今日は実姉の話をしようと思います
尊敬する人の一人は実姉です
長女の姉はすごく頭が良く
手を抜くことが嫌いなタイプ
習い事にも一生懸命
両親からも期待されそれに応える
優等生
成績上位者の名前を廊下に張り出す
珍しい小学校の中で
常に3位以内
そのまま中学・公立進学高校・国立大学
とストレートに進学した
自慢の姉です
5歳から始めたピアノは
色々なコンクールにも出場すると
トロフィーをいただいて帰宅する姉を見て
幼い頃の私は
「コンクールに出ればトロフィーを貰える」
と大きな勘違いをしていました😅
その姉が1つ目の大学を卒業して言いました
「ここまでは言われた通りの人生だった」
「これからは私がやりたいことをする」
「😳😲❓️❗️❓️❗️」
この時、私は始めて姉の意思を知りました
大学を卒業するまで
姉の反抗する姿を見たことがありませんでした
姉曰く
この大学を卒業したのは
自分の意思ではなかった
母は驚いていましたが理解し
父は激怒
そんな父を説得し母は条件を出しました
「1年だけ時間をあげます
来年入学するなら頑張りなさい」
姉は大学在学中に教員免許も取り
教育実習もこなしていました。
教育実習に訪れた中学からは
「非常勤でもいいから来年から来てほしい」
と言われていたのを丁重にお断りしていたので
「もし、受験に失敗したらすぐに働きなさい」
つまり
「採用試験も同時進行しなさい」
私は詳しくないので
それが可能か不可能かは知りません
でも、母は
「それくらいの覚悟で挑みなさい」
ということだったのだと思います。
姉いわく
「大学を4年卒業した1年間、必死だった」
そして姉は、
翌年春
第2の大学生活をスタートさせました
合格発表の日
どの大学にお金を振り込むべきかを相談している母と姉を見て
安堵したことを覚えています
ただ、
自宅浪人(いわゆる宅浪)中の姉が
「やっと英語がわかってきた✨🤩✨」
と言ったことに驚きました
英語の成績はとれていたし
「わかっていなかった」
の意味がわからなかったからです😅
2校目の大学を卒業した姉
私はてっきり就職するものだと思っていました
姉が2校目の大学に在学中に
祖父が亡くなりました
姉が尊敬していた祖父
戦時中に砲弾をうけながらも
間一髪で生き残り
息子達10人を立派に育て上げた
大好きな祖父です
祖父を治してあげたかった
でも
この年齢から医学部を目指すには遅すぎる
私の母は骨盤異形型脊椎側彎症の為
ひどい腰痛持ちで
毎夜私達がマッサージしていました
「医者でないと手術は出来ない」
「でも何か人を癒してあげられないか」
常に考えていた姉は
「オペではなく痛みを和らげる」
ことに興味を持ったようです
私が気が付いたときには
姉はハワイに渡っていました
「ナショナルの資格を取りに行く」
どんな行動力なの❓️❗️😅
母に聞くと
ハワイで通う学校・宿泊先・渡米のための準備
すべて気がついたら姉が済ませていたそうです
「あそこまでだと、もう応援するしかないわ」😅
実に姉らしい☺️☺️☺️
帰国した姉は
自信に満ちていました✨🤩✨
後日、聞くと
「最後の最後は壁が迫ってきた」
「そこまで来たら、ワイキキビーチを散歩よ」
「これからは医学書も読まなくちゃ」
どこまですすのかしら☺️
出産の間際・直後・育児で
私のからだが悲鳴をあげ始めると
姉が「もっと早く言いなさい‼️💢😠💢」
と遠方から飛んできてくれて
頭の先から足の先まで
全身を丁重に癒してくれます
姉の施術後は
自分の尿の色に驚きます😅😅😅
私はこれからも姉を応援していきます
私とは正反対
大好きな姉です☺️