ゾフィー・ショルの伝記、第7章 | いいかげんにっき

ゾフィー・ショルの伝記、第7章

Maren Gottschalk, SCHLUSS. Jetzt werde ich etwas tun. Die Lebensgeschichte der Sophie Scho以外ll. Gulliver in der Verlagsgruppe Beltz – Weinheim Basel, 2021

 

 

 エピローグとプロローグに14の章で構成されたゾフィー・ショルの伝記の、第7章を翻訳しました。ようやく全体の半分を若干超えました。なかなか進みません。しかも粗訳です。

1939年から1940年を扱ったこの第7章では、何といっても始まった世界戦争の端緒が描かれます。とりわけヒトラーの卑劣さが際立ちます。独裁者とはかくあるものとして把握すべきだと思います。ただしドイツ国内では戦争の影があまり見られないようです。例えば。この時期においてはショル家の生活の様子は戦争開始の前後であまり変化はしていないようです(ショル家ではラジオで敵国の報道を聴いていたとのこと。きわめて稀なことだったようです)。とはいえ、戦争はゾフィーには深刻な影響を与えます。何といっても恋人のフリッツ・ハルトナーゲルが兵士(しかも所属中隊の副官)だからです。2人の恋愛は基本的には順調なのですが、戦争に対する考え方をめぐって葛藤もあります。ゾフィーに影響されて、フリッツも反戦的な立場をとるようになります。しかし兵士を辞めることはありません。

ハルトナーゲルの存在にもかかわらず、ゾフィーはドイツの敗戦を望んでいました。ドイツの敗戦によってナチス体制が崩壊すると思っていたからです。しかしその思いが叶うまでにはまだかなり時間がかかりました。そしてその時点ではすでにゾフィーはこの世にいませんでした。

 

 わたしは、あなたに自分を捧げることができない... 1939-1940

 

 戦争がついに始まり、そして人々を目覚めさせたらなというゾフィー・ショルの願いは、確かにそれほど考えもなしに言われただけではない。かの女の兄であるハンスもまた数週間後に、日記に次のように書いた。「わたしたちの完全な希望はその恐ろしい戦争にかかっているのだ!」【注1:Hans Scholl und Sophie Scholl, Briefe und Aufzeichnungen, Frankfurt: Fischer Taschenbuch Verlag 2005, S.259, S.34】戦争がナチス独裁を粉砕するだろうということは、まさに実現される。もっとも望まれたよりはるかに遅れてではあるが。同時にそのような考え方は、2人が戦争の悲惨について実際にはほとんど知らないことを証明している。そのことは、戦間期に成長した18歳の少女と22歳の青年のばあい、それほど驚くようなことではない。

 第2次世界大戦の最初の犠牲者はドイツの強制収容所の囚人たちである。その囚人たちはポーランドの軍服を着せられ、そしてドイツ領内で射殺される。それによってポーランド軍が最初に国境を超えたようにみせかけるために。同じ目的に貢献するのは、SS(親衛隊)によって偽装された、ポーランド国境近く、グライヴィッツのドイツ語ラジオ放送局への襲撃である。1939年8月31日に、若干のポーランド兵のような軍服を着たSS隊員が建物を襲い、放送局の6人のスタッフを射殺し、そしてマイクに向かってポーランド語で挑発的な言葉を吐く。

 1週間前、アドルフ・ヒトラーは小さな集まりのなかで次のように強調していた。「葛藤の解消は適切な宣伝によって行われる。その際、信用できるかどうかはどうでもいい。勝利のなかにこそ正しさはあるのだ」【注2:zitiert nach Johannes Hohlfeld (Hrsg.), Dokumente der Deutschen Politik und Geschichte von 1848 bis zur Gegenward Band 5: Die Zeit der nationalsozialistischen Diktatur, Berlin: Dokumenten Verlag Dr. Herbert Wendler 1953, S.74-81】しかし諸外国は欺かれることはない。9月3日にイギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランドおよびインドがドイツに宣戦布告する。南アフリカとカナダが2,3日後に加わる。

 1914年の第1次世界大戦の勃発時と違い、ドイツ帝国内の雰囲気は熱狂や歓呼からほど遠い。ショル家でも、皆は不安のなかにいる。しかし公然と戦争に反対する発言をする者は逮捕されるか、あるいは国外退去させられる。そして戦闘に参加しようとしない者は、とりわけ危険な襲撃に配置されることを念頭におかねばならない。例えば地雷原あるいはその他のいわゆる決死部隊に。そのようにして政府はなるほど拍手喝さいを強いることはできないが、しかし批判を抑え込むことはできる。そして多くのドイツ人はおまけに、ひとたび戦争になったなら、自らの義務に応じ、そして志願するという考えである。

 ポーランドは早くも1939年9月27日に降伏する。その間にヒトラーはドイツの国境を東に450キロほど移動させる。ポーランドの「下等人間」の絶滅がヒトラーの目標である。帝国内務大臣、ハインリッヒ・ヒムラーは「ドイツ民族性強化のための帝国委員」として治安警察の配置を用意する。治安警察はポーランドの知的上流層(そのなかには教師、医師、法律家と学者、聖職者と政治家、およそ全部で6万人)の組織的殺害に責任がある。

 さらに8万8千人のポーランド人が強制的に内陸部に移され、それによってポーランドの西部地域が「民族的ドイツ人」入植者が土地を得る。ポーランドのユダヤ人、ジンティおよびロマはゲットーに押し込められ、そして大量に殺害される。ドイツの陸軍大佐、ヨハネス・フォン・ブラスコヴィッツは人々の「殺戮」に反対するとの発言をすると、アドルフ・ヒトラーはかれに抗し、「救世軍のやり方」では戦争を指導できないと述べる。フォン・ブラスコヴィッツはそのような批判への罰として西部戦線に配属されることになる。

