カレンダー「道を拓いた女性たち」2024年4月はマルガレテ・ヒルファーディンク | いいかげんにっき

カレンダー「道を拓いた女性たち」2024年4月はマルガレテ・ヒルファーディンク

カレンダー「道を拓いた女性たち」2024年4月はマルガレテ・ヒルファーディンク(Margarete Hilferding (1871 –1942)です。やはりはじめて知った女性です。「社会主義者、ユダヤ人、性の自己決定を支持する医者、強制収容所で殺された」との副題がついています。今回のカレンダーもナチスが有能な女性を殺戮したことを伝えます。

 

以下翻訳です。

カレンダー 道を拓いた女性たち 2024年4月

Margarete Hilferding (1871 –1942)

 ドイツではそれは、1871年以降、刑法218条である。それ以来、女性たちは不正行為条文に抗して戦い、そして欲しない妊娠を懐胎するか、否かを自己決定できるように闘った。オーストリアでも女性たちは、制限的な法律は妊娠中絶を阻止せず、ただ困難にし、そして階級問題にしているだけであることを知っていた。女性たちは第144条に抗して戦った。第144条は1852年以降、堕胎の絶対的禁止を定め、そして1974年まで有効であった。その女性たちの1人がマルガレテ・ヒルファーディンクである。かの女はその時代の大論争を体現していた。すなわち女性、ユダヤ人、社会主義者、そしてラディカルに考えるインテリとして。1971年6月20日に、かの女はウィーンにおいてユダヤ人であり、かつ社会民主党員である裕福な家庭で生まれた。父親は開業医であり、母親はオーストリアの女性運動に参加し、そして女性参政権委員会の創設者の1人であった。かの女自身は民衆学校教員の養成機関で教育を受けたが、しかし優秀な卒業成績にもかかわらず、キリスト教-社会主義に主導されたウィーンにおいては、教師として任用されることはなかった。それゆえ、かの女は非正規聴講生として医学部で学び始め、1903年には最初の正規聴講生としてウィーン大学の医学部を修了し、学位を得た。1910年に、かの女はウィーンの第10地区であり、労働者地区であるファヴォリテンにおいて医者となった。それと並行して、学校医、地区の議員として活動し、学術論文を執筆し、女性問題、性行為、産児制限、啓発と教育についての講話や講座を担当した。第1次世界大戦後、かの女は「赤いウィーン」における個人心理学教育相談所の所長になった。1926年には産児制限に関する冊子でかの女は名声をえた。刑法第144条についての論議では、堕胎問題の異論の余地のある自由化が話題とされた。1930年には、かの女はファヴォリテン労働者ホームにおける性改革世界連盟の第4回世界大会において発言した。社会民主党員たち、個人心理学者たち、精神分析者たちの前で、健康保険による避妊具の費用負担や妊娠中絶の刑の免除を求めた。ナチスへの権力移譲および社会民主党およびそのオーストリアにおける組織の解散の年である1934年以降、かの女は秘密裏にアドラーの弟子であるゾフィー・ラツァールスフェルト周辺の個人心理学者グループと出会った。そのゾフィー・ラツァールスフェルトの住まいで、かの女は1934年に初めて逮捕された。第2次世界大戦において、かの女は陸軍病院で働き、そして1941年の9月末までイスラエルの宗教団体の病院で働いた。1942年に、かの女の息子と姉は強制収容所でナチスの犠牲になった。1942年に、その間に高齢化していた社会主義者でユダヤ人女性、つまりマルガレテ・ヒルファーディンクはテレジーエンシュタットからトレブリンカ強制収容所に輸送され、そしてその後すぐに殺害された。あるいは別の資料によれば、すでにそこへの輸送中に殺されたの

かも。