カレンダー「道を拓いた女性たち」2024年6月はクラウディア・ジョーンズです | いいかげんにっき

カレンダー「道を拓いた女性たち」2024年6月はクラウディア・ジョーンズです

カレンダー「道を拓いた女性たち」2024年6月はクラウディア・ジョーンズ(1915 –1964)です。やはりはじめて知った女性です。「帝国主義、ファシズムおよび人種主義と闘う女性」との副題がついています。先月に続いてアメリカ合衆国における人種差別について学ぶことができます。
 

 

以下翻訳です。

 

カレンダー 道を拓いた女性たち 2024年6月

Claudia Jones (1915 –1964)

 

 「黒人女性労働者の3重の抑圧は全女性の地位のバロメーターである」とクラウディア・ジョーンズは1949年に書き、そしてそれによって女性、黒人および労働者としての抑圧を考えた。かの女は1915年2月21日にイギリスの植民地、トリニダードで生まれ、そして8歳で両親に従ってアメリカ合衆国に引っ越した。奴隷制度はなるほど公的には廃止されていたが、しかし白人支配は人種分離によって維持されていた。同時に経済の不況が蔓延していた。ジョーンズは貧困な状況のなかで成長し、そしてそのことが慢性的な健康問題をもたらした。かの女は1933年に結核を患った。かの女の母親は1933年に髄膜炎で亡くなった。クラウディア・ジョーンズはそこに3重の抑圧を認識した。「母は本質的にはハーレムにおける汚い洋服工場での長時間労働による消耗で、家族の世話によって、そしてアメリカ合衆国における人種主義との対決によって死んだのです」。1935年には、かの女は2人の白人女性をレイプしたとして死刑判決を受けた黒人の若者たち、つまり「スコッツボロの9人」のために全力を尽くした。同じ時期には、ファシスト・イタリア軍がエジプトに侵入した。それらすべてはその時代の反人種主義運動を特徴づけ、そしてジョーンズをアメリカ合衆国共産党(CPUSA)に導くことになった。CPUSAの分析と政策は、かの女の視点からは、人種主義、帝国主義および人種主義に対する闘いを最良の仕方で結合していた。ジョーンズは理論家として、政治的ジャーナリストとして、ならびに組織者として高く評価された。かの女はCPUSAの日刊紙であるデイリー・ワーカーのために働き、そして1947年には女性委員会の書記長になった。その女性委員会は全女性労働者の解放のための闘いの成功にとって不可欠の黒人女性労働者のために尽力した。そのような活動ゆえに、かの女は1942年以降、FBIによって監視され、そして何度も拘束された。1951年には、かの女は他の16人の女性共産党員とともに、政治的ジャーナリズムによって暴力的な政府転覆を宣伝しているという非難で告発された。その裁判と1955年以降の拘束はかの女の健康状態を悪化させた。かの女は何度か心筋梗塞で苦しんだ。しかしかの女は保釈されてすぐに、イングランドに追放された。かの女の帰化申請はことごとく拒絶された。今、ジョーンズはとりわけカリブ諸島移民のコミュニティを組織した。かの女は雑誌「西インドガゼッテ」および「アフリカ-アジア・カリブ諸島ニュース」の刊行を始め、そして1959年に今日に至るまで延べ数百万人が参加してきたロンドンにおけるカリブ諸島カーニバルを始めた。そのカーニバルは人種主義的暴力を弾劾した。悪化した健康状態にもかかわらず、かの女は1963年にソ連における女性世界会議を訪問し、そしてさらに1964年には水素爆弾と原子爆弾に反対するキャンペーンの枠内で日本と中国を訪問した。同年、かの女は亡くなった。かの女はロンドンのハイゲイト墓地でカール・マスクスの左横に埋葬された。