 ドイツの侵入から2週間後、ソビエト赤軍が東方からポーランドに入り、そしてポーランド国のその部分を併合する。そのことはヒトラーとスターリンの協定において確約されていた。そこでもまたさまざまな戦争犯罪、虐待、追放および殺害が起こる。正確な数は調査困難だった。ソビエト側が史料公開を躊躇していたせいである。その際、長年にわたってカチンの森の大虐殺(1940年3月に何千人ものポーランドの将校が処刑された)の責任は否認されていた。ようやくミハエル・ゴルバチョフが1990年にソ連邦の名で公式に、その責任を認めた。

 フリッツ・ハルトナーゲルは開戦に際し、秘密情報中隊の副官としてシュヴァルツヴァルト(北部のネッカー川支流のナーゴルト川沿い)にあるカルフに配置される。1939年9月3日に、かれはゾフィー・ショルに手紙を書く。かれの中隊は戦争の始まりを今か今かと待っており、そしてそもそも、かれの理論的な戦争についての学校知を今、ついに実践に移すことができるのは、素晴らしいと。そのような言葉は、かれの友、つまりゾフィーには奇異な感じを与える。そしてゾフィーは返事を書く。「わたしには、常に人々が他の人々によって命の危険にさらされるということを理解できません。わたしには理解できません。しかしそれが恐ろしいことであるとは分かります。祖国のためだ、なんて言わないで」【注3:Sophie Scholl, Fritz Hartnagel, Damit wir uns nicht verlieren. Briefwechsel 1937-1943. Frankfurt: Fischer Taschenbuch Verlag 2008, S.102】

 それによってゾフィーはかなり長期にわたる論議へのきっかけを与え、そしてただちにゾフィーは、人を殺すことの意味に関する問いかけによりフリッツを窮地に追いやる。というのは、フリッツは次のように書いているからである。2年前、かれはまだ答えを持っていたが、しかし今では、自分の態度が変わったと感じると。そのことにゾフィーは責任がないわけではないが、しかしフリッツにはまだ、そこから結論を引き出す勇気が欠けているとも。【注7:Sophie Scholl, Fritz Hartnagel, Damit wir uns nicht verlieren. Briefwechsel 1937-1943. Frankfurt: Fischer Taschenbuch Verlag 2008, S.54】【注7:Sophie Scholl, Fritz Hartnagel, Damit wir uns nicht verlieren. Briefwechsel 1937-1943. Frankfurt: Fischer Taschenbuch Verlag 2008, S.54】

 もちろんフリッツ・ハルトナーゲルにとって、その時点で職務を辞することは考えられない。職を辞めても何にもならないだろうし、いずれにせよそうなると隠遁するだろうから。そのことをゾフィー・ショルも知っていて、したがってゾフィーは手紙の最後にはいつも折れ、そして物わかりの良い女友だちになる。かの女は、フリッツもまた大きな危険に遭遇することはないのかどうかを、心配して尋ねる。その時点では、事実として、そのようには思えないのであるが。9月末にフリッツは次のように書いている。フランス人が(ストラスブールの対岸にある今のドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州の都市である)ケール付近でライン川の対岸からドイツ人に手を振り、そして独仏のワイン飲み比べの噂もあった。西部戦線におけるこの平穏な局面は、わずかな小規模の軍事作戦によってあっさりと打ち破られたのだが、今日「椅子取りゲーム」(Sitzkrieg)と呼ばれている。フランスに対する大規模攻勢は悪天候と東方での多くの損失のせいで30回にわたって延期される。

 戦争の始まりとともに、「愛するゾフィー」と「愛するフリッツ」との呼びかけは、しばしば「ぼくの愛するゾフィー」と「わたしの愛するフリッツ」にとってかわる。フリッツ・ハルトナーゲルには家族も友人も身近にはおらず、そしてかれの同僚たちは晩になると酒を飲み、タバコを吸い、そして下品な冗談を語るので、フリッツはしばしば孤独を感じる。したがってゾフィーはフリッツをかの女の日常に参加させる。すなわち最近の庭園における秋の花々、緑地帯へのハイキング、あるいは(19世紀にドイツ北部ブレーメン近郊にできた芸術家村であった)ヴォルプスヴェーデから送られてきたばかりの新しいドレスについて述べる。夏には、フリッツとゾフィーは、グラフィックデザイナーのハインリッヒ・フォゲラーの妻であるマルタ・フォゲラーに伝統衣装を依頼した。その衣装を着ると(スカンジナビア半島北部に位置する)ラップランド出身の少女のように見えるだろうと、ゾフィーはフリッツに書く。

 ウルムにおける生活は普通にさらに続くと思える。ミュンスタープラッツの住宅において、400マルクで大きな本棚が取り付けられる。ロベルト・ショルがかれの娘であるインゲの願いにより、さらにまた新しいグランドピアノを購入したというのは、エリザベート。ショルは噂であるとしている。しかしいずれにせよ、その時期においてもまたショル家で家族コンサートがおこなわれる。ゾフィーにとって、ピアノ演奏はひじょうに重要であり、かの女は日々練習し、そしてひとつのレッスンも逸しない。「今なおバッハを演奏するのが好きなの?」とゾフィーはリザに書簡のなかで問うている。「バッハはわたしにとってますます重要になっています。バッハが最良の教育者であることが分かってきました。バッハ以外の人は夢中にさせ、感情を高揚させます。バッハの場合はしかし演奏についておおいに熟練させ、そして賢くしてくれるに違いありません。その報いは、自身でも明晰となるということです。」【注4:Sophie Scholl, Brief an Lisa Remppis vom 10.2.1940, IfZ: ED 474, Bd.70】

 インゲ・ショルは他のきょうだいたちより、はるかに上手にピアノを演奏すると、妹のエリザベートは回想する。家族が日曜日に音楽演奏のために集まるとき、たいてい友人たちも同席する。しばらく前から、新しいゲストであるオトル・アイヒャーもまた来ている。かれはショル家のきょうだいたちに大きな影響を与える。

