『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』

 

 

 

 

『スティーブ・ジョブズ』

 

 

 

第5回は、2つの映画です。

 

『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』

『スティーブ・ジョブズ』

 

テーマは、イノベーションと起業です。

第二回の『オッペンハイマー』のときにチャップリンの『モダンタイムズ』を紹介しました。

1930年代のベルトコンベアーで物が作られていた時代のお話です。自動車王フォードのことにも触れました。

 

この2つの映画はどちらもある時代の起業家のことを描いています。

 

1930年代の自動車産業が伸びていた時代からこれまで、どのように産業構造が変わったのでしょうか?

起業家のお話を題材にどういうイノベーションがあり、それをどのように起業として結び付け、産業が出来上がっていったのかを見ていきます。

共産党や共産主義運動、反政府活動、平和運動などにしか興味のない方にはまったく面白くない話かもしれません。

でも、あんまり知らない世界を知るのも、よりよい生活や思想形成の役には立つと思います。

 

下の図は産業革命以来の、世界の産業従事者の人口比率です。

 

 

自動車第一号のT型フォードは1908年から1927年まで1500万台以上が生産されました。1930年代は自動車産業が伸びた時期でした。また、製造業の第2次産業とサービス業の第3次産業では従事する労働者の比率が拮抗していた頃です。

それでも農林水産業の第1次産業が圧倒的に多い頃でした。

 

しかし、1950年代を境にサービス産業がすごい勢いで増え、第1次産業は減少していきます。

 

 

日本の労働者人口構成で見るとこんな感じです

その後も第3次産業に携わる人口は増え、2015年段階で70%を越えました。

この図を最後まで覚えておいてください。

 

 

1.映画『ファウンダー』、マクドナルド成功のストーリー

 

『ファウンダー』は2017年7月に劇場公開された映画です。監督はジョン・リー・ハンコック。

 

この映画では、マクドナルドが街のハンバーガーショップからグローバルなハンバーガー・チェーンにどのように展開していったかがわかります。後にこのチェーンのCEOになるレイ・クロックの著書『成功はゴミ箱の中に』が原作です。

 

1954年、レイ・クロックは自分で開発したミルクシェイク用ミキサーを訪問販売していました。

実はマクドナルドのハンバーガーはレイ・クロックが作ったものではないのです。

当時、レイ・クロックのミキサーはまったく売れず、仕事に行き詰まり、妻のエセルに支えられる日々を送っていました。そんなとき、カリフォルニア州サンバーナーディーノのドライブインから、ミキサーの大量注文が来ます。レイは自宅のあるイリノイ州から車で現地へと向かいます。そこは、安価なハンバーガーを効率よく販売している小さな店舗でした。

 

レイは経営者であるリチャード・マクドナルドの案内で店内を見学して、そのハンバーガーと作り方の素晴らしさに驚きます。その夜、弟のモーリス・マクドナルドも交えて食事を取り、兄弟が映画館の経営は失敗したが、事業の合理化を推し進めて、店頭販売を専門にしメニューも単純化した独自のシステムを作り上げていった過程を聞きます。

翌日、レイは兄弟にマクドナルドの全国展開を提案します。以前フランチャイズ化に失敗していた兄弟はレイの提案に難色を示しましたが、熱意に根負けして「経営内容を変更する際には、必ず自分たちの許可を取ること」を条件にフランチャイズ展開を任せます。



レイはイリノイ州デスプレインズにマクドナルド第1号店をオープンさせました。それは地元の資産家たちに自分たちの存在をアピールし、ビジネスに出資してもらうためでした。しかしゴルフや美食にうつつを抜かす富裕層の態度に失望したレイは、自営業者をはじめとする中流層にフランチャイズ店のオーナーにならないかと声を掛けることにします。レイの目論見は的中し、フランチャイズ店が中西部を中心に次々と開店していきました。ビジネスのために全米を飛び回る中、レイはミネソタ州でレストランを経営するロリー・スミスという男性に出会います。また、ロリーの妻ジョーンに一目惚れします。

