ゾフィー・ショルの伝記、その第8章 | いいかげんにっき

ゾフィー・ショルの伝記、その第8章

Maren Gottschalk, SCHLUSS. Jetzt werde ich etwas tun. Die Lebensgeschichte der Sophie Scho以外ll. Gulliver in der Verlagsgruppe Beltz – Weinheim Basel, 2021

 エピローグとプロローグに14の章で構成されたゾフィー・ショルの伝記の、第8章を翻訳しました。ようやく全体の半分を若干超えました。なかなか進みません。しかも粗訳です。

1940年(8月)から1941年(3月)までを扱ったこの第8章では、侵略戦争を開始したナチスドイツがイギリスに空からの攻撃を始めたけれども、イギリス空軍の執拗な抵抗に遭遇する時期である。しかしナチスドイツは西部戦線でも、東部戦線でも優勢で、ヨーロッパ大陸の多くの地域を支配していた。

ゾフィー・ショルの恋人であるフリッツ・ハルトナーゲルとの関係はこの章においてもぎくしゃくしている(が、2人が別れることはない)。ぎくしゃくするのは当然で、フリッツ・ハルトナーゲルは軍人として西部戦線に従軍し、占領地域であるフランスのカレーやオランダのアムステルダムに駐留していた。後に反ヒトラー運動に参加するような思想性を発展させつつあったゾフィーにとって、ナチスの侵略戦争に結果として加担していたフリッツをなかなか理解できなかったのかもしれない。

とはいえ、この章で描かれる2人の交流(主に書簡によって読み取られているのだが)からは戦争の悲惨さはあまり伝わらない(アムステルダムで起こったプライベートな事件と社会的な事件はあるものの)。むしろ小さな範囲での日常生活は以前とは変化していないように思える。

この章にはゾフィーたちに影響を与える人物としてオトル・アイヒャーが登場する。ネットでかれの経歴を調べると、ドラマチックな人生を歩んだ実に有能で、そして誠実な人であることが分かった。同じくフリッツ・ハルトナーゲルについても、オトルとは異質ではあるものの、人間として好感の持てる誠実な人物であることが分かる。(なお集合写真には、この章でしばしば登場するゾフィー・ショル(左上)、スザンネ・ヒルツェル(下の右端)がみえます)

 

 

以下、翻訳です。

 

 厳しい知性と優しい心... 1940年8月 – 1941年3月

 1940年8月にゾフィー・ショルはかの女の最初の実習を、シュヴァルツヴァルトにおける保養地であるデュアハイム温泉の子ども用サナトリウムで始めた。同じ時期に、かの女の友人であるフリッツ・ハルトナーゲルは、かの女にかなり長い手紙で、なぜかれが兵士になったのかを詳しく説明しようと苦闘していた。すなわち、かれは、ゾフィーが「兵士の考えそれ自体」でなく、「そのいわゆる代表的なもの」をみることを恐れた。【注1:Sophie Scholl, Fritz Hartnagel, Damit wir uns nicht verlieren. Briefwechsel 1937-1943. Frankfurt: Fischer Taschenbuch Verlag 2008, S.199】兵士は理想的には、自意識を持ち、謙虚で、公正で、忠実で、敬虔で、誠実で、口が堅く、そして何ものにも左右されない、とハルトナーゲルは挙げている。かれはもちろん、要請と現実の間に亀裂があることを知っているが、しかしかれは次のように付け加えているのはほとんど強情と言えよう。すなわち、兵士をそのような価値に則って育成することに成功するならば、かれはかれの軍人という職業のなかに「最も素晴らしい使命の一つ」をみている。【注2:ebenda】

 そのような言葉で、かれはゾフィー・ショルによる鋭い拒絶に出くわす。すなわち返事の手紙のなかで、ゾフィーはフリッツ・ハルトナーゲルの言い分をこきおろす。「わたしがあなたを知る限りでは、あなたもまた戦争にそれほど賛成していません。しかしあなたはこの間ずっと、人々を戦争のために育てること以外の何もしていません。とはいえ、あなたは、人々に誠実な、謙虚な、公正な態度を教えることが国防軍の課題であるとは思うことはないでしょう」。【注3:ebenda, S.205】