 アイヒャーはヴェルナー・ショルと同じクラスに通い、ウルムのゼフトリンゲンに住み、あらゆるナチス組織から距離をとるカトリックの家庭出身である。アイヒャーが、かれの教団の牧師が1939年秋にゲシュタポによって連行されるのを目撃せざるをえなかったときからは、かれはナチスと妥協することを拒絶する。それゆえ、かれは当初、ショル家と親しくすることには躊躇する。ショル家のすべてのきょうだいがヒトラーユーゲントに籍をおいていたことがあり、そしてすべての女子とヴェルナーはまだヒトラーユーゲントに属していることは決して秘密ではない。とはいえヴェルナーは最初からナチス体制にたいしてもっとも距離をとっていた。兄と姉たちはようやく今になって、ある夜ウルム裁判所前の正義の女神像(右図)に鉤十字の旗で目隠しをしたこと、あるいはナチスの集会を爆竹で混乱させることに成功したことを知る。ショル家の最年少であるヴェルナーはまた、きょうだいのなかで唯一映画が好きである。ロベルト・ショルはある映画館経営者をクライアントとしていたので、いつも無料チケットを得る。しかし無料チケットに関心を寄せるのはヴェルナーだけである。「わたしたちすべての姉と兄にとって」と、エリザベート・ショルは回想しているが、「映画館に行くことは無縁なことでした。」【注5:Elisabeth Hartnagel in einem Interview mit der Autorin am 3.2.2011】

 アイヒャーはすぐに、他のきょうだいたちもまたナチスのイデオロギーから距離をとっていることに気づく。それゆえきょうだいたちと、ナチス体制の明白な敵であるアイヒャーの間の友情にもはや支障はない。すなわちオトル・アイヒャーは妥協ができる人ではない。アイヒャーは友だちと一緒に、無鉄砲な登山ツアーをしたり、あるいは夜に暗闇のなかでスキーをしたりする。

 しかしアイヒャーの本来の関心は哲学にある。神学、哲学および歴史の領域における包括的知識は、ショル家のきょうだいたちのアイヒャーへの感嘆を確かなものにする。アイヒャーという新しい友人と共に、きょうだいたちは、ナチス体制の路線にはない著者たちの本を読む。すなわちトマス・マン、バーナード・ショー、シュテファン・ツヴァイク、ヴェルナー・ベルゲングリュンあるいはパウル・クラウデルを。「わたしは敢えて、それらの本が抵抗の最初の兆しになったと言います」【注6:Inge Scholl, zitiert nach: Hermann Vinke. Das kurze Leben der Sophie Scholl. Ⓒ 1987 Ravensburger Buch verlag Otto maier GmbH, Ravensberg, S.64】と、後にインゲ・ショルは考える。ゾフィー・ショルはフリッツ・ハルトナーゲル宛の書簡のなかでアイヒャーについて書いている。「オトルはヴェルナーよりかなり思慮深く、独特で、そして物静かです(好感をもたれやすい人)。かれはしばしば我が家に来ます。」【注7:Sophie Scholl, Fritz Hartnagel, Damit wir uns nicht verlieren. Briefwechsel 1937-1943. Frankfurt: Fischer Taschenbuch Verlag 2008, S.115】

 ウルムにおいて最初の爆弾が落ちるのは、1年後のことであるとはいえ、戦争はその都市の姿をすでに変えている。ゾフィー・ショルの友人であるズザンネの弟、コンラート・ヒルツェルは次のように回想している。「すでに1939年8月30日に、つまり総動員令が告示されたとき、ウルムではかなりの忙しなさが支配的でした。ウルムは軍隊駐屯地であり、そこには12以上の兵舎が存在していました。さらに会社マギルス(マギルスは、消防隊の先駆者であり起業家であるドイツ人のコンラッド・ディートリッヒ・マギルスによって設立されたドイツ、バーデン=ヴュルテンベルク州ウルムに拠点を置く消防用設備と貨物自動車メーカー)はますます軍需工場になったのです」【注8:Konrad Hirzel in einem Telefonat mit Autorin am 25.5.2011】2つの兵舎があるシラー通りの家で、ヒルツェル一家は軍隊の移転を目の当たりにする。ショル家の人々はミュンスタープラッツの住まいからは、なるほど部隊の移送を覗き見ることはなかったが、しかしにもかかわらずしっかりと情報を得ていた。というのはロベルト・ショルが新しいラジオを購入し、そしてそれを用いて外国の放送を聴くことができていたから。そのことをゾフィーは呑気にも兄のハンスに知らせている。そのことは軽率なことだった。というのは「敵の放送」を聴くことは、重罰に処せられるからである。スザンネ・ヒルツェルは後に、ショル家の人々ほど徹底的に外国のラジオ番組を聴いていた家庭はウルムには存在しなかったと語った。

 ウルムでは夏休み修了後2週間で早くも秋休みがまた始まる。いずれにせよ、いくつかの科目は開戦後に休講になった。というのは何人かの教師は召集されたから。ゾフィーは旅行に行きたい。しかしリナ・ショルはそれについて何も聞こうとしない。母親は娘を家事で働かせようとし、洗濯させ、アイロンをかけさせ、そして窓を拭かせる‐大きな住まいには仕事が十分にある。ゾフィーはフリッツに骨の折れる家事について嘆く。もっとも‐姉のエリザベートが今日振り返っているように‐ゾフィーは決して無理な仕事をさせられてはいなかったのであるが。そうはいっても、ゾフィーはフリッツ・ハルトナーゲル宛の手紙の中で自らを慰めた。すなわち演劇やコンサートのシーズンが再び始まり、そしてかの女はときどき一人になる時間をみつけていると。

 フリッツはゾフィーに答える。かれもまた一人でいることを必要とし、したがってかれにとって眠る前の時間が一番好きな時間であると。そしてフリッツはゾフィーに、かれのことばかり考える必要はなく。むしろかれに気を使わないようにと願う。

