最強最後の 大山倍達 ・その2 | 荒野を乱れて歩け

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大山倍達(以下、総裁) 本名 崔永宣(チェ・ヨンイ) 朝鮮で生まれ育つ。
農場を経営し村長で親日家だった父の影響でいろんな書物を読み、父のように偉い人物になりたいと軍人を志す。また総裁によると九歳の時に出稼ぎで働きに来ていた農夫の李想志に朝鮮の古武道、借力を習ったそうだ。

1939年に日本に密航。その前から石原莞爾が主催する東亜連盟幹部で剛柔流空手の曹寧柱と知り合っていたらしく、空手だけでなく思想の面でも大きく影響を受ける。
東亜連盟には木村政彦やその師・牛島辰熊も入っていた。


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1940年昭和15年に民間の山梨航空整備学校(現・日本航空学園)に入学。「最強最後の大山倍達読本」によると、その時に下宿していたのが国際商会というお店。
国際商会はのちの極真空手千葉支部長の故・小嶋幸男師範の叔母のお店になる。昭和17年の夏ごろ、お店の前の食堂で順番待ちをしているときに、空腹で倒れていたのを近所の学生が助け、それが縁で国際商会に8ヶ月ほど居候する事になる。


この頃は大山虎雄と名乗っていた。学校に通うかたわらお店を手伝い、当時難関だった陸軍士官学校の受験勉強をし、朝は早く起きて走り、庭でグローブつけてボクシングの練習をしたり、喧嘩の助っ人に明け暮れる毎日だったらしい。
ちなみに助っ人のお礼はお菓子だったそうです。


また旅館の娘の久子さんに恋をして、毎日、口笛を吹きながら旅館の前まで行きラブレターを渡すもフラれ、それにも懲りず今度は食堂屋の娘の花江ちゃんにアタックするもまたフラれ(笑)


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こうしてフーテンの寅さんのように山梨から旅立つ日がやってきます。
昭和17年に整備学校を卒業し、翌年の春に陸軍士官学校を受験するも失敗。軍人になる夢は挫折するも尊敬する柔道家の木村政彦と同じ拓殖大学に1941年の春に入学(これについては入学していないとゆう説あり)上京する事に。拓大では司政科に在籍し政治家を志す。


空手では松濤館流の船越義珍に師事。一年半で初段を獲得。
剛柔流では山口剛玄や曹寧柱に習う。型をあまりやらず、実戦を重視し巻藁やボディービル、組手の鍛練ばかりをして苦言を受けるほどだったが、「型は下手だが、力が強く組手や実戦は強かった」と言われていた。
また石原莞爾主催の東亜連盟に参加し活動するも同年末に始まった戦争により徴用工として、あちこちの基地を回る。特攻隊とゆうのは梶原一騎の創作だったようです。

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戦後は在日朝鮮建国促進青年同盟(建青)に入り共産系の在日日本朝鮮連盟(朝連)との血で血を洗う戦いに明け暮れ、朝連からは空手の大山と恐れられ有名だったそうだ。
この時の総裁の部下にロッテの創始者、重光武雄(辛格浩)がいた。
また同じ東亜連盟で東声会の町井久之(鄭建永)のボディーガードをしたり、大阪で大勢の敵に囲まれた際は近くにあったドラム缶を左の正拳で叩き穴を開けて相手の度肝を抜き、機先を制して勝つ。
それを見たのちの殺しの軍団・柳川組組長の柳川次郎(梁元錫)が「凄い男だ!」と感心し、総裁と五分の兄弟分になる。

また当時、渋谷の愚連隊・安藤組幹部だった森田雅は、総裁に握手しようと言われたが、凄い殺気を感じ拒んだそうだ。
安藤組で力道山と対峙しビビらせたのは花形敬となっているが、実際は森田雅であり、鹿島神流の剣の達人で、数々の修羅場をくぐり、素手の喧嘩も物凄く強かったそうだ。
そんな男が殺気を感じ握手するのを拒んだのだから総裁がいかに凄かったかわかると思う。


そんな総裁も思想運動から武道一筋に生きて行くことを決意して動き出す。


総裁は空手だけにとどまらず、柔道を曽根幸蔵に、大東流合気柔術、ステッキ術を吉田幸太郎に、ウエイトトレーニングは若木竹丸に、ボクシングはピストン堀口から習う。ボクシングはアマの試合にも出たそうだ。また、台湾で太極拳と交流したり、タイにムエタイを体験しに行ったりと、貪欲に強さを求めた姿勢は本当に凄いと思う。


牛を倒すために、いろんな練習をし、何度も屠殺場に通い、牛の弱点や行動、どこを叩くと効くか、どうやったら角を折れるかなどを牛屋の親父と話したりして研究していたそうだ。
また、師である曹寧柱が日蓮宗に属しており、その関係もあってか、日蓮上人修行の地である清澄山で山籠りや合宿も頻繁におこなっていた。


では、アメリカに渡り実際にプロレスラーやボクサーと戦ったのか?この辺の所は小島一志 著の「大山倍達正伝」をぜひ読んで頂きたい(笑)
一緒にアメリカに行った遠藤幸吉によると、「グレート東郷なんて、なんか言ってきたら、一発喰らわしてやりゃいいんじゃねえか!」「何かあったら一発かますから心配するな!」とアメリカでも大山節全開で弱音など一切吐かず、常に強気で、何でも「あ、やりましょう!」だったそうだ(かっこいい)


遠藤幸吉は総裁の死後のインタビューで、アメリカでの試合は観たことも聞いたこともないと語っていたが、大山君の空手というものに対しては、相当強いもんだなあ、と感じていたと語っていた。


不出世の天才柔道家の木村政彦も総裁の実力を認めていた。
増田俊也 著「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」の本によると、木村に付いて回っていた地方興行で元相撲取りと柔道の全日本クラスの二人をあっさりKOして病院送りにしたそうだ。
また意外だったのが、木村政彦が力道山に八百長破りで負けて、総裁が怒ってリングに上がろうとしたエピソードなどは、以外にも漫画で描かれているのとほぼ同じだったそうだ。
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つづく




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