 数週間後かの女は、公正さはある民族への所属性よりもより高く評価されるべきであると強調する。したがって葛藤のなかでは正義である人々の側に立たねばならない。しかしそのことは兵士にはまさに許されない。しかしそれによってゾフィー・ショルにとってテーマがまだ汲み尽くされているわけではない。かの女は「民族の連帯」というようなスローガンによる人々への情動的誘惑を分析する。ゾフィー曰く、兵士たちの眺めは音楽を伴う場合、人々を容易に涙に誘うということは、今やちょっと事実である。かの女自身にとってもずっと以前はそうであったとゾフィーは書き、そしてそれによって幼い少女であった時代をほのめかす。今では、かの女はそのような感情からドラスティックに距離をとっている。「しかしそれは昔の女性にとっての感傷なのです。そのような感傷に支配されているとき、それは滑稽です」。【注4:ebenda, S.220】それはかの女の気分における新しい、妥協なき状態である。

 フリッツ・ハルトナーゲルがまだその手紙を受け取っていない時点で、かれはゾフィーに、2人の関係を明確にしたいと告白している。2年間、かれは確信が持てずに苦悩している。なるほどゾフィーはかれにそもそもすべてを話してくれるが、しかしかれがウルムにおいてかの女と一緒に過ごした時間について考え、そして庭のフェンスのところでは最後の別れについて考えると、かれにはすべてが再び不確かになる。フリッツはここではきっと1940年5月9日のことを考えている。すなわちかれが自身の唯一の休日を、ウルムにいるゾフィーの誕生日を祝うために利用したときのことを考えている。

 かれをとりわけ不安にするのは、女友だちであるゾフィーとの出会いであり、ひょっとしてその場合、2人は2人の「友情」の限界を維持することや、キスやその他の愛撫をやめることに成功しない。しかし感情の冷温交互浴はかれを疲れさせると、フリッツは嘆いている。かれがその後、かれの兵士の在り方についての理念への厳しい批判を受け取るとき、かれはしかしそこにいかなる決心も認識しようとしない。そのような意見の相違は2人の関係にとって決定的ではないのであろう。「ぼくは、その人間自身を受けいれないといけないと思っているよ」【注5:ebenda, S.210】

 しかしまさしくそのようなことをゾフィーはできないのだ。かの女は2人の間の亀裂をかれよりももっと感じており、そして自分に責任があると感じている。というのはかの女はかれの期待を裏切り、そしてかれを「しばしば暗く」【注6:ebenda, S.215】させたからである。しかしかの女は、可能な限り率直であることを自らに強いる。「わたしは、あなたがわたしに会うのを楽しみにしているということを喜んでいます。しかし、それによってあなたが私を自分のものにできるからではありません」【注7: ebenda, S.215】

 フリッツ・ハルトナーゲルはその間にあらためて1通の手紙を書く。その手紙はかれにはひじょうに辛いものだった。アムステルダムにおいて、かれは若いユーゴスラビア女性とスキャンダルを起こしていた。かれはそのことをゾフィー・ショルに懴悔し、そして恥じる。というのは、かれはかの女に冬の2人でのスキー休暇の後まだ、2人の間で起こったことの後では、他の少女のところにいるのは卑劣であると言っていたからである。かれを特に悲しませるのは、とフリッツ・ハルトナーゲルは書いているが、そのスキャンダルが起こったという事実ではなく、そういうことがあってもゾフィーから離れないという認識であると手紙に書く。さらに、かれのかの女を求める気持ちは以前より大きくなっているとも。「そうすると再び、ぼくが自身を無意味にきみに縛りつけられており、ぼくはすでにずっと以前から袋小路に陥っているという考えが頭に浮かぶのだよ」【注8:ebenda, S.217】