 恋される男性、あるいは愛する男性はそのように語る。他方では:戦争から帰ってくるのかどうか分からず、したがってまったく私欲なく、女性友だちに、自分にこだわることを求めようとしないのは、前線にいる若い兵士の典型的な言葉である。ゾフィーは、かれと一緒に数日間過ごすことを願っているが、しかしかの女は唯一の人と一緒ではそれほど長期間は耐えることはない、というのは「誰かが何かを求めたら、わたしは、とわたしは信じるが、神経質になってしまうから」と返事を書く【注9:Sophie Scholl, Fritz Hartnagel, Damit wir uns nicht verlieren. Briefwechsel 1937-1943. a.a.O., S.114】ゾフィーの非従属や自律への欲求は、親密さや近しさへの欲求よりも大きい。フリッツの場合は、事情はまったく逆である。そのような不均衡から生じる緊張は2人を書簡交換のなかで何か月にもわたって悩ませ、そして数多くの傷や誤解を引き起こすことになるだろう。

 ゾフィー・ショルとフリッツ・ハルトナーゲルの往復書簡集は2人の深い友情のひじょうに詳しい証言である。トマス・ハルトナーゲルの序文で書いているように、父親死後にその父親の書簡を公表することは、トマス自身と家族にとって難しかった。というのは、フリッツ・ハルトナーゲルはそのことに同意を与えていなかったから。しかし後世の人々にとって、その往復書簡は測りがたいほどの価値をもっている。一方では、その往復書簡は第2次世界大戦の最初の数年における若い兵士と大学入学資格試験合格者である女性の日常への洞察を授けてくれる。2人は互いにオープンに、かつ信頼して親密になっているゆえに、2人の対話は友情と恋愛の心を揺さぶる証言であり、互いに誠実であり、かつ充実した生活へのそれぞれの求めに適おうと努力する2人の思考世界への開かれた扉である。そして他方では、フリッツ・ハルトナーゲルはかれ自身の書簡の公表によってついに、繊細で、考え深い男であることが明らかになる。かれがゾフィー・ショルの書簡を受け取っていた人として、間接的にしか知られていなかった間は、かれの人間性はひじょうに過小評価されていたのだ。

 フリッツ・ハルトナーゲルは11月末以来デュッセルドルフに配備され、そしてゾフィーにケルンへの招待について報告する。かれは詳細に人間その家の娘を描写している。その娘はかれに反感をもたせると同時に、魅了する。というのは、その娘はなるほどひじょうに美しいのだが、しかしかれの好みでいえば化粧が濃すぎて、そして着飾り過ぎているのだ。ゾフィー・ショルはその「描かれたような」少女の逆である。ただし以前ほどは男の子っぽくはない。ゾフィーは再び髪を長くし、かの女の顔は細くなっている。写真に、かの女はひじょうに女性的に反応する。何よりワンピースを着ているときには。たとえかの女が少年のように細身であったにせよ。かの女の顔は黒目勝ちであり、さらにかの女は、豊かな下唇ととりわけ優美に湾曲する上唇のひじょうに美しい口を持っている。ゾフィーのあごのラインはくっきりとしている。そもそもかの女の顔は全体的に明瞭な輪郭を有しているのだ。同じくかの女の人間性もまた、とスザンネ・ヒルツェルは思っているが、「真っすぐで、率直で、そして誠実で、ときに少々皮肉屋で、プライベートな問題では口が堅い」【注10:Susanne Hirzel an Ricarda Huch, zitiert nach Barbara Beuys, Sophie Scholl, Ⓒ 2010 Carl Hanser Verlag München, S.129】そして「わたしを魅了したのは、かの女の素晴らしい無条件性」であった【Ebenda】

 純粋に見た目については、フリッツはゾフィーにとても相応しい。かれの顔つきは特徴的であり、そしてひじょうによい見ためである。かれの両眼は太い眉によって覆われているが、そのことはかれの視線を少々控えめに見せる。しかしかれが笑うと、かれの確かな魅力が現れ、そしてもしかれがそのことを狙うなら、かれは心を射抜く男になりうるだろう。

 アドヴェントの時期(12月1日‐12月24日)2人の書簡のトーンは憧れに満ちたものとなる。1939年のクリスマスにゾフィー・ショルはロウソクと赤いリンゴを小包で、デュッセルドルフにおけるフリッツの兵舎に送る。さらにゾフィー・ショルは1冊の本と自作の絵(輪を潜り抜けるプリンセス)を入れる。フリッツはその贈り物にとても感動する。もっとも、かれはすでにずっと以前からゾフィーの絵画を得ることを願っていたのだけれど。ゾフィーだけが王女を、フリッツが褒めるように、黒っぽくかつフルに情熱的に、しかし同時にひじょうにきゃしゃに描写することができるのである。

 ゾフィーの贈り物用テーブルには、まるで戦争などおこなわれていないかのように多くの贈り物が置かれている。すなわちズボン、上着および長靴からなるスキー用品、さらにいろいろな本、ピアノ用楽譜および書簡用チェスト。

 フリッツとゾフィーは、ゾフィーのアビトゥーアが終わっている3月に一緒にスキー小旅行をすることを計画する。もっともフリッツが、西部戦線での任務ゆえにその頃にもなお休暇を得るかどうか確かではないのだが。ゾフィーは、かの女がその一緒の休日をどんなに願っているのかを認めている。しかしその直後におおいなる不安についても語る。フリッツとの近さは自分を弱くし、その場合はかろうじて少女以外のなにものでもなくてよいと考え、しかしその弱さに屈したくないと告白している。もし屈するようなら、かの女はきっと、ゾフィーとフリッツの2人ともあまり共感していない少女たちからほとんど区別されなくなるだろうとも述べる。

 それゆえ、ゾフィーとフリッツのペアが思いやりの交換のなかで今なお控えめであるように思える。それどころかゾフィー・ショルは、いつか「少女以外のなにものでもなく」ありたいとの自身の願いを恥じているように思える。かの女は1940年1月初めに、フリッツが求めるものを喜んで与えると書いている。しかしその際、かの女は再び、かれに与えることができないのではないのかと不安になるとも書いている。ゾフィーは、他の少女がフリッツにたいして、かの女自身よりも「より従順」であると信じている。ゾフィーはそうしたくないし、そうできない。フリッツはそのことを理解しているのかどうか。

