していた番組が終わっちゃうとの事。

最終回を拝見して、なんとなく感じたのが「単に番組のリニューアル?」という疑問と、
4月からは「ガッテン」と名前を変えて放送開始とのこと。
といってもナレーションさんからテーマソングも変わり、長くレギュラーだった山瀬まみさんも卒業されるとのこと。
「ためしてガッテン」の中の山瀬まみさんの卒業の挨拶には目頭が熱くなりました。
43歳のがけっぷちにとって、山瀬まみさんの卒業の挨拶を拝見するのは
これで2回目。
1回目は、がけっぷちが高校生時代の1989年9月に、
三宅祐司さん司会のテレビ番組「テレビ探偵団」で、山瀬まみさんから西田ひかるさんに交代されることになり、
番組のレギュラーとしての最後の出演のときに挨拶を拝見した記憶があります。
そんな山瀬まみさんの2回の卒業の挨拶を拝見したことがあるがけっぷちですが、
ふと考えると、卒業の挨拶の場をカットされず放送されるということは、
山瀬まみさんにとって降板は残念な事とはいえ、ありがたいお話なんだろうなと思ったりします。
「ためしてガッテン」の番組の中で、司会の立川志の輔さんに見守られながら
卒業の挨拶をする山瀬まみさんを拝見して、ふと思い出したことがありました。
それは、山瀬まみさんが卒業の挨拶ではなく、心ならずも道半ばで旅たたれた方に
山瀬まみさんが感謝の気持ちをこめたお別れの挨拶を行われていた
1994年1月でのある番組のことでした。
その番組の中で、蛭子能収さん、ジャイアント馬場さん、川合俊一さん、高田純一さん、峰竜太さん、
山城新伍さん、そして山瀬まみさんが感謝の気持ちをこめてメッセージを送られていました。
その番組の名前は「クイズ世界はSHOWbyショーバイ!!逸見さんに捧げる逸見さんスペシャル」
フジテレビのアナウンサーからフリーになり、
初めて司会を任された番組「クイズ世界はSHOWbyショーバイ!!」
その番組の中でなくなられて11日後に放送されたのが、「逸見さんに捧げる・・・・」でした。
ちなみに「ためしてガッテン」の司会者、立川志の輔さんと山瀬まみさんは、
このクイズ番組でも共演されてらっしゃいましたよね。^^
がけっぷちにとって、フジテレビ時代の逸見正孝さんはあまり存じ上げませんが、
「いつみても平々凡々」や「いつみても波乱万丈」、「平成教育委員会」、「夜も一生けんめい」
そして正月恒例のビッグ3ゴルフなどを拝見して、とても好感をもっていました。
そんな逸見正孝さんが癌との闘病に入る前の記者会見にはショックを受けましたし、
闘病の末に1993年12月25日に亡くなられたことは本当に悲しかったです。
逸見正孝さんのお葬儀のとき、
広島在住のがけっぷちは新宿か何処かの葬儀場を拝見しながら手を合わさせていただいていました。
偶然東京にいたがけっぷち。
冬休みを利用して広島から東京に翌1994年1月1日まで1週間でていました。

鈍行にのって何度も乗り換えての、「青春18切符」での広島~東京まで旅。
青梅の同級生のアパートに居候しての1週間はとても楽しかったです。

普段は鉄道に乗らないこともあり、電車の中で拝見する人たち一人ひとりをのんびり観察してたりしました。
「クイズ世界はSHOWbyショーバイ!!」での逸見さんと渡辺さんのお二人の掛け声、
「さあ みんなで考えよう!」というのは、今でも耳に残っています。
そんな逸見さん。
逸見さんのお父さんだったかお爺さんだったか、
もともとは広島県尾道市の毛利さんだったのが、
逸見さんの所に養子に入ったので、逸見家になったとか、
出身が、大阪市阿倍野区だと知ったのも亡くなられたあとのこと。
広島県佐伯郡五日市町生まれで、いままで43年間広島県から引っ越したことが無いので、
大阪といっても親戚(がけっぷちの父方は大阪・兵庫なので)を訪れた記憶だったり、
社会人になって日生球場向かいのメーカーさんの研修センターに2週間通ったこと、
彼女と海遊館を訪れたことなどしか大阪にはご縁がありませんが、
唯一何度も手紙や封書を送った相手が、「大阪市阿倍野区」の住所でした。
中学生時代から高校生時代の6年間。
幾度もお手紙をお送りし、そのつど返事を頂いていました。
それが、今回台湾の企業に買収されちゃった「シャープ」でした。
がけっぷちとシャープ。
関わり無かったようで、とても関わりの強いメーカーさんです。
実家に色々とシャープ製品はあったと思いますが、
こんな写真が出てきました。

