忠臣蔵で長話♪(長文) | がけっぷち人生向上ブログ

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2019年12月にYahooブログから引っ越してきました。
キャンプにカメラに雑学に。

毎日仕事でお客さん先を駆け巡る毎日。
 
今月に入りブログ更新は滞ってますし、皆さんのブログ訪問も出来ずじまい。
 
ただただ、こんな「がけっぷち人生向上ブログ」に遊びに来て頂く皆さんに感謝です。 <(_ _)>
 
 
そんな師走のがけっぷち。
 
 
12月12日(日)は朝から団地内の清掃活動へお出かけしてきました。
午後からユニクロ・洋服の青山まで買い物に出かけてきました。
 
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購入したのは、カッターシャツ3枚と、革靴、ヒートテックのタイツ(〃ー〃) と、トランクス2枚。
 
あと金曜日受け取り予定のスーツ1着。(2パンツです)
 
がけっぷちは殆どスーツの上着を着ません。
 
理由としては、冬場でもカッターシャツ姿が目立つから、お客さんに気がついてもらいやすいなど色々ありますが、一番の理由はクリーニング代金を浮かすことから始まりました。
何せ新婚当時はお金があったのですが、がけっぷちだけが働く事になった頃から家計は火の車。
月に1,000円でも節約できればと思い、1999年頃から上着を着るのを辞めました。
 
膝下まで積雪がある高速道路で、チェーンを巻いていると、あまりの薄着ながけっぷちを見かねて、
高速道路公団の黄色い車や、高速の警察車両がとまってくれて
「寒くないですか?」なんて事がしょっちゅうでした。ヾ(´▽`;)ゝ
 
話を元に戻しまして・・・( ̄ー ̄)ゞ
 
洋服の青山で、スラックスの試着をしていた、がけっぷち。
 
身長57m体重550トン・・・・でなくて身長173cmの体のわりには、
横幅が広く、足が太く、お尻が大きく。 (TωT)
 
そんな状態ですので、スラックスの丈を調整しないといけません。
 
実際の足の長さに合わせると、15cmくらいスソの部分の調整が必要。
 
 
試着室で足の長さにあってないズボンを引きずって歩く姿は、
まるで登城した武士のような状態・・・。(〃∇〃)
 
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まぁ、単純に「短足」って事なんでしょうけど。( iдi )
 
 
話を元に戻しまして。
 
 
そんながけっぷち。
 
お客さん先をOA機器の点検・修理・消耗品の納品やパソコンのトラブルなどで訪れている中、
お客さんと色々なお話をさせて頂きます。
 
アニメの話、歴史の話、地名・人名の話、車や船・飛行機・電車などの話、
テレビドラマやクイズ番組、広島東洋カープや昔の広島市・佐伯郡の話、パソコンの話などなど。
 
そんな中、12月と4月限定でお話する話題があります。
 
 
それは「忠臣蔵」の話です♪ (^ー^* )
 
 
                        (はりまあこうはん はんしゅ
時は元禄、江戸城松の廊下において播磨赤穂藩藩主
あさの たくみのかみ ながのり)
浅野内匠頭長矩が・・・
 
なんて口上が脳裏に浮かんでくる方は歴史通だと。(〃ー〃)
ちなみに「播磨」でなくて「播州」って言われる方が多いかも。
 
 
昭和48年生まれのがけっぷちにとって、初めて目にした忠臣蔵といえばこちら。
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1982年放送のNHK大河ドラマ「峠の群像」です。 ちなみに当時9歳
 
 
その後、がけっぷちがとても影響を受けた「忠臣蔵」と言えばこちら。
 
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1985年12月30日・31日に放送された「年末時代劇 忠臣蔵」です。
このシリーズは「白虎隊」「五稜郭」などとシリーズ化されました。  ちなみに当時のがけっぷちは小学6年生。
 
1999年の大河ドラマも忠臣蔵を題材とした「元禄繚乱」だったりしました。
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ちなみに、大河ドラマ「元禄繚乱」(げんろく・りょうらん)の「繚乱」は、何処かで聞いた事ある言葉だったりしますよね?
 