 フリッツ・ハルトナーゲルはしかし混乱する。というのはかれは、かれの女友だち、つまりゾフィーから受けとるシグナルが矛盾しているからである。しばしばかれは、かれ自身がゾフィーのなかでどのような存在なのかが分からない。それに対して、かれは自分自身の気持ちがひじょうによく分かっている。「ぼくがきみに何かすごいことを欲しているとは思わないで。ぼくはきみの傍に座わり。きみの手をぼくの手の中で握り、ぼくの頭をきみの肩に乗せたいだけだ。[…]ぼくはきみの傍で少々くつろぎたいだけだ。」【注12:Sophie Scholl, Fritz Hartnagel, Damit wir uns nicht verlieren. Briefwechsel 1937-1943. a.a.O., S.139】しかしもしゾフィーがかれをもはや必要としないなら、かれはずっと傷ついているだろうと。さらにもしかれがかの女を苦しめているなら、かの女は傍若無人でいるべきだし、そして心底打ち込めることだけをするべきだと。

 1週間後、ゾフィーはフリッツに2月4日のかれの誕生日にかこつけて手紙を書き、そしてかれを宥めようと努める。かれは不明確な事々についてあまり考えすぎるべきでなく、むしろ青空を眺めるべきであるとゾフィーは書いている。その2日後、かの女はかれに自分の気持ちを説明するための時間をとる。自分はいつもいくらか自制的であると、かの女は打ち明けている。かくして、かの女は真っ先に身体的な愛を考えていると思えず、むしろ率直性、心の親密さおよび献身を考えていると思える。しかしフリッツはそのことをようやく、かれが別の少女を知るときに理解するだろうと、ゾフィーは考えている。「わたしはあなたに自分を捧げることはできません。わたしはすでに、あなたが何を考えているかを知っています。あなたは、かの女がそうすべきであるとは考えていません。しかしあなたの心の底では、かの女はそうしなければならないのです。率直であるために」【注13:ebenda, S.142】ゾフィー・ショルは、2人の関係が複雑になっていることを認めている。しかしかの女は、かれに繰り返し警告する以外のことはできない。かの女は、かの女が与える用意のあることより、もっと多くをえるだろうと述べる。しかしフリッツのなかに、いつか「死ぬ」に違いないという気持ちが起こるのではないかとの不安を持っているとも述べる。

 2人の書簡はしばしば行き違ったので、フリッツは当初、ゾフィーはそのテーマについてそれ以上まったく何も言いたくないのだと思っている。そしてフリッツは、かの女が、少女に典型的であるように、本能的に正しく行動していると褒める。しかしそのような定式化は2人の対立をいっそう際立たせる。かの女はかれにすぐに、かの女自身はまさに単なる「少女」でありたくないと説明する(いくらか苛立った返信である)。さらにかの女は、「本能的」という言葉について怒る。その言葉は本来動物界に属し、そして人間のためには、誰かがその理性を信頼していないときにのみ使用される。機嫌を損ねて、かの女は付け加えている。望むらくは、かの女が自身の脳髄を、学校においてだけでなく、考えるために使用していることを疑わないでほしいと。しかし宥和的に、かの女は、すぐにウルムに来てほしいとの願いでその手紙を締めくくっている。

 ひょっとしたら、試みられた多くの説明は実に簡単に次のごとく通分できるかもしれない。すなわち、フリッツ・ハルトナーゲルにとってゾフィー・ショルは「正しい女性」つまり、生涯添い遂げられるとイメージ可能な女性である。しかしその逆は成り立っていない。つまりゾフィーはフリッツに、過度にかの女に拘ることがないよう警告している。

 ついに3か月後、2には3月に再会する。ゾフィー・ショルは(オーストリアの)アルゴイアルプス地域のクラインヴァルザータルにおける2人のスキー休暇のため、筆記試験のアビトゥーアと口頭試験のアビトゥーアの間の数日間学校をさぼる。たとえわたしたちが、その数日間に何が起こったかを知らないとしても、誤解が解け、そして親密さが深まったように思える。その後2人には、手紙の交換に切り替えるのは難しくなる。もっともアビトゥーア自体、試験や評点はそこで総じて影響したわけではない。最小限の努力で、ゾフィー・ショルは「良」の成績を修め、アビトゥーア成績証明書の授与について、かの女は賢明にもひとつのことだけを報告している。かの女の友だちは、ゾフィーは「天から降りて来たばかりのように」見えると考えた。そして「わたしもまたそのように感じました。天国はとても素晴らしかったです。そうじゃないですか」【注14:ebenda, S.153】かの女はフリッツに3つのペナントを送り、そしてかれに3つのお願いを約束する。

 フリッツ・ハルトナーゲルもまた雪のなかで2人で過ごした時間について夢話し、そして大尉がかれに、かれがより開放的かつより人間的になって休暇から戻ってきたと言ったと報告している。次のことはフリッツが気づいていなかったことである。ゾフィー・ショルはその数日間にリザ・レムピス宛の1通の手紙を書いたのである。そこではかの女はフリッツ・ハルトナーゲルとの関係をむしろ冷静に記述している。すなわち、かの女はフリッツに責任があると感じている。というのは、かれは心底かの女に首ったけだから。しかし幸運にも「わたしたちの間には隠し事はまったくありません。かれはわたしにたいしてまったく求めることはないのです。それは素晴らしいことです。わたしはかれにたいし少女の気持ちよりも、母親の気持ちです。かれにはわたし以外に誰もいないのです」【注15:Sophie Scholl, Brief an Lisa Remppis vom 7.3.1940. Zitiert nach Barbara Beuys, Sophie Scholl, Ⓒ 2010 Carl Hanser Verlag München, S.214】