 ゾフィー・ショルは冷静に反応し、そしてフリッツに、2人の関係を引き合いに出して、かれにもまさに責任があるユーゴスラビア人女性を忘れることがないように助言した。それどころか、ゾフィーは自己批判的に認めている。「わたしは自分自身について、他人に対してあまりにも簡単に責任を取ってしまうということに、ますます気づくようになっています」。【注9:ebenda, S.223】

 フリッツ・ハルトナーゲルは1940年秋には、その時期かれはひじょうに絶望してゾフィーについて苦闘していたときだが、なおカレー近くのヴィサントに駐留している。夏以降、ドイツ空軍は、イギリスを戦闘爆撃機の大量投入によって降伏へと強い、その後にその国を占領できるようにしようとする。有名な「イングランドをめぐる空の戦い」において、最初の状況はドイツにとって有利であったとはいえ、イギリスの新首相ウインストン・チャーチルは決意を固めて、ドイツとはいかなる和平交渉もしないと表明する。そのかわりに、かれはヒトラーに対する無条件の戦いを呼びかける。

 ドイツ空軍の最高司令官であるヘルマン・ゲーリンク元帥はイギリス空軍(RAFと略記される)の強さを過小評価している。英空軍の強さが分かったとき、ゲーリンクはイギリスの諸都市を空爆するように命じる。一般市民の士気をくじくために。その後、永続的な夜間空襲警報とドイツのU-ボートの攻撃への恐怖は、実際にも気力を弱らせる。ロンドン、コベントリーおよびその他のイギリスの諸都市への空襲によるだけで、3万2千人以上の市民が亡くなる。

 とはいえドイツはイギリスを打ち負かすことはできない。ドイツ空軍の敗北は戦略爆撃の欠落、誤った戦術、不十分な秘密維持活動および優れた英国の防衛システムによって説明される。しかしゲーリンクはドイツの爆撃機飛行士に責任を押し付け、そしてかれらを意気地なしと決めつける。

 ヒトラーはそうなるとイギリスに対抗する新たな同盟パートナーを求める。1940年9月27日に、ヒトラーはイタリアおよび日本と三国同盟を締結する。その同盟には後に、ハンガリー、ルーマニア、スロバキア共和国およびブルガリアが加わる。

 10月初めに、フリッツ・ハルトナーゲルは数日間、ウルムにやってくる。ゾフィーは確かにフリッツに、最終的にもう一度会うことが二人にとってどれほど重要であることかと書いていたが、しかし今、かの女はむしろレオンベルクのリザ・レムピスのところで休暇を過ごしたいのだ。かの女はフリッツとの関係を終わらせることを固く決心していた。かの女はリザに次のように書く。「それは困難で、そして残酷です。だけど嘘をつくよりましです」【注10:Sophie Scholl, Brief an Lisa Rempiss vom 1. 10. 1940, IfZ.: ED 474 Band 70】

 しかしリナ・ショルはすぐに、兄のハンスとフリッツ・ハルトナーゲルが休暇でウルムにやって来るちょうどそのときに、家から離れることを禁じる。しかしそのことは決して再会にとって良き兆候ではない。そして同時に、どれほど18歳のゾフィー・ショルが母親の命令に従わねばならないのかを照らし出している。かの女はなるほど母親の立場は理解しているが、しかし予定をキャンセルしなければならないのはとても苦しいと、リザに書いている。「ほんとうに楽しみでした。しかし今は、自分の意志を貫くのは簡単ではありません。ことにわたしはその際、いくつかの自分の気持ちを無視しなければならなくなるのです。その上に、わたしの冷たさについての母ときょうだいたちの驚きが加わります」【注11:Sophie Scholl, Brief an Lisa Rempiss vom 8. 10. 1940, IfZ.: ED 474 Band 70】