ハンバーガー・チェーンの事業は日増しに大きくなっていきましたが、次第にレイは資金難に悩まされるようになります。

レイにはマクドナルド兄弟との契約によりフランチャイズ店の利益の1%しか実入りがなかったのです。また、フランチャイズ店のオーナーたちも電気代などのコスト増大に苦しめられていました。レイ・クロックと再婚した妻のジョーンはアイスクリームを粉状ミルクシェイクで代用するアイディアを出します。レイはそのアイデアを採用しましたが、マクドナルド兄弟は偽物のアイスクリームは売らないという理由で却下します。

銀行で融資の交渉をしていたレイは財務コンサルタントのハリー・J・ソネンボーンと知り合います。ソネンボーンはレイに苦境を打開するために経営の抜本的な改革を提案します。土地を買収してフランチャイズ店にリースすることで安定した収入を得るというものでした。レイは新たに不動産会社フランチャイズ・リアルティ社を興して社長兼CEOの座に収まります。マクドナルド兄弟は契約違反だと抗議しますが、レイは別の事業だから干渉は受けないと突っぱねます。

レイは、次第にマクドナルドの経営にも介入していきます。ジョーンの提案した粉状ミルクシェイクの導入を独断で決め、マクドナルド兄弟が契約を理由に撤回を求めても拒否しました。

レイは、不動産会社をマクドナルド・コーポレーションに改名し、トレードマークの黄色のアーチも自分たちのものにしてしまいます。マクドナルド兄弟はレイを追放しようとしますが、すでに大会社の社長となったレイと裁判で争うことは事実上不可能でした。ストレスで倒れたリチャードの病室をレイは見舞い、白紙の小切手を見せ交渉に応じるよう促す。レイはマクドナルド兄弟に経営権と商標の買収金として270万ドルを提示し、さらに企業の利益の1%を払うと約束し、2人はそれに応じました。

マクドナルド兄弟には、すべての始まりとなった自分の店が残されたましが、マクドナルドの店名も黄色のアーチも使用することは許されませんでした。そして、レイが約束した「利益の1%」も反故にされてしまいます。その金額は、現在の貨幣価値で年間1億ドルにものぼったといいいます。

そして、名実ともに会社を手に入れたレイは自らを「マクドナルドの創業者(ファウンダー)」と名乗るようになりました。

 

1990年1月31日、ソ連にマクドナルド第1号店がオープンしました。

何千人ものモスクワ市民がこの新しいバーガーチェーンに押し寄せました。モスクワの中心部プーシキン広場に出来た列は数キロメートルにも及びました。オープン初日最多動員数を記録し、3万人以上の来客となったのです。それまでの最多動員数記録はハンガリーの首都ブダベストの店舗で、9,100人でした。

 

 

ソ連のマクドナルドで働くことは簡単ではありませんでした。オープニングスタッフには、ソ連時代の若者のなかでも限られた超一流しか選ばれなかったのです。つまり、名門大学に通っていて、外国語が使いこなせ、きめ細かいサービス精神をもった学生のみが選ばれました。

これは、冷たく、高慢で、笑顔をみせない、従来までのソ連式のサービスとは明らかに一線を画していました。ソ連時代の人々は、失礼で粗野なサービスに慣れてしまっていたので、マクドナルドの店員の丁寧で太陽のような笑顔にショックを受けます。実際、笑顔でのサービスにお客が居心地の悪さを感じる始末だったので、マクドナルド側が店員に笑顔を減らすように指示したくらいでした。

 

ロシア1号店の長い列はその後数年続きました。モスクワの他の場所にもマクドナルドが出来た後、少しずつ短くなっていったのです。

 

マクドナルドは、商品開発したマクドナルド兄弟ではなく、その店をチェーン化し、そのための資金調達を手掛けたレイ・クロックが事業として成功させました。

商品を開発した人、そのアイデアをビジネス化した人、これまでのイノベーションと起業を見てみると、その二つは必ずしも一致するものではありません。

マクドナルドの場合もそうでした。

 

 

2.外食産業の見本となったマクドナルドのビジネスモデル

 

マクドナルドの公式ホームページには下のような図が今でもアップされています。

 

 

これはレイ・クロックの考えた外食企業としてのマクドナルドの経営理念です。

いまやこの考え方はマクドナルドに限らず多くの外食チェーンが採用しています。

 

 

Q.S.C.+V。

 