 1940年4月8日に、ゾフィーの幼稚園教員への養成がウルム・ゼフリンゲンの福音派フレーベル専門学校で始まる。その専門学校に、かの女はミュンスタープラッツから毎朝自転車で通う。理論の教育と心理学的諸問題に関する意見交換を、かの女は、かの女自身がリザに手紙で書いているように、「おおいに活気を与えてくれ、そして自分を育ててくれる」と体験する。かの女の熱心さのもう一つの理由は、専門学校の校長、エマ・クレッチマーがナチス体制の信奉者ではないということかもしれない。しかしかの女はナチスとの距離を巧みに隠し、そしてそれによって攻撃されることなく、かつ「見抜かれる」こともない。同じくまさに専門学校に通い始めたズザンネ・ヒルツェルはそのように指摘している。

 ズザンネ・ヒルツェルはゾフィー・ショルがその時点ですでにアドルフ・ヒトラーの徹底的敵対者であると体験している。ゾフィーは「ときどき危険なほど無遠慮に発言し」そして「しばしば自分はかなり安全のなかにいる」と思い込んでいる。【注16:Susanne Hirzel an Ricarda Huch, zitiert nach Barbara Beuys, Sophie Scholl, Ⓒ 2010 Carl Hanser Verlag München, S.131】ラジオでヒトラーの演説が放送されるとき、ゾフィーは示威的に本を開く。しかも禁じられている本を。エマ・クレッチマーはゾフィーに簡単に、その本を脇に置くように求める。しかしゾフィーは聞き流す。専門学校の校長はそのような行動を本来報告しなければならないのだが。ゾフィー・ショルは個性が強く、もはやほぼ反抗的である。ズザンネ・ヒルツェルにとってお手本である。「黒髪で黒目のゾフィーはわたしにとって輝く人です。批判的かつ探るように、かの女は両目でしっかり見つめ、明瞭な頭脳と大胆な判断力の持ち主でした。そのような誰かは貴重な稀な人物でした」【注17:ebenda, S.128】国内の政治状況についての明確なイメージを作ることは困難であった、とズザンネ・ヒルツェルは回想のなかで続けている。いわばプロパガンダの嘘によって「厚化粧」されているから。しかしゾフィーを宥めることはできなかった。単に勇敢なだけでは何も達成できないということを、ゾフィーは分かっていた。同時に賢くないといけないのだと。そうだと、ひょっとしたら、最高位の職に就き、そしてその場合「巨大なナチスのペテンを暴露」【注18:ebenda, S.131】できるかもしれないと、ゾフィーがかの女の友人であるズザンネに語った。

 専門学校の他の同級生たちは、ゾフィー・ショルとどう接するべきかを正しく分かっていない。というのは、ゾフィーは真面目さと距離感を醸し出すから。ゾフィーには、はしゃぐ若い女性たちグループの真ん中で幸せを感じるような軽さは欠けている。その上、レベルの高い本が加わる。そのような本をゾフィーはいつも読むが、しかしズザンネ・ヒルツェルでも読み始めることができない。ズザンネは、かの女の母親がソフィー・ショルのときおりの発言にいかにショックを受けていたかを記憶している。専門学校のある同級生は予言した。「あなたは、ショル家の人々が断頭台に行きつくのを見るでしょう」【注19:ebenda, S.132】

 ゾフィー・ショルはその時期に引き続きかの女のBDM(ドイツ少女同盟)に行く。それは妥協なのか、安易さなのか、あるいは習慣なのか。脱退から起こる結果変不安なのか、あるいはひょっとしてそれどころか偽装なのか。いずれにせよかの女の家族はゲシュタポの目にすでにとまっていた。とはいえ、ゾフィー・ショルが明らかにすでにしばらく前からもはやBDMの内容に忠実でありえなかったという事実は、そのパズルを簡単には解かせない。

 その間にナチスの戦争は引き続き進行する。1940年4月9日にいわゆるヴェーザー演習作戦が始まる。国防軍はデンマークに侵攻し、そしてノルウェーには海側から攻撃する。ドイツ軍の目標は英国にたいする戦争のための良きスターティングポジションを確かにし、そしてスウェーデンの鉄鉱石の妨害を受けない輸送を確保することである。スウェーデンの鉄鉱石は北スウェーデンのキルナから鉄道でノルウェーのナルヴィク港まで運ばれ、そしてそこからドイツに海上輸送される。ともかく、スウェーデンの鉱石はドイツの軍需産業の年間の需要の40%を満たすのである。ノルウェーは当初は抵抗するが、しかし2か月後には降伏する。

 ゾフィー・ショルはスカンジナビア戦争の初日にフリッツ・ハルトナーゲルに、かの女がただ「安易な考え」で、かれのそばにいる時間ははるかに過ぎていると手紙に書いている。その間に、まさに生活の全体が政治に決められ、そして簡単にはそこから逃れられない。かの女とかの女のきょうだいたちは政治的に教育され、そしてそれと対峙しなければならない。とはいえときには、かの女は自分の顔をフリッツの肩に乗せることができたらな、そしてかれのスーツの素材以外の何も感じたくない、というような願望を伝える。

 1か月後、1940年5月10日に、西部戦線への進軍が始まる。そしてフリッツ・ハルトナーゲルにとっても事態は深刻になる。そのいわゆる電撃戦は6週間と3日しか続かないが、しかし多くの犠牲者を出すことになる。すなわち4万6千人のドイツ人と13万5千人以上の連合諸国の人々である。連合諸国の人々とは、ドイツに対した国々の国民であり、それにはフランス人、英国人、オランダ人、ベルギー人、ルクセンブルク人が属している。

