さいみんじゅつは、あんじがかかる。


てれびも、つよいあんじがかかる。


じっさいに、みたわけではない。

だがそんざいすると、かくしんする。

あんじが、かかる。


じぶんのせかいに、ぶっしつとして、そうぞうされるくらい。


じっさいにみたしゅんかん、そんざいが、かくていする。


「たじげんてき」にそんざいするそんざい、がいる。

かみさまだ。


だがにんげんも、まけてはいないとおもう。


てれびをみることをおもえば、たじげんてきにみているともいえる。


「ばしょがちがう」からだ。


ぶいあーるてれびで360どのしかいとなると、たじげんてきにそんざいしていると、おもってしまう。


まるでそこにいるかのようなかんかく。

ちょくせつみたわけではないのに、そのせかいがそんざいしている、とあんじがかかる。


みらいでひとは、たじげんてきなそんざいになるとされる。


せかいをわたりあるくのだ。


えすえぬえす、があるじだいだ。

それが、ばーちゃる、とむすびつくのだろう。

ちかいのが、ぶいあーるだ。


ぶいあーる、をつかって、せかいとこうりゅうする。


じっさいにあったことはない人なのに、そんざいをかくしんする。

あんじがかかる。


かせいにいくけいかくもあるが、じつはここはかせいです、というとあんじがかかる。


ことばが、すでにあんじだった。


さいみんじゅつのきょうかばんは、そんざいする。


せんそうがおこってないにゅーす、せかいがてをとりあってわらいあっているにゅーす。


これらをふぇいくにゅーすでもいいので、つくるとあんじがかかる。


しゅうだんてきむいしきに、はたらきかけられる。


しゅうだんいしき、それらが、ひきよせのほうそくとなって、せかいがへいわになっていく。


とらんぷさんは、わるくない。

ぷーちんさんは、わるくない。

ぜれんすきーさんもわるくない。


とうぜん、

しゅうきんぺいさんも、きむじょんうさんもわるくない。


いらんの、はめねいさんもわるくない。


みんながらわらうせかい、いじめのないせかい。


それらがみらいであることをいのる。


きらわれものをつくって、みんなでいちがんとなっていじめるのは、よくないとおもう。