シャープ製のパソコンMZ2000とMZ1200
MZ2000は廃棄しましたが、今でも実家にはX1やX1turbo、X68000やX68000PRO、
MZ1200やMZ711、721などは残っていると思います。




倉庫に入れているパソコンは発掘が大変なので写真はありませんが、
がけっぷちが中学生時代からシャープさんとは何度もやりとりがあり、
NECとともに、とてもお世話になったメーカーさんでした。
特にX68000の発表前には試作段階のカタログなども送っていただいたり、
販促品のバスタオルや灰皿、ポスターなども沢山送っていただいたことがあります。

(これと同じものを沢山送っていただき、通学していた高校の文化祭では多くの方に喜ばれました。)
がけっぷちが高校時代には、シャープといえばX68000
そんな時代でした。
左右開きの冷蔵庫、トリプルデッキのラジカセなんてのも話題になったり。
社会人になる頃にはシャープさんとのご縁は遠くなっていましたが、
そんながけっぷち宅には色々とシャープ製品は残っています。
まずは、どんな家庭には必ず1つはあるはずの、

シャープ製のZ80互換のCPUが2種類。(あるわけないですね。(∀`*)ゞ
それに当時10数万円だして購入した、電子レンジだったり

がけさんがスマホを持つ直前まで7年近く使っていた、movaのSH505IS

プラズマクラスターイオン発生器は、
ノア号に乗っけているものを除いて、自宅で活躍中なものがこちら。

こんな物もあったり、

こんな品も残っています。


こちらのパンレット以外に、




形態性に優れた「Muramasa」(だったかな?)なんてものも懐かしいです。
実家にはこんなパソコンをプレゼントした事がありました。

実家のリビングのテレビはシャープのAQUOS。
って事で、このパソコンやレコーダーなどを送りました。

父親はこんな品も使ってました。

実家の父親いわく、ラジカセなども残っているとのこと。
正直な話、国内家電メーカーの雄の一角だったシャープがこんなことになって、
とても残念に思います。
がけっぷちが中学生時代、高校生時代にお世話になったシャープの担当の方々の多くは、
すでに定年されてらっしゃるとは思いますし、
現在ではがけっぷちは普段修理・販売しているメーカーさんのライバル企業でもあるので、
色々と複雑ですが、健全な企業と戦うのは真っ向勝負で楽しいのですが、
こうなってしまうと、色々と複雑な心境です。
ここ最近。
仕事で訪れるお客様先でもシャープや東芝の話が多く、
その殆どが、「我が家にあるシャープ家電のお話」とともに、
「もう買わないだろうな」との言葉。
NECのパソコンがメインだった、がけっぷちにとって
シャープは憧れの製品を作る企業でした。
「目の付けどころがシャープでしょう」
そんな企業がこんな事になって、多くの方々が複雑な心境なんでしょうね。
かつて、シャープの家電は多くの家庭で活躍したことと思います。

純粋な日本の企業でなくなったことが、
よかった事なのか、悪かった事なのか、がけっぷちには詳しく判断する材料を持っていませんし、
批評する事も出来ませんが、残った日本企業にはさらに厳しくなる市場において、
いっそうの活躍を期待するとともに、わずかながら応援できればと思います。v( ̄Д ̄)
※また今週末ブログ復活させてくださいね。
今回はこんな時間ですが、シャープさんの出来事がとても残念で睡魔と闘いながら記事を作ってみました。