怪力王・若木竹丸 | 荒野を乱れて歩け

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そしてロックンロール!!

明治44(1911)東京の本郷に生まれる。裕福な家庭育ちの虚弱体質な少年だった若木は中学2年の時に不良に絡まれたのをきっかけに「強くならねば!」と、腕立てや懸垂などのトレーニングを開始。
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17歳の時に古本屋でウェートトレーニングの先駆者、ユ-ジン・サンド-の「体力養成法」という本に巡り合う。

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(ボディビルの先駆者の一人と言われるユ-ジン・サンド-)

サンド-の肉体美に興奮した若木は「あなた以上になってみせる!」と誓い一日12~15時間の非科学的な猛トレーニングを開始。ほとんど休憩無しで時には失神するまで鍛え、毎日サンド-の本を抱いて寝ていたとか。若木が日本のボディビル先駆者にして、格闘技を含めスポーツの筋トレの先駆者として高い評価を得ているのは163cmで70kgにも満たない小柄な体ながら鍛え上げられた肉体美以上に人間離れした怪力ではなかろうか。
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(神の創造物の中で一番強い存在になってやろうと思って努力した by若木)

それは前途したようにトレーニングの原点が強くなるという点にあるからに他ならない。また注目すべきなのが、若木自身が考えた独創的トレーニング方法である。椅子や自転車のチュ-ブを使った方法やトレーニング器具なども自ら考えて作り出している。そんな若木でも疲れて気持ちが折れそうになると「おい!今世界中のどこかで、お前と同じような奴がお前と同じようなトレーニングしているかもしれない。それでもいいのか!」と己れに喝を入れ、奮い立ちまたトレーニングに戻ったという。また夜寝ている時も胸の上にちょうどシャフトがあたる位のバ-ベルを置き、トイレに行きたくなったらバ-ベルを数回上げてトイレに行き、帰りはその辺の桟で懸垂をして、また床に入ったそうだ。
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(寝差しと呼ばれる独自のやり方で自家製バ-ベルにて212.3kgを記録)

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(指立て伏せで握力を鍛える若木竹丸)

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こうして猛トレーニングで力をつけた若木は学生相撲で関東一になるほどの実力をつけ、20歳になると興味のあったボクシングを習おうと思い、まず打たれ強くなる為に自身の顔をバンバン叩いて鍛え、さらには窓枠に手を乗せ足は枠と同じ高さの椅子に乗せて腕立ての姿勢から手を外して窓枠に体を落とす事から始めていき、少しづつ慣らした次はバーベルを持ち上げて、パッと手を離し胸に落とす鍛錬を開始。最終的には150kgまでいき、胸に落とすとシャフトがグニャッと曲がったとか。避けるとかブロックするという防御技術を磨く概念が一切ないのが素晴らすぎる若木はスイングパンチも一応鍛え、いざ、渡辺勇次郎のボクシング道場に入門。スパーリングで実力のある選手達を圧倒的な力の差で倒してしまう。次に柔道の講道館に出向き「四段を何人負かしたら五段になれますか?」と尋ね勝負を挑んだが有段者達は得体の知れない若木の勝負に応じなかった。昭和11年には全日本腕角力大会に出場し圧倒的な怪力で優勝する。
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(自作の「腕角力練習機」最初は37kgそこそこだったが10ヶ月後には130kgを楽々に引き上げられるようになった)

また武装した与太者に制裁を加え、殺害するも正当防衛で無罪になる。トレーニングを始めてから10年が経った昭和13年(1938)27歳の時に『怪力法並びに肉体改造体力増進法』通称『怪力法』を出版し当時の武道・スポーツ界に衝撃を与え大変な反響を呼んだ。柔道の木村政彦や大山倍達も教えを請うた。大山倍達の10円曲げは若木に教わったものである。黒崎健時も若木の強さを本物であると認めていた。
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(頼まれて怪力のデモンストレーションを洋玄社で行った時に頭山満と共に撮った写真)

晩年もマイク・タイソンと闘ってみたいと言っていたらしい若木も脳梗塞で倒れ、半身麻痺になるも「どんなに衰えても上腕を40cm以下にしたくない」とトレーニングを続けたという。平成12年88歳で亡くなった時は、あまりにも骨格が立派だったため棺桶に収まらなかったそうだ。