ソ連での第一号店の開店でわかりましたが、社会主義・ソ連では縁遠い経営理念であり、経営方針でした。

外食産業は、品質、サービスが大事なのはあたりまえですが、チェーン店になるとどの店も清潔感が重要になります。

 

 

レイ・クロックは、マクドナルドでハンバーガーを売っているのではなく、Q.S.C.を売っているのだと言っていました。

1870年代はカール・マルクスが商品は使用価値が本質だと考えていましたが、商品が多様化し、サービスが商品になる時代には「商品」そのものの考え方も変わってきたのです。

 

 

そして、マクドナルドは、優れたQ.S.C.に加え、低価格で価値のあるハンバーガーをどこでも同じ品質で売るビジネスモデルをつくることによって事業を成功させました。

 

だから、マクドナルドは商品を開発したマクドナルド兄弟ではなく、ファウンダー(創設者)はレイ・クロックなのです。

 

マクドナルドのビジネスの成功は、人類の産業構造を変えていくことに大きく貢献したとも言えます。

 

 

3.映画『スティーブ・ジョブズ』、天才イノベーターの挫折

 

『スティーブ・ジョブズ』(原題: Jobs)は、1971年から2011年までのスティーブ・ジョブズを描いた映画です。

2013年に公開されました。

監督はジョシュア・マイケル・スターン、脚本はマット・ホワイトレイです。アシュトン・カッチャーがスティーブ・ジョブズを、ジョシュ・ギャッドがApple Computer共同設立者のスティーブ・ウォズニアックを演じました。

『スティーブ・ジョブズ』はこんなストーリーです。

 

映画は2001年のアップル社で行われた「タウンホール・ミーティング」から始まります。

スティーブ・ジョブズは、壇上に上がると、アップル社スタッフ達のスタンディングオベーションで迎え入れられます。
壇上でスティーブ・ジョブズは、こう言います。

 

「それは、ハートのためのツールだ。そして、誰かのハートに触れることができれば、可能性は無限になる。自分で言うのも何だけど、めちゃくちゃクールだ。1台の音楽プレーヤー、それで1,000曲もの音楽がポケットに入る。それでは、紹介しよう。iPodだ」

 

そして、ポケットからiPodを取り出して、iPodを手にして見せます。

 

 

この映画はスティーブ・ジョブズのこれまで辿った道を振りかえります。

ジョブズ(ファーストネームがウォズニアックと同じなのでセカンドネームで呼びます)は、リーズ大学で成績が優秀だったため、ある教授に声をかけられ、成長分野の電子工学の授業を受けるよう勧められます。
しかし、ジョブズは「親の金を使って、学位を取って、平凡な技術者になりたくはありません」と言い、退学することにします。

その時、ジョブズはふと、木の下でカリグラフィー(西洋書道)授業の課題で絵を描いている女性に目を留めました。ジョブズは、彼女の魅力的な絵を見て、そのカリグラフィーの授業だけ受けました。

パラディーノは「問題は何者として生まれたかではなく、与えられた時間をどう生きるかだ。死を迎える時は決まっている。人生は心の平安。命の完成を目指す旅」と語りました。この言葉は、ジョブズの心を大きく動かしました。ジョブズは、その言葉を胸にインドに旅に出ました。ジョブズはそこでダニエル・コトキーと出会い、一緒に放浪の旅をしました。そこで「できる限りシンプルに生きよ。人生なんて、どんなに単純で幸せかに驚くだろう」と言う言葉に、また、ジョブズは大きな影響を受けたのでした。

旅から帰ったジョブズは、ビデオゲーム会社のATARI社で働きました。

しかし、ジョブズは他の社員の制作したゲームがつまらないと、直ぐにその社員を罵倒しました。彼はあまり風呂に入らないので体臭などで、他の社員から苦情が出ていました。ある日、上司から「協調性を学べ。君は優秀。抜群だ。でも、最低な奴だ」と注意されました。しかし、ジョブズは「ちゃんとした物を作りたいだけだ」と主張し、「変わらなければダメだ」と言う上司に、自分だけでゲームを作らせてくれと進言しました。