 フランスはドイツとの国境を、国防大臣アンドレ・マジノにちなんで名付けられた「マジノ線」に沿ってすでにかなり固めていた。それゆえフリッツも所属している軍団Bは北側からオランダ、ルクセンブルクそしてベルギーを経由してフランスに侵攻する。その一方で、軍団Aは最も固め方の甘い箇所を通る道をアルデンヌ地域に求める。3週間にわたってフリッツからまったく連絡を受けていなかったゾフィー・ショルは突如、かれからのオランダ発の手紙を受け取る。オランダにおける破壊は大きいと、フリッツは書き、さらにドイツの空軍と地上軍もまた大きな損害を回避しなければならないとも書いている。オランダは1940年5月14日のロッテルダムの空襲の後、降伏し、そしてアドルフ・ヒトラーは親衛隊中将のアルツアー・ザイス‐インクヴァルトを帝国全権としてオランダに配置する。

 すでに5月末、フリッツ・ハルトナーゲルは北フランスにいる。かれは多くの悲しい事柄を話さねばならず、そして戦争は人間のなかの醜い側面を暴露すると嘆いている。しかも勝者においても、敗者においても。ゾフィー・ショルはかれに同意する。なるほど、かの女は政治についてそれほど理解していないが、しかし何が正義で、そして何が正義でないのかについての感覚をもっていると、手紙に書いている。というのはその感覚はまさに国籍に無関係に通用するからであるとかの女は伝えている。人々が今お互いに行っている仕打ちについて考えるとき、かの女は泣き叫んでしまいそうだし、そして人類を確かにほとんど地球の皮膚病であるとみなしてしまう、とも書いている。

 戦争はゾフィー・ショルを変える。かの女の気分は陰鬱になり、そして家族はゾフィーを心配する。インゲ・ショルは弟のハンスに、ゾフィーを元気づけるには、大量の楽しさや夏のツバメが必要であるが、それでさえきっとあまり助けにならないだろうと手紙に書いている。しかし家族をそれほどくよくよさせているゾフィーはある目標を立てた。「根本的にはまさにただ、わたしたちが耐えるのかどうか、つまり儲け以外の何も得ようとしない大衆のなかで自制するかどうか次第なのです」【注20:Sophie Scholl, Fritz Hartnagel, Damit wir uns nicht verlieren. Briefwechsel 1937-1943. Frankfurt: Fischer Taschenbuch Verlag 2008, S.176】

 西部戦線における戦争の開始とフリッツ・ハルトナーゲルがその時点より日々おかれる危険の開始とともに、もっと優しくかつもっと共感的にフリッツと接しようとするゾフィーの努力が大きくなる。2人の意見の相違を、かの女は一時棚上げしたいと、ゾフィーはフリッツに書いている。かの女は、自分があまりにも知識がないことを残念に思い、そしてその責任は自分にあるとしている。ゾフィーはそれを変えるには、自分はあまりにも気楽に暮らしてきたと述べる。しかし、今や、かの女は思考のなかでさらにもっとかれの傍にいたいし、かれにしがみついていたい。かの女は傾聴し、そして慰めたいが、討論や警告はしたくない。そして初めてゾフィーはフリッツに、かの女が身につけることができる1枚の写真を願う。たとえフリッツが軍服を着た写真であるとしても。軍服はまさにいつしかフリッツにとって板についたものになっていると、ゾフィーは思う。

 ゾフィー・ショルは、カレーに駐留しているフリッツに靴や毛織物や服地についても尋ねる。それらの品物はドイツ軍に占領された国々においてまだ配給制になっていない(ドイツ自体でも同じである)ゆえに、軍人であるハルトナーゲルは、故郷ですでに不足している多くのものを購入できる。まさにそれはナチス体制の目指すところでもある。敗北した国々は「郷土前線」のために収奪されるべきであるというものである。とはいえ、その種の贈り物を受け取るのは、そもそもゾフィー・ショルやかの女の家族には似合わない。

 1940年7月14日に、ドイツ国防軍はパリを占領する。戦うことなく、フランス人はその愛する首都を、破壊を阻止するために明け渡す。急いで新たに形成されたフランス政府の総理大臣であるフィリペ・ペタンはフランスの降伏を宣言し、そしていわゆるヴィシー政府の元首となる。フランスの北部と西部はドイツ軍に占領され、そして統治され、フランスの南東部がフランスに統治される。

 勝利のパレードがエトワール凱旋門に向かって進んでいるとき、ドイツでは喜びの式典が行われる。教会の鐘がどの都市でも鳴り響き、そして児童・生徒たちはより早く帰宅することが許される。ウルムのフレーベル専門学校の生徒たちにも。たいていの人々は喜び、そして当初は戦争に感激することはなかった人々の多くでさえ歓声に加わる。アドルフ・ヒトラーは人気の絶頂にいる。というのは、かれは「ヴェルサイユの恥辱」を払拭したので。ようするに戦争なんて今にも終わりそうだと、ドイツ人のなかの無邪気な人々は考える。それ以外の人々は、戦争はようやく始まったところだということを知っている。

 勝利の気分は、ゾフィー・ショルとフリッツ・ハルトナーゲルの書簡のなかにまったく感じられない。パリの占領を喜ぶことからはるかに遠いことだが、ゾフィーはフランス人がその都市を放棄してしまったことを批判する。「フランス人がパリを、その都市が有している多くの価値多い芸術作品を顧みることなく、いかなる利益…にならなくても、少なくともいかなる直接的な利益にならなくても、最後の一撃まで守っていたなら、わたしももっともっと感銘を受けたでしょう」【注21:ebenda, S.189】ゾフィーは、そのような考えはかなりの数の人々の耳には冷酷に響くということを知っている。しかしかの女は、「今日ではあまり心優しくあってはならない」と思っている。【注22:ebenda, S.183】

 アビトゥーア資格を持っているゆえに、ゾフィー・ショルとズザンネ・ヒルツェルは2年でなく1年でフレーベル専門学校を卒業できる。しかしそのことは2人に多くを要求する。というのは授業のほかに、一連の実習が加わり、そしてそれにより2人には休みはほとんどないのだ。6月中旬以降、ゾフィーはウルムのある幼稚園で働く。その仕事はなるほどかの女に喜びを与えるが、しかしかの女はまたひじょうに疲れると感じる。というのは、完全に子どもたちに合わせなければならないから。自己批判的に、かの女は生涯を通じて幼稚園教員であることができないと告白している。そのためには、かの女は自身、フリッツ宛の手紙に書いているように、あまりにも「利己的に育てられている」。かの女がそれにより言いたいことはきっと、かの女はいつも他の人々と接し、そして対話できているわけではないということである。かの女は、身を引き、そして心を閉ざす可能性を必要としている。そしてもちろん子どもたちに関わる仕事はそのような可能性を提供しない。