 休暇の後に交換された手紙から読み取ることができるように、ウルムの日々は、すべてがリラックスとは異なるものであった。リザは、かの女もウルムにやって来たのだが、自身の意見を明確に発している。「ところで、あなたはフリッツにたいしてとんでもなく愚かでしたね。―もしわたしがフリッツだったなら―わたしはあなたを抱き上げて、そして木に投げつけるか、山の向こうに投げつけるでしょう」。なるほどフリッツ自身にも-本来かれは善良で、そして優しいのだが-そのことに責任はある、とリザは述べるが、しかしゾフィーがそのようにふるまうとき、わたしはそれを眺めるのはうれしくないとも続ける。「もしわたしが、バルザックのような偉大な心理学者なら、いつか少女たちについての本を書くでしょう。いかにかの女たちが狡猾であるかを」【注12:Sophie Scholl, Brief an Lisa Rempiss vom 30. 10. 1940, IfZ.: ED 474 Band 70】女友だちであるリザはそのような批判をあえてしているのであろうが、しかしゾフィーはそのことに言及しない。フリッツにかの女は、それらの日々にかの女は一人でいられる時間がなかったと、そしてフリッツもまたきっと損をしているのだろうと書いている。

 フリッツはたった数行の手紙を送る。かれは、自身のなかの虚しさを克服するには時間を必要としていること、かれは、かれ自身の心配によりかの女に負担をかけないように決心していることを。「おそらくきみは、ぼくのことを理解できるだろう。ぼくにとって永く最大の幸せであったことを抑圧するのは、まったく痛みなしに行われるわけがないことを」【注13:Damit wir uns nicht verlieren.a.a.O., S.227】

 フリッツからの次の手紙がウルムに届くまで、しばらくかかる。ゾフィーは気づかいながら、フリッツからの便りを待っていると書く。かれの嘆き悲しみを予防するために、かの女はかれに、以前のかれの手紙から引用することで、次のことを証明する努力をする。すなわち、かれはきっとずっと以前から、2人は新しい関係を結んでいることを理解し、かつ受け入れていることを。その新しい関係においては、赤い糸はもはや2人の間に繋がっておらず、かえって「わたしたちとより高次の何かの間に」【注14:ebenda, S.228】繋がっているとゾフィーは書いている。そのような定式化を、かの女はアウグスティヌスにおいて見つけた。アウグスティヌスの本『告白』をかの女に薦めたのは、オトル・アイヒャーである。

 神学者で、哲学者であるアウグスティヌスは紀元後4世紀に、回心の前と後のかれの人生について報告した。33歳で、かれは自身の結婚やセクシャリティーへの欲求から縁を切ると語った。人間にたいするすべての愛は、そのようにアウグスティヌスは述べるのだが、神を経由する道をとらねばならない。ゾフィー・ショルはその思想がフリッツ・ハルトナーゲルをもまた魅了することを欲するが、しかしかれの返事からは、かれがそこからいかなる慰めも得ることができていないことが明らかである。かれはかの女にすべての愛を捧げることは許されてない、そのようにかれはすでに休暇以前に分かっていた、とかれは書き、さらに続けている。かれはさらに温かい家庭のごときかの女の友情も失うだろうと。そしてかれは、ゾフィーの心はかれとは別のところにあるとはっきりと感じ、そして今かれはようするにただただ途方に暮れていると述べる。

 ゾフィーはただ慎重にそのことに言及し、そしてかれに、何も抱え込みすぎないように助言する。その次の手紙では、かの女はフリッツに、かの女の母親のために靴を買ってくれるように願う。そのお願いについて、かの女は恥ずかしく思い、そしてそのことをまったく率直に語ってもいる。

 フリッツ・ハルトナーゲルの気分はひじょうに落ち込んでいる、とかれは1940年11月18日に書いている。かれは自分が悪で、小さくて、愛されておらず、価値が低く、愚かで、故郷を持たない客人のように感じているとも述べる。しかしかれは、施しは欲しないとも言う。そのような嘆きにゾフィーはほとんど理解を示さず、かの女はかれにせっかちに答える。故郷はやはり自分自身のなかに見つけなければならず、そしてそもそもフリッツは不朽の事柄を移ろいやすいものにおいて探すべきではないと。ゾフィーは再び、どこに行けばいいのかを正しく知っている助言者の役割に変わっている。かの女は責任を感じている。というのはかの女は、自身がかれの悲しみに責任があることを知っているからである。改めて、かの女はかれに、「現実にはありえない」【注15:ebenda, S.238】思考世界を構築するかわりに、かの女から自立するように急き立てる。

