ロシア白軍のスパイだった張作霖を救い、支配下に置こうとしたのは児玉源太郎だが、その時実際に張作霖を生かしたのは児玉源太郎の部下である、田中義一(後の総理大臣)である。児玉源太郎は川上操六と同じく、成城学校の校長をしていた。この成城学校に通っていたのが松井石根、蒋介石、陳独秀、何応欽である。魯迅も入校予定だった。

 東三省は児玉源太郎の時代から、ロシアの南下を防ぐためという目的と、鉄道を拡張し、ホテルや住宅地を作り、経済的な日本と中国の連携を作り出し、欧米の植民地化に対抗しようと言う意図があった。

 児玉源太郎は1906年には亡くなっている。その後フランスから帰国し清国に1907年に駐官したのが松井石根である。

 
 児玉源太郎の部下は田中義一であり、田中と松井というのはその後、蒋介石も絡み、密接な関係となる。

 このような中で張作霖は、児玉源太郎から助けてもらった恩義も薄らぎ、アメリカや欧米側に近づくということになり、東三省を独自に支配しだしたのだろう。

これを倒そうとしていたのが蒋介石である。北伐といい、アメリカ側になびこうとする張作霖を敵とみなしていたのである。

というのも、蒋介石は孫文とともに大東亜共栄圏という欧米列強の植民地からのアジアの独立を目指していたからである。当時は白人優位思想が欧米・ドイツなどで叫ばれていたからだ。

当時の日本を侵略だと言う人がいるが、単純な意味の侵略ではないだろう。ここにはおそらくもっと深い思想がある。川上操六は「日本軍の存在理由は東洋の平和確保にあり、ロシアは必ず侵攻して来る。日本と中国(支那)の良好な提携が重要ある」としていた。

そしてこの時代の思想背景として荒尾精の存在も見逃せない。


川上操六から資金援助も受けていた荒尾精は、日中の貿易を中心とした経済連携による大国化を目指していた。

西郷南州(隆盛)遺訓も影響されいたが、特に注目すべきは夏三代への関心である。

すなわち、私が見るには、夏(か)は日本人の祖先だと見ている。夏(か)が百越、越となり、日本に渡って弥生人になったと。

すなわち夏(か)の王である禹が日本人の元の王だということだろう。象形文字、つまり漢字を最初に作ったのは夏の人であるので、日本人である。そういうことではないか。

当時は夏は伝説の国であったが、最近は二里頭遺跡から発見され、放射能炭素年代測定などで明らかになりつつある。

つまり日本人(夏の人)こそが中国人の祖先であるという考えだろう。中国と日本は一体であったというわけだ。

夏の王こそ日本の天皇につながっているという考えだろう。

こういう思想であるから、一面では侵略と捉えられるのだろう。

しかし科学的にも現代では夏(か)のあり様が解析されつつあるのだ。そして日中は結局経済的にはかなり連携してしまっている。

重要なのは漢字を作ったのが夏(か)の人だということだ。夏の人はどこからきたか、シュメール人の末裔なのかはわからないが、いずれにせよ我々の祖先はアフリカなのだから、中東を通って来ているのは確かだろう。


こういった思想背景に影響され、中国と友好関係を築こうとしていたのが松井石根なのである。

本質は「夏(か)」のコンフリクトでもあるのだ。それは今でも地面の下で蠢いているのだ。

荒井精のもうひとつの注目すべきことは、日清戦争の大義(清国から中国人を解放する)は賛成するものの、領土拡張や賠償金請求に反対し、批判していたことである。つまり、そのような請求が中国人に深い疑いと恨みを残すだろうと。

これではさらに壮大な「夏」の思想を実現できないというわけだろう。

これには児玉源太郎とのコンフリクトもあるのかもしれない。台湾総督であった児玉源太郎は「夏」の思想までは拡張していなかったのかもしれない。

しかし松井石根は荒井精の思想に共鳴していたわけだから、児玉源太郎ももちろん田中義一と関係する成城学校の先輩後輩の関係だが、川上操六筋の荒井精も信奉していたのだろう。

しかしこういった平和的な「夏」の考え方は、張作霖を関東軍が勝手に爆殺したことにより頓挫しだしたのである。ここに日本の頓挫があると松井や田中義一は考えたのであろう。

根源的には荒井が主張していた日清戦争により賠償金を請求したこと、領土拡張をしたことに対する批判を松井石根も継承していた可能性すらある。そして「真心」と言う西郷南州の思想をもっても、利得的な行為に対する批判は持っていたかもしれない。

共栄とは「夏」として日中がひとつになることであったからであろう。

それは中国人が我々を「夏」の末裔だと平和的に認識してくれることが大前提にあるからだ。

こうしたものとは裏腹に、日清戦争はパルチザンの抗日を激化する結果となり、蒋介石も離れていったわけだ。そして成城学校の陳独秀(中国共産党創始者)も当然成城学校の学友である蒋介石とつながり、国共合作を行った。ただし、ボリシェビキにも反抗した陳独秀は、日和見主義者と批判され、隠居してしまったし、魯迅も中国批判をやめなかったが。

「夏」の平和的思想は、炭素放射能分析によって今、明らかにされつつある。

東京外国語大学の岡田英弘教授によれば「夏及びその後継と言われる河南省の禹県や杞県にあったとされる杞国などを参照しながら、「夷」と呼ばれた夏人が長江や淮河流域の東南アジア系の原住民であった事や、禹の墓があると伝承される会稽山が越人の聖地でもあり、福建省、広東省、広西省からベトナム北部に掛けて活動していた越人が夏人の末裔を自称している事、また周顕王36年(前333年、楚威王7年)越国が楚に滅ぼされ越人が四散した後秦始皇帝28年(前219年)に琅邪(ろうや)を出発したといわれる徐福の伝承などを示した上で、後燕人が朝鮮半島に進出する前にこれら越人が日本列島に到着したのだろうと推定する」となっている。参考
夏王朝について