去る4月26日、中目黒のマクロビカフェにて
アフロディーテのお茶会を開催しました。
主催パートナーのぷちまりちゃんとわたくし、
お互いちがった切り口で、でも話の内容は同じ…
という形で、【受け取る・与える】について
アフロディーテの言葉を伝えました。

参加者のみなさん、
その節はほんとうにありがとうございました♪

その後、10日ほど経ちます。
参加者のみなさんといろいろ語り合ったことについての
フィードバックが 毎日別の人、別の角度からやってきます。
頭で納得した仕組みや骨格を、
これで決定とコテコテに固めてしまわず、
伸びしろ自由で腹に落とし込む作業というかなんというか。

実際の血肉にしていくための現実や出来事が、
お茶会前も、お茶会後も つぎつぎとやってきて、
驚きや感動の連続です。
そのフィードバックやシェアをしてくれる人々に、大感謝!
みんな惚れてまうやろ~~~ラブラブ

近頃チームアフロディーテの名のもとに、
さまざまな方々とコラボを計画しています。

アフロディーテのお茶会第2弾は、
メグロビ(メグさん主催のマクロビをベースにした食事セラピー)
とのコラボ企画、

ぱよこのセッションルームにて、
アフロディーテのランチ会☆メグロビスタイル
を、6月くらいに開催したいと思っています。

マクロビは陰陽思想による食事・健康法。
アフロディーテの言う男性性、女性牲の調和も
陰陽の調和がテーマ。
食は気持ちを作る。
気持ちが体を作る。

女性牲UPにももってこいですね♪

というわけで、
またそのうち予定をUPしますのでよろしくです♪


あ、そういえば先日ふと気づいたのですが、
今年の4月末で、ぱよこは開業して1年になるのでした。

わぁー早いものです!

最初は対面セッションもおっかなびっくりな
わたしでしたが、
お茶会を開催するまでに度胸がついたのですね。

日々のステップ、ハードルはとても小刻みで
越えられる範囲のものしか設定していないため
ついつい忘れてしまうのですが、
ちゃーんと自分だって成長してるんだな?

なんて思ったりしてみました♪

とにもかくにも、
関わってくれたすべてのクライアントさん方のおかげです。
みなさんは、わたしの先生です。
いつも本当にありがとうございます♪

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最後に、お茶会で語り合ったことについて、
議事録というよりは覚え書きではありますが、
内部から上がってきておげっとなったので(笑)
ブログにも上げておきます。
ご縁のある方に届けば、なお嬉しいです。

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受けとる=与える

【受けとること】は、「わたしは受けとりますよ」と、
相手や自分に承認を【与える】こと。

【与えること】は、「わたしはあなたに与えますよ」に対して、
相手や自分の承認を【受けとる】こと。

ふたつはセット。

だから与えることに苦手意識や不満があったりすると、
(与えすぎてばかりいる、与え続けると損をしそうで与えられない)

受けとることに対しても反発や不満があったりするようです。
(欲しいものを受けとれない、受けとっても受けとっても足りない)

受容と授与は、片方だけ見ていても全貌が見えないし、
その一方で片方が調整されると、その反対側も訓練されて、
自然と上手になっていくのでしょう。

だから受けとる、与える、
どっちをやっても同じことかなぁと思います。

もし【受けとる】ことの苦手意識にフォーカスしている場合は、
自分の器がこんな思いの水で満ちているのかもしれません。

"いつもわたしばっかりもらえない(与えてばかり)"
"きっとどうせもらえない(与えると損する)"

満杯だと、外部からの水を注ぐことは難しいですね。
まず、その器の中身を放出する許可を自分に【与える】こと。
それから「受け取りますよ」を、相手や自分に【与える】こと。

※もちろん渋々じゃなくて、ご機嫌で許可を与えること。

呼吸と同じで、基本はまず吐き出す(陽)こと。
吐き出しきれば、自然に息が入り込んでくる(陰)。

受け取れない(陰)という問題には、
与える(陽)で対応する。
陰+陽は調和。

そんな風に思うのです。

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与えることの苦手意識にフォーカスしている場合は、
相手の器が与えても与えてもいっぱいにならないのは
実際は与えたはずものがその器に入っていってないから。

…と感じるのです。


相手が受けとることを承認していないから、
受けとっていることに気づかない…
ぶっちゃけ受けとっていないのです。

これはいくら、わたしは与えますよと言っても、
相手が要りません。入りません。
と返してきたら、無理強いは出来ません。

だから、やっぱり相手をどうこうではなくて、
基本的には自分側の問題なんですよね。

たとえば、
自分が「与えすぎで、もらえない」と感じていたとしても、
実はそうではないのかもしれません。

もらえないのを我慢しているのはなぜでしょう?

大切だから。好きだから。
それももちろんあると思います。

でも、なーんにもくれないのなら、そんな相手を、
なぜ大切なんでしょう?好きなんでしょう?

その一方で、ふつう、何ももらえないのに、
与え続けることって出来るでしょうか?
どうしてそんなことが出来るのでしょうか?

我慢する。我慢しなきゃと思うそのメリットは?
それはやっぱり、自分でそれを許可しているからじゃないでしょうか。

我慢することで、
「わたしはこんなに与えているのに…」
という犠牲的な意識を手に入れている。
望んだものではないけれど、
そういう意識を在る意味手に入れて(受け取って)いるんですね。

ではもしも我慢しなくなったら?

「くれないなら、これ以上何も与えないよ。
だからわたしにも与えたのと同等のものを与えて。」

そうしたら、本当は心から愛を与えたいのに、
与えない自分が嫌いになるかもしれません。
大切な相手から幻滅されたり、嫌われたり、
失ってしまうかもしれません。

その喪失感が怖いから、
一番欲しいものを、
実は最初から手に入れないようにしているとしたらどうでしょう?

欲しいものをくれない相手に我慢して、与え続けることで、
本当に一番怖いこと(失うこと)を回避しているのかもしれません。

もっと深いところでは、
怖れから、心から望むとおりに行動できない自分。
その自分を責めないために、
相手に問題ある(責めてもいい)相手でいてもらいたいという
潜在意識レベルの願望があるのかもしれません。

だから与えてばかりで、
自分はもらえないという状況を許可しているのではないでしょうか。

【与える】ことへの苦手意識に関しても、
相手というよりは、
自分の本当の望みや罪悪感に目を向けると、

自分が何を許可していて、
何を許可していないか、
どういうモチベーションで行動しているかなど、

それに沿って起こる現実を角度を変えて観察してみるのも、
またひとつ、何がしかの足がかりを作るのかもしれません。

宇宙も天使も自分も同じ。
許可があってはじめてサポートが動き始めるのかな、と思います。

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ぱよこ@KEYMASTER with love&lightx∞

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