 しかしフリッツはゾフィーからの自立をまったく欲しない。それに反してかの女は明らかにいかなる人も必要としていないとフリッツは苦々しく確認し、そしてかれは次のゾフィーやそのきょうだいたちと一緒のスキー休暇への参加をキャンセルする。かれはもはやかの女に近づく術がわからず、かれにとって何より身体の温もりが重要なのではなく、かれはゾフィーと精神的に結びついていると感じていると述べる。かの女はかれに、かれが明らかにかの女を理解するつもりはないと答える。そしてゾフィーは問う。「あなたは、性は精神によって克服されうると思わないのですか?」【注18:ebenda, S.246】それにたいして、フリッツはかろうじて次のように返事する。「きみが目指すのは、修道士あるいは隠者の生活のように思える」。かれはもう一度、かれへのかの女の気持ちを説明するように願う。

 1941年1月6日に、ゾフィーはそれにたいしてもう一度説明するが、今回のかの女の拒絶は明確性において申し分ないものである。すなわち、かの女はかの女のすべての愛をただ一人の人間に捧げることができないし、さらにかれが求めるような愛あるいは好意はそもそも彼女には存在しないと。「わたしは、人々は別の仕方でも愛せると思っています。それを、わたしは求めたいのです」【注17:ebenda, S.251】

 ゾフィー・ショルの考えはオトル・アイヒャーがかの女に薦めた文献を反映している。それは、アウグスティヌスと並んで、“Renouveau Catholique”、すなわちフランスで始まったカトリック刷新運動の著者たちである。主要代表者はジョルジュ・ベルナノス(Georges Bernanos、1888-1948)であり、かれの本『田舎牧師の日記』はオトル・アイヒャー、インゲ、ハンス、ヴェルナーおよびゾフィー・ショルの一緒のスキー休暇での最重要の対話テーマである。夕べに、5人は交替でその本を声に出して読み、そしてフィクションの物語作家の疑念と希望について話し合う。その作家は牧師として、悪がますます広がるゆえに、没落に向かっていく世界について考えを示している。

 別のカトリックの著者、ジャック・マリタン(Jacques Maritain、1882-1973)においては、オトル・アイヒャーがある命題を発見している。それをアイヒャーは友人グループのなかでスローガンとして提唱する。すなわち、「厳しい知性と柔らかい、暖かい心を持たねばならない」という命題である。まさしくそれをゾフィー・ショルはフリッツ・ハルトナーゲルへの手紙のなかで実施しようとする。つまり事実においてはきわめて厳しく、しかし友人としては配慮と愛情に満ちていることを示すのである。かの女を愛する男性が、

そのかの女が矛盾していると体感するのも不思議ではない。かれからの手紙はますます稀になり、そしてその文面はますます短くなったとはいえ、ゾフィーはいちずに引き続きかれに手紙を書き、そのようにしてかれをかの女の日常生活に参加させる。すでに卒業試験は視野に入っているが、しかし幼稚園教員としての養成は、その間にかの女が知ったように、帝国勤労奉仕を免れる理由にはならない。クリスマス前に、かの女は「ナチス系組織に戻り」、そして1941年4月からRAD収容所に送られるだろうと予期する。

 その時期、ヴェルナー・ショルはアビツアー試験から排除されるということを覚悟せざるをえない。オトル・アイヒャーは、かれが一度もナチスの組織に加盟したことがないゆえに、アビツアー取得が無理なことが明らかになった後、ヴェルナー・ショルは抵抗心からヒトアーユーゲントから離脱する。どっちみち、かれはそこでは一度も心地よく感じたことがなかったのだが。かれは1940年11月に成人となり、そしてヒトラーユーゲントにおける奉仕義務から解放されたとはいえ、かれの学校はかれにも卒業を拒絶しようとする。しかし、同時に同じ学年の2人の生徒が政治的理由からアビツアーの取得を許されないとき、学校に悪い印象が持たれるゆえに、ショルにたいする措置は中止される。