ジョブズはその上司にあるゲームを作り直すことを命じられ、それができれば5000ドル払うと言われます。

ジョブズは友人のスティーブ・ウォズニアック(通称:ウォズ)に協力を求め、ゲームを改良しました。ジョブズはウォズの家で彼が製作途中のコンピュータに目が留めます。そのコンピュータは、天才・ウォズが創っただけあって、見たこともないすばらしい物でした。

 

 

1976年、ジョブズはウォズと大手ヒューレットパッカード社に売り込みに行きましたが、相手にされませんでした。ジョブズとウォズはスタンフォード大学でのホームブリュー・コンピュータ・クラブでこの製品を「Apple-I」と名付け、プレゼンしました。ジョブズはここで知り合った、ポール・テレルというバイドショップの店主の協力でウォズと一緒に会社を興しました。

1980年、その製品の成功でApple社がIPO(株式公開)を果たしました。

しかし、冷遇されたジョブズの古くからの友人・ダニエルはApple社を出ていき、ジョブズは、Lisa・プロジェクトから外されました。
 

しかし、Lisaから外されたジョブズは、Macintosh(マッキントッシュ)・チームに入り、1984年、画期的なパソコン「Macintosh」を完成させました。

 

 

ジョブズは「Macintosh」を完成させ、誰でも手に入れられる廉価で売ろうと考えていましたが、アーサー・ロックら役員たちに反対されました。

ジョブズは自分が起業した会社でしたが、社長にはできないと周りから説得されていました。役員たちの反論を一通り聞くと、当時のペプシコーラの社長でマーケティングの天才“ジョン・スカリー”をCEOとして迎え入れたいと言い出し、ジョン・スカリーと直談判して、Apple社のCEOとして迎え入れることに成功しました。

 

しかし、その「Macintosh」の価格をめぐり、ジョブズはスカリー社長と対立し、責任はスカリー社長にあると指さしました。ウォズもジョブズにApple社を辞めたことを告げます。

ウォズは「お前に見えてるのは、もうみんなじゃない。見えてるのは製品だ。…お前自身がお前の世界のすべてだ。とても小さくて、とても恐ろしい、それも孤独にちがいない。…お前の思い通りにはならないんだよ。少なくとも長くは続かない。…いい結末は待ってない。俺はそれを傍で見ていたくはない」と言い、去って行きました。

そして、1985年5月末、役員会でスカリーと対立し、誰も味方がいなくなったジョブズはApple社を追われるように辞めました。

 

 

ジョブズが辞めたApple社の市場価値は下落していき、業績は悪化しました。

1993年6月、スカリー社長はその責任をとり、辞職しました。

新CEOとなったギル・アメリオは、Apple社の大改革を宣言し、その頃、ジョブズは自身でNEXTという会社を起業し、パソコンを作っていたジョブズにApple社に戻って来て欲しいと説得しました。その頃のApple社の業績はジョブズに言わせれば、最低でした。

 

その後、ジョブズはApple社にCEOとして復帰しました。

ジョブズはこう言いました。

「大人になると、こんなことを言われる。世の中は変えられない。人生とはその中で暮らすことで、飛びだそうとして、壁にぶつかってはいけない。でも、それは狭い人生の考え方。人生はもっとずっと広がる。ただ簡単な事実を発見すればいい。…過った考えを振り払い、人生は決まっていて、ただその中で生きるしかないなんてことはない。人生を変えろ。もっといいものに」

そして役員を新体制を一新しました。

新CEOのジョブズは、CMは“Think different”という広告をつくりました。

 

 

「クレージーな者たちへ。はみ出し者、反逆者、厄介者と呼ばれる人たち。四角い穴に丸い杭を打ちこむ者、物事を違った目で見る者。彼らはルールが嫌いだ。彼らは現状を認めない。彼らの言葉に心をうたれる人がいる。反対する人も、賞賛する人も、けなす人もいる。しかし、彼らを無視することは誰にもできない。なぜなら、全てを変えるから。彼らは人類を前進させるからだ。ただクレージーだと言う人がいるが、我々には天才に見える。世界を変えられると信じている。クレージーな彼らこそが、世界を変えられるから」

2012年9月、Apple社は株式時価総額で世界一となりました。その陰にはジョブズを筆頭に、ジョブズがApple社を起業したときのメンバーたちのクレージーとも見える情熱があったのです。

 

 
 