 フリッツ・ハルトナーゲルは、ゾフィーがかれにかの女の問題について語るとき、いつも共感的な傾聴者である。しかしかれは心配している。というのは、かの女が時に一人でいられることがないのを相当に悲しんでいるのを、かれは知っているからである。しかし別の点では、かれはかの女と対立する。かの女があまりに知らないことを、かれは認められない。しかし最後には、2人とも人生(生活、命)についての究極的に同一のこと、つまり真理と正義と善を欲した。フリッツ・ハルトナーゲルは、ほぼ手紙を順番に追跡できるが、ゾフィー・ショルとの対話のなかで反戦家に発展している。「戦争の毎日が際限のない物質的価値やその他の価値を破壊しているのをみるとき、そのような破壊が全人類にとって損出を意味しないのかどうかを問わねばならないよね」【注23:ebenda, S.181】と、かれはパリ占領の直後に手紙に書いている。

 かくして困難なテーマが再び俎上に上った。そして元々、友人であるフリッツに美しいことだけを書くことを決意していたゾフィー・ショルも、考え方を改め、そしてフリッツに痛い思いをさせざるをえなくなる。かの女は、フリッツの職業を考慮すると、若干のことは、かの女が感じているよりもより慎重に書いていると告白し、そしてかの女は、フリッツ自身がそのことを容認していると信じる。しかし、さまざまな物事が内に矛盾を含んでいるからといって、人間として心の中に矛盾を秘めている必要はないと、かの女は続けている。そしてそれからゾフィーはある文章を記述している。その意義を、かの女自身はこの時点ではまったく意識していない。しかしそれは、かの女が2年後に抵抗グループに所属することが、完全に論理的であるように思わせる。すなわち、

 「まごうことなく正義のために我が身を犠牲にする人がほとんどいないところで、正義を勝利させる運命をいったい期待できるのでしょう」【注24:ebenda, S.185】

 それは、ゾフィー・ショルが自分の人生のなかで何かを変えなければならないことを明確に分かった決定的なポイントである。さらにかの女の影響力ある理念はおそらく完全にはかの女の思考のなかにまだ浸透しておらず、それは、なるほど正しく響くが、しかしまだいかなる帰結も引き起こさない命題でしかない。とはいえそのような認識に到達している人は本来もはやそれより後退はできないということは、きわめてはっきりしている。

 しかし正しい考えに相応の行為もまた従わせることは、どれほど難しいかをゾフィー・ショルは次の段落で述べる。さまざまな行為の一部でしか、かの女は自身が正しいと考えることをしていない。そしてかの女がそのことを意識するときいつも、畑の土あるいは一片の樹皮程度の責任しかもたないことを願う。たとえかの女がその願いを恥じているとしても。そのほかに、かの女はフリッツを失望させることを心配する。「わたしは、自身の心の状態を認識しています。そしてわたしはそれを変えるにはあまりにも疲れ、あまりにも腐敗し、あまりにも悪なのです」【注25:S.186】そしてかの女は今や仮面をすでにかなり脱ぎ捨て、本性を表しており、次の文章でもう一歩進んでいます。「この手紙をあなたを混乱させているなら、ごめんなさい。しかしわたしはいつも、わたしの心の状態を示すことはできるわけではないのです。」

ゾフィーは‐当初はおぼろげに、しかしますますより明確に‐、かの女がナチス体制に抗して活動しなければならないこと、それどころか、かの女のベストフレンド(フリッツ・ハルトナーゲル)が逆のことにために闘っているにもかかわらず、戦争に負けるのを願うべきであると認識していた。他方ではまた‐そしてそのことをかの女は同じくほとんど公然と口に出すことはないが―、もし戦争が社会を支配していなかったなら、フリッツから距離をとるだろうと、ゾフィーは明瞭に思っている。ゾフィーがフリッツとかれの兵士という職業にたいして感じている奇妙さはかの女を苦しめる。同時にかの女はフリッツに責任を感じており、そして自らの課題を、かれにとって今まさに支えであることだと思っている。男女間のギクシャクは、戦争の前では些細なことであると、かの女はリザ・レムピスへの手紙に書いている。少女や女性は兵士を「助け」なければならない。「それにより戦争が女たちに少しでも害することがないように。[…]わたしたちはその関係においてまったく無責任ではありません。」【注26:Sophie Scholl, Brief an Lisa Remppis, wahrscheinlich vom juni 1940, IfZ: ED 474, Bd.70】

とはいえゾフィーが自身の課題であるとみなしていることと、率直でありたいという自身の欲求の間の緊張は大きな圧力を生み出す。つまり、かの女が言わねばならないことを言う場合に、ときどき光る厳格さである。その後、再び愛情たっぷりに気遣っていることが分かる前の厳格さのことであるが。かの女は女友だちとしてフリッツに対していることをまだ決して誇ることはできない。というのはかの女は、正直でないことを恥じているからである。

6月28日、かの女はかれに手紙を書く。たとえかれが恐らく女の子らしくないと思ったとしても、かの女は次のように信じていると。つまり思考が最初に来なければならない。というのは感情は人々をしばしば誤謬にしか導かないから。そこからかの女は悲しい結論を引き出す。「一つのことを、わたしはやめる。つまりわたしにとって快適なことを夢見るのは。それは麻痺させる。」【注27:Sophie Scholl, Fritz Hartnagel, Damit wir uns nicht verlieren. Briefwechsel 1937-1943. Frankfurt: Fischer Taschenbuch Verlag 2008, S.190】