形なき愛は、実に身近にありながら、形のないが故に気づくことはない。
それと思ったときには霧散雲消し、満たされないまま心の中にわだかまりを残す。
さて、前回に引き続いて、人と人を結ぶ心についての考察です。
分かったつもりでありながら、最も疑わしいもの…それは他ならぬ自分自身ではないでしょうか。
鏡越しで自己の存在を確認し、安堵の息を漏らす。
私たちは、コミュニティーの枠の中で社会生活を営む以上、否応なしに人間関係を迫られます。
日々の葛藤から生み出されるストレスは、やがて各人に自らを振り返る契機をもたらします。
私とは何者? 私の存在価値って?
しかし、その先に答えは見つかりません。見つかりっこないんです。
なぜならば、人は自分で自分を見ることができないからです。
どうして形のある自分の顔さえ見れないのに、心を捉えることができましょう?
このようにして、私たちは、自分という存在を認めてもらいたい欲求を満たそうと、他者へ働きかけ、救いをもとめます。
そしてお互いに価値を共有する。お互いを確認し合う。慰め合う。
実はこの他者との相互往復によって、図らずも日本人特有の排他的コミュニティーが形成されているのです。
群れる習性は閉塞的性質を堅固にしつつ、すっかりその世界に安住しきってしまう…
陸つづきでない島国精神の根強さは、多様な文化の接触を拒み、またしても孤立の道を歩むことになってしまうでしょう。
私たちの「生きる」とは何か?
以上のことえを踏まえ、次回は飛躍する心についてお話ししようと思います。