4.Appleのビジネスモデル
 
AppleがiPodを発売したのは2001年です。
第三次産業の人口は、5割を超え、7割に迫っている時代でした。
 
 
2007年にAppleは、iPhoneを発売し、その後、世界のネットと携帯端末の使い方を変えました。
Appleはiphone以外にも多くのサービスを提供しています。
 
Appleのビジネスモデル
 
Appleのビジネスモデルは、製品とサービスに大きく分類されます。

Appleの製品は、iPhoneなどのモノとしての商品のことです。
サービスとは、Appleミュージックなどのサブスクサービスなどの無形の商品を指します。

Appleのビジネスモデルを支える大きな柱は、製品群であるiPhoneです。しかし、iPhoneの売上は全体の52%を占めているものの、iPhoneの売上はピーク時から減少しました。
 
 


その後、Appleは製品群の中でもiPhoneに頼らないテックアクセサリやウェアラブルデバイスで売上を大きく伸ばしています。

サービス群においては、利益率が非常に高いサブスクサービスやデジタルコンテンツ等を持っています。
 
Appleの製品

Appleの製品は、以下のAppleラインが主流です。

iPhone
iPad
Mac
また、ウェアラブルのApple Watch、AIスピーカーのHomePod、アクセサリーデバイスのAirPodsが2019年のAppleの収益の10%を占めています。

Appleのオペレーティングシステム

Appleの製品は、すべてAppleのオペレーティングシステムで動いています。

iOS
macOS
watchOS
tvOS

このApple独自のオペレーションシステムが、デバイスへの縛り、アップル製品ライン縛りを生み出し、リピーター率の向上を生み出します。

事実、AirdropなどApple製品同士でしか使えない機能等が存在し、デバイス間の親和性の高さから、スマホがiPhoneならPCはmacというようなAppleびいきに発展していくのです。

Appleのサービス

Appleのサービス群では、次の商品が主流です。

デジタルコンテンツとサービス(Apple musicなど)

iCloud
Apple Care
Apple Pay
Appleのサービス群の収益は、近年大幅に成長しており、2019年には全収益の18%にまで登ります。

中でも興味深いのが、サービスの利益率の高さです。
 


利益率でみると、iPhone等のデバイス系製品よりも高く、Appleが物売りからプラットフォームビジネスへシフトしてきていることがわかります。
 
この規模の大きさはアメリカのGDPを考えると明らかです。

2019年のアメリカのGDPは21兆ドル強であり、Appleの時価総額は同年1月で3兆ドルです。つまり、アメリカ経済の生産の6%をAppleが代表しているということです。
 


Apple以外のテックジャイアントであるGoogleとAmazonも同時に考えると、2019年時点でアメリカのGDPの15%に相当します。

プラットフォーム事業へのシフト
 
1870年代に衣服や紅茶などが製品の主流だった資本主義の時代と異なり、現代はプラットフォーム事業が市場を支配しているといえます。
 

 
 
そして、ChatGPTなどのAIを組み込んだビジネスモデルが今後の主流となると見られており、Appleがその主役のひとつになれるかどうかが課題です。
 
 
AppleはiPhoneなどのモノとしての製品を作っているという意味では第二次産業ですが、デジタルコンテンツやサブスクサービスなどでは第三次産業とも言えます。
 
 
また、Appleは、FacebookやXなどのSNSのビジネスやAmazonのECコマースと異なる事業を展開しているため、個人情報の保護に力を入れているというアピールをしています。
また、人道支援や環境保護の活動もしています。
 
 
巨大企業は市場の圧倒的な支配力を持ちますが、それらの企業が人道支援、個人情報や環境保護に大きな影響を持つこともできます。
 
産業革命によって生まれた資本主義経済システムは、その生まれたころとはまったく形を変えています。
Appleの手掛けているアップルストアには、多くの起業家がアプリ制作で参加し、マルクス流に言うと資本家が資本家を呼ぶ経済を活性化させています。
 
Appleは日本でも多くの雇用を生み、起業も育成しています。
 
 
そしてこの起業家たちによる技術開発(イノベーション)が社会の発展を促進させています。
生産手段の社会化、国有化こそ社会の矛盾を解決すると革命を起こして失敗した社会とはまったく違うユートピアをめざしているのです。