一般的には「百花繚乱」(ひゃっか・りょうらん)という言葉で使われたりします。
 
「繚乱」の意味としては「花などが華やかに咲き乱れる様子や、生き様などの例え」と言われています。
 
 
 
 
さて、「忠臣蔵」と言えば、播州赤穂藩の藩主浅野内匠頭が江戸城松の廊下において、高家筆頭吉良上野介に切りかかる刃傷沙汰。 幕府が下した裁決は、浅野内匠頭は即日切腹、吉良上野介は無罪放免。
播州赤穂藩はお取り潰し。浪人となった元赤穂藩士たちが吉良邸に討ち入り吉良上野介を討ち取るお話。
 
そんなイメージですよね。
 
 
この江戸城松の廊下での刃傷沙汰から、赤穂浪士の切腹までの話は、「赤穂義士」として庶民に人気がある物語となって受け継がれました。
現在の「赤穂浪士」と呼ばれるようになったのは、江戸末期の新選組が、壬生浪士と呼ばたのが影響だとか。
 
 
さて、がけっぷちが住んでいるのは広島県広島市。
 
3才の頃から26才まで住んでいた実家と、現在住んでいるアパートの間は、
車で移動すると僅か10分ちょっとの距離です。
 
その中間地点にあるのが、曹洞宗「国泰寺」(こくたいじ)というお寺です。
 
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この国泰寺は、がけっぷちが中学生時代~高校時代まで、毎年除夜の鐘をつくために、
同級生と大晦日に通ってました。 
 
ちなみに、このお寺から広島市内方向を眺めると、
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こんなに標高が高かったりしますが、ここから見下ろす夜景は絶景です。(V^-°)
 
このお寺は、関が原の戦いに敗れ、京都六条河原で石田三成、小西行長と供に打ち首となった、
安国寺恵瓊が、関が原の戦いの6年前に現在の広島市中区中町に創建した「安国寺」が元となってます。
 
関が原の戦いの後、広島は毛利氏から福島氏に藩主が変わり、藩主福島正則の命で、「安国寺」から「国泰寺」と名前が変わりました。
 
ちなみに地図で表すとこんな感じです。
 
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右側の青色で囲った部分が、「国泰寺」です。
地図上では、「国泰寺」を挟んで南北にがけっぷちの実家と、現在住んでいるアパートが存在してたりします。
 
ちなみに、この「国泰寺」
 
赤穂浪士の大石内蔵助の妻、「りく」さんのや三男さんのお墓があります。
 
 
芸州広島藩は、毛利輝元から福島正則へ。福島正則から浅野長晟へ藩主が変わり、「国泰寺」は浅野藩の帰依を受けて現在までその歴史を継続されてます。
 
ちなみに、広島県人だけ通じるのローカル話を1つ。
 
現在、平和大通り北側にある「元全日空ホテル」。
今の名前を忘れましたが、その昔の海岸線はあの辺りだったりします。 
当時の「国泰寺」は白神神社とは隣接しており、
「元全日空ホテル」と平和大通りに挟まれた大きな石で作られた空庭のようなものは、江戸時代の「国泰寺」の遺構だったりします。
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(写真は今年のフラワーフェスティバルで撮影したものです)
戦国時代末期から江戸時代にかけて広島湾の埋め立て・干拓事業が始まり、新たに陸地となった場所を「新開」と呼んでいましたが、同時代に「国泰寺」へと町の名前になり、現在の中区国泰寺という町名として残っています。 (西区福島町の由来は福島氏から)
 
 
えーっと、話を元に戻しまして・・・・
 
先ほどの地図をもう一度見てみましょう。
 
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赤色で囲っている部分。
以前にも記事しました、高速道路、山陽道にあるトンネルの1つ、「水晶トンネル」です。
 
