マルクスは資本主義システムを商品から分析し、その経済学を批判した。
そして、その批判は階級構造の転覆こそ問題を解決することだと結論づけた。
革命後に起きた現実は問題の解決にはならなかった。
そして体制は逆戻りした。
マルクスの分析、設定した仮説が間違っていたのだろうか?
それとも実験のやり方がまずかったのだろうか?
この問題を考えたい。
体制が逆戻りするなかで、資本主義の本質を問い直した経済学者もいる。
コルナイ・ヤーノシュをはじめとする東欧の経済を体験した経済学者だ。
マルクスがイギリスの労働者階級の状態を見て、資本主義システムを批判したように、東欧の労働者階級を見て、ヤーノシュは社会主義経済システムを批判している。
『資本論』を読むより、価値があると思うヤーノシュの本がある。
マルクスは哲学、政治学、経済学を刷新していった。
いや、そのように思える時代もあった。
もしマルクスが間違っていたとしたらそれは何だったのか?
最後にそれを考えたい。
1.社会主義経済システムはどうして生産力を伸ばせないのか?
1970~1990年頃までソ連、ハンガリー、ポーランドなど社会主義国は一人当たりGDPがほとんど増えていなかった。
これはどうしてなのか?
東欧の社会主義国では製品やサービスのイノベーションが生まれず、商品不足が恒常的だった。
それがどうしてなのかは別の回で解説するが、社会主義経済がそうなってしまうのは経験的にわかっている。
ソ連・東欧の社会主義体制が崩壊した様々な要因があるが、政治的には共産党による一党独裁体制がある。ソ連だとノメンクラツゥーラという国家の特権階級の官僚の存在と共産党による任免の恣意性がある。
社会主義は生産手段の私的所有を廃し、階級をなくし不平等を無くすことを理想としていた。
しかし、実際は資本家階級が共産党の指導部とノメンクラツゥーラに入れ替わっただけであった。
たしかに、資本主義経済体制での貧富の差ほど極端なものではなかったので、経済的不平等は是正されたといえるかもしれない。
けれど経済成長はできなくなった。
最近、マルクス研究者の斎藤幸平などが脱成長を主張している。しかし、実際に社会主義国のほとんどが、脱成長を唱えなくても経済成長できていなかった。
斎藤幸平はその事実をどう考えているのだろうか?
いや、考えていないのかもしれない。
それは、日本共産党がマルクスの『資本論』をもとに未来社会を語るのに似ている。
その思考を陳腐だと切り捨てられないのは、柄谷行人なども同じようなことを言っているからだ。
近著『力と交換様式』のなかで、柄谷行人は、贈与と返礼の互酬の社会を、高次元で回復したものを「D」と呼び、その到来を予言している。
原始共産主義の高次元での実現ということだ。
知識人だけでなく故・坂本龍一もそのアイデアをリスペクトする曲を作ったりしている。
人間にとって、ユートピア的世界を夢想するのは仕方ないことなのだろう。
そのように人間の脳の思考様式ができているのだと思う。
ここではないどこか。
そういう世界がきっとあると信じている。
経済学を一通り批判した最後には、マルクスの「抽象的労働」概念の批判とその裏にある思想の批判、そしてこの人間の避けがたい「ユートピア思考」批判に戻ることになると思う。
2.体制移行直後に経済が後退するのはなぜか?
経済学批判は、けっして社会主義経済学の批判だけにとどまらない。
それは資本主義システムの新たな批判になるかもしれない。
その鍵のひとつが、1991年頃のソ連・東欧諸国の体制移行、つまり社会主義から雪崩のように資本主義システムに移行した数年間は経済が落ち込んでいることだ。
ここに、経済の需要と供給のバランスの問題、体制移行による産業構造の転換の問題がある。
その後、資本主義経済システムのなかで東欧諸国は急激な経済成長を遂げる。
物資は豊かになり、スーパーに商品が欠乏することが少なくなった。
体制移行前の経済、移行後の経済の停滞、ここに経済学の本質的な答えが潜んでいる。
上の図ではポーランドの成長の変化、ロシアの経済の後退とその後の成長が分かる。
これは、ほかの東欧諸国に共通のことなのだ。
こんなことが起きる法則がある。
これはなぜだろうか?
3.資本主義経済システムをどのようにコントロールできるのか?
人類は二度の世界大戦を経験した。
一度目のときには、マルクスの予言が違う形で実現した。
マルクスは社会体制の発展系として共産主義を描いていたが、レーニンが描いた帝国主義段階の資本主義の弱い環を破って後進国ロシアで革命が起きた。
しかし、その革命は周辺に波及しなかった。
というよりドイツを始め革命はことごとく弾圧された。
トロツキーが描いた永続革命、世界革命は起きなかった。
しかし、その後、民族主義的なイデオロギーに基づくファシズムが起き、二度目の世界大戦になった。
そのとき、需要の創出によって恐慌を避ける方法