 オトル・アイヒャーの両親は息子の一貫した態度について悩み、そして妥協を決心するようにかれに頼む。オトルの親友であるブルーノ・ヴュステンベルク(Bruno Wüstenberg 、 1912 – 1984)もまた批判的に発言する。興味深いのは、アイヒャーはショルきょうだいに与えている大きな影響力にブルーノが言及していることである。「というのはきょうだいたちは、まったく自分で考えず、その都度あなたが欲するように考えるあなたの被造物以外のなにものでもないからである」【注18:zitiert nach Barbara Beuys, Sophie Scholl, München: Carl hanser Verlag 2010, S.263】ゾフィー・ショルとかの女のきょうだいたちを、かの女たちは自分で考えないというと非難することはきっとできない。しかしオトル・アイヒャーがきょうだいたちのなかでグルの位置をしめているということは、正しい。かれの極端ともいえる揺るぎなさは、かれへの尊敬と驚きを生み出す。かれはそれどころか翌年、3本の指を自分で切断する。それによりナチス体制のための戦争に行くことができないように。アイヒャーの特別な関心は造形にあるので、かれは、将来の仕事のために必要でないであろう指を正確に選んでいる。

 アイヒャーの両親はロベルト・ショルに、オトルに働きかけるように依頼すると、ロベルト・ショルはアイヒャーの両親は息子を誇るべきであると意見を述べ、そしてオトルをかれの事務所で雇用すると申し出る。その申し出をアイヒャーは受け入れる。事務所で、その若者はほぼ毎日インゲ・ショルと出会い、すぐに2人は恋人となる。

 ゾフィー・ショルとフリッツ・ハルトナーゲルが、2人の関係の危機にもかかわらず、1941年2月に多くの夕べをウルムで過ごし、しかもさらに一緒に数日間、アルゴイにおいてスキーをして過ごすといことがどうして起こったのかは、もはや再現できない。しかし再会は2人の問題の多くを解決したように思える。一緒に休暇を過ごした後のゾフィーの最初の手紙は軽やかで、そして楽しい文面である。かの女はおそらくあまりにもかれの温かさに慣れており、とかの女は告白しているのだが、そして今ではかの女は、かれのものを好んで持っている。それゆえ、いつもそれを身に付けることができるのだ。たとえ目立たないものだとしても。しかし-かの女に典型的な仕方ですぐに落ち着くように自身に呼びかける-そのことはまさに別れた後の最初の激しい感情でしかない。さらに、かの女は、かの女がかれにおこなった不当なことすべてを許してほしいと願う。かれの休暇のときのも含めて。それによって、かの女はきっと先の秋の休暇のことを考えている。

 かれがそのときに駐留しているミュンスターからのフリッツ・ハルトナーゲルの最初の手紙も同じような調子である。かれはガールフレンドであるゾフィーに、かの女がかれに与えてくれたものすべてに感謝している。何よりも勇気と自信に。「ぼくには、ぼくが重い病気を乗り越えたかのように思える」【注19:Damit wir uns nicht verlieren.a.a.O., S.265】その同じ手紙のなかで、かれはまさしくアムステルダムにいるが、しかし秋にスキャンダルを起こしたルイーゼを訪問していないし、もっともルイーゼを訪問することはかれにとっておおいに消耗することであると書いているということは、ゾフィーとかれの間の尋常でない率直さを明らかにしている。かれは次のように付け加えているだけである。「悪く思わないでよ」【注20:ebenda】

 アムステルダムへのフリッツ・ハルトナーゲルの「司令部の旅」のきっかけは、ユダヤ人の拘禁に抵抗する路面電車運転士や商店街の人々のストライキである。前年のドイツ軍によるオランダ占領の後、ニュルンベルク「人種法」がそこでもまた導入された。SS(親衛隊)は今や武器を用いてストライキをしている人々を襲い、そしてその人々の多くをドイツの強制収容所に拉致する。400人のアムステルダムのユダヤ人が1941年2月にマオトハウゼン強制収容所に移送され、そしてそこで殺害される。