古来、広島県は現在の湯来町一体をのぞいて、とても水晶が沢山とれる地域です。 花崗岩質の土壌ということもあり、小学校のグランドでさえ、小さな水晶や、水晶になれなかった石英がゴロゴロしています。
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(写真は2009年1月に記事から)
厳島神社がある宮島も、頂上まで上がる山道の途中に水晶岩と呼ばれる小さな水晶が沢山結晶化している岩があったりします。
水晶にも色々あるみたいで、中にはこういった黒い水晶も。
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花崗岩は、大雑把に説明しますと、石英と長石、黒雲母で出来た岩石です。
 
花崗岩として形成される過程で、石英が透き通った水晶になるには、
ベストな空間、ベストな温度や湿度、ベストな成分などが重なれば出来上がるそうです。
 
ちなみに、岩石には色々種類がありまして、
花崗岩のように白っぽく、直ぐに風化してボロボロになる石もあれば、
泥岩のように、長い時間をかけて泥などの堆積物が圧力により岩石化するものも。
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この泥岩は、石の真ん中よりちょっと左側で、地層のズレが見れたりします。ヾ(´▽`;)ゝ
 
 
話がそれちゃいましたね。
元に戻しまして・・・
 
花崗岩の主成分の1つ。「黒雲母」
 
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こういった黒雲母は風化した花崗岩から剥がれた物だそうです。
写真の黒雲母は学生時代にグランドで拾い集めた物。
 
だれです!カメムシに見えるなんて!! 凸(`Д´メ)
 
確かにてんとう虫サイズのカメムシに見えますが。(TωT)
 
「雲母」(うんも)の種類は沢山あります。
また成分によっては雲母の色も違ったりしますが、
そのどれもが、結晶化した際に8面体のような形状になり、
結晶も薄くはがれるものばかり。
 
中学校の理化で習った「角閃石」「輝石」(かくせんせき・きせき)も、似たような成分ですが、薄く剥がれる結晶ではありませんので、一目で違いがわかります。
 
 
がけっぷちの子供時代。
 
近くの小川でキラキラと光り輝くもの全てを「砂金」と呼んでました。
水戸黄門などの時代劇の影響かと。(〃_ 〃)ゞ
 
実際は「黒雲母」が光り輝いていただけと知った時は、一円の価値もないって解ってガッカリした記憶が。
 
話が直ぐに横道にずれてしまうので、強制的に戻します!(ノ`△´)ノ
 
足利尊氏が室町幕府を作ったのは、
西暦1338年。
鎌倉時代の終焉、南北朝時代の到来。
一休さんでお馴染みの、三代将軍足利義満、そして織田信長に追放されて十五代将軍足利義昭で室町幕府は終わりを迎えます。
 
足利将軍家はその一族・親戚筋を支配地域にそれぞれ配置しました。
足利家一門の三管領家と呼ばれた、斯波氏、畠山氏、細川氏。
また、桃井氏(もものい)や今川氏、吉良氏など沢山。
 
赤穂浪士に討ち取られた「吉良上野介」も江戸時代に高家として名誉職のような役割をしていたのは、足利一門だからという理由。
地元では現在でも名君として、とても親しまれた歴史上のお殿様とのことです。
 
ちなみに、上杉謙信で有名な、上杉氏は江戸時代の当主上杉綱憲は吉良上野介の息子さんです。
 
そんな吉良氏。
 
三河国吉良庄に赴任した足利長氏が地名を名字にして、「吉良氏」にされたのですが、「きら」の語源は、先ほど紹介した「雲母」から。
 
「雲母」がキラキラと光り輝く様を文字に直して「吉良」にされたとのことです。
 
 
 
 
と長文ですが、綺麗にまとめたかったのですが、最近テレビ番組で「吉良氏」の由来を放送されてたそうですね。
後出しジャンケンになってしまいました・・・・・・・。もっと早く記事にすれば良かった。( p_q) 
 
 
クリスマス付近から仕事に目処が着きそうなので、その頃復活しますね。
それまで一方的な記事配信で御免なさい。<(_ _)>