SSの投入が20人の命を奪ったことだけしか知らないゾフィー・ショルは、その出来事について、

異例のコメントをしている。「ところで、至るとこ

ろで、(アムステルダムにおけるように)過激な行動が起こるということを、わたしは善いことだとしか思わないです。それは、こちらで何か善いことを知り、そちらで何か悪いことを知り、そしてどちらがいったい真実なのか分からないときよりも、事態全体の認識をもつれさせません」【ebenda, S.274】それによってかの女は、ナチスの恐怖政治が、それが至ところで同じ暴力性で行動するとき、より容易に非人間的であると暴露されると言いたいのである。そこにはある確かな論理がある。にもかかわらず、その20歳の言葉は格別に冷静な感じを与える。

 そしてひょっとして、ゾフィー・ショルは遅くともその時点で、国防軍の兵士として占領した国々においてかの女のために買い物をするボーイフレンドからプレゼントを受け取るべきではなかったのだろう。しかしこの問題において、ゾフィーだけが首尾一貫していないわけではない。かの女の兄のハンスもまた、家族にフランスから紅茶、コーヒー、チョコレート。タバコ、ストッキングおよび石鹸の入った小包を持ってくる。しかしすでに考え方の変化が始まっている。戦後、インゲ・ショルが作成したタイプライターで書かれた年代史的報告のなかで、ハンスは次のように言ったとされている。「ぼくはもっともっとたくさん買えた。しかし買わなかった。その国を搾取する権利はどこから来たのだろう?」【注22:Hans Scholl, zitiert nach Inge Scholl, Chronologischer Bericht, IfZ: ED 474】

 1941年春、最初の英国の爆弾がケルンに落ちる。すぐにその地で、そしてラインラントのその他の都市で、子どもたちが疎開させられ、そして地方あるいはドイツの南部に送られる。ミュンスタープラッツにおけるショル家の住居においても、1人の「ラインラントの子ども」、つまりエッセン出身の8歳のヴィンフリートのためのベッドが設置される。ゾフィー・ショルは書いている。かの女は最初驚いたと。というのは期待されていた幼児でなく、学童がやってきたからである。しかし「かれがやってきて、取り乱し、泣いていたのですが、すぐに戦争への怒りの気持ちが、わたしのなかにわいてきました。もちろん、だからどうということもないのですが」【注23:Sophie Scholl in einem Briefentwurf vom 25.2.1941, IfZ.:ED 474, Bd.82】

 ゾフィー・ショルのフリッツ・ハルトナーゲルへの心の思いは依然として続いている。以前よりもよりしばしばかれのことを考える、とかの女は書いている。そしてそれはかの女にとって、かれがかの女を愛していることを、間違いなく意味すると、かの女は1941年2月末に書いている。それゆえ2人はまさに互いに縛られる必要はない。また、かの女はかれを新しい仕方で好きになる。ようするにかれが真に善人であり、そしてかれが1人の人間だからという理由で。それはなるほど実際的に、フリッツが心の奥底で熱望するものではないが、しかし2人の間に新しい親密さと誠実さが生じる。それらは両者によって柔らかい植物のように育成される。

 2人の関係におけるそのような新しい局面を喜びつつ、ゾフィーはリザ・レムピスに、かの女とフリッツは次の段階に達していると書く。現実主義者のリザはそれを「空虚なもの」と考え、そしてまたそれについて「いくらかからかっている」【注24:Lisa Remppis, Brief an Sophie Scholl vom 21.3.1941, IfZ:ED 474, Bd.78】ゾフィーはしかし自分の立場に固執する。「というのは、すべての感性官能的なものを、それは、おおざっぱに言えば、なんといってもわたしたちの間(そうじて男と女の間)にあるのですが、わたしはまさに完全に排除しているからです。少なくとも行動のなかでは。そしてわたしはそれを思考と感情のなかでも試みています。わたしはきっとうまくいくでしょう。その他のすべては純粋に意志の問題です」【注25:Sophie Scholl, Brief an Lisa Rempiss vom 27. 3. 1941, IfZ.: ED 474 Bd 82】

 なぜゾフィー・ショルはそんなにもフリッツ・ハルトナーゲルとの性的関係に反抗するのかを、推理するのは難しい。かの女は19歳であり、十分に成熟している。かの女は恋人を拒絶しているのでなく、セックスそれ自体を拒絶しているかのように思える。かの女は、アウグスティヌスをお手本にし。そしてかの女の官能的な憧れを克服しようと決心しているように思える。今や、かの女はフリッツにまったく率直に教父の『告白』を読むように提案する。従順に、かれはその本に取り組んだが、しかしその本がかれを魅了したときでも、かれは後日かの女に書いている。「ぼくには理解できない。神が人に肉体を、そしてしかも快楽に満ちた肉体を与えたことが。その結果、人を誘惑へと導き、人を最初から肉体的なものと精神的なものの軋轢のなかに置いている。なんと冷酷な神であることか」【注26:Damit wir uns nicht verlieren.a.a.O., S.299】

 ゾフィー・ショルがフリッツ・ハルトナーゲルにたいしてまったく別の違和感をもっていることは、かの女が1941年4月1日付けのリザ・レムピス宛の書簡から分かる。「わたしにとってフリッツは一般的に、高い知性を有する、重要な友人ではないということを、あなたは知っています。しかしわたしはかれをそれゆえに、そしてわたし自身の心の安寧のために、あっさりと突き放すべきでしょうか?」【注27:Sophie Scholl, Brief an Lisa Remppis vom 1.4.1941, IfZ.:ED 474, Bd.70】

 真実はそれゆえ、ゾフィー・ショルがフリッツ・ハルトナーゲルとの関係を少し恥じているということである。というのは、フリッツは知的なオトル・アイヒャーやオトルの友人たちについていけないから。同時にかの女は、自身がかの女の書簡によってかれに「役立っている」かもしれないと思っている。かれは、かれを大きな葛藤のなかに突き落とすかもしれない道を進んでいると、かの女は考える。というのはその道をかれを内面的に「軍人」から離れさせるからである。「ようするに、フリッツをあっさりと切り捨てることを、わたしは不正義、つまり嫌悪すべき利己主義であるとみなしたいのです」【注28:ebenda】

ゾフィー・ショルがハルトナーゲルとのかの女の友人関係をソーシャルワークであるとする仕方と様式は、かの女のかれへの愛情はそれほど大きくないか、あるいは―おおいにありうることだが―かの女がその愛を自身で(まだ)認めることができないかを示している。

 3月22日にゾフィー・ショルとスザンネ・ヒルツェルは幼稚園教諭としての修了証書を手に入れる。同日、かの女は今や実際に半年間、帝国勤労奉仕に就かねばならず、ようやくその後に大学に進むことができると知る。

 なお、皆は、かの女が芸術家の道を歩むことを期待している。かの女は家族と友人たちを、生物学と哲学を大学で学びたいという決断で驚かせる。しかもハンスと同じくミュンヘンで。フリッツ・ハルトナーゲルはそれを良い考えとし、そしてかの女に、毎月200ライヒスマルクをかの女の口座に振り込むと申し出る。かれはかれの給与を戦争中は実際、使用できないと言う。そしてかれがその申し出でによって、いかなる期待も持っていないことは、確かにおのずから分かってもらえるだろうとも述べる。

 そこでは2人の関係のなかである種の役割交換が起こっている。今や、女友だちについて心配しているのはフリッツ・ハルトナーゲルである。というのは、かれは、勤労奉仕における生活はかの女には辛いということを知っているからである。家族もまた、ショル家のもっとも若い娘であるゾフィーがおそらく、勤労奉仕のなかでうまくやっていくには神経が細やかすぎるのではないかと、心配する。インゲはゾフィーを元気づけることに努めるが、うまくいかない。「かの女にたいして良くあることはしばしば困難です。と言うのは、かの女は最近、あまりにも気力を失っているからです。しかしわたしは知っています。その気力喪失は疲れ切っているせいであることを」【注29:zitiert nach Barbara Beuys, a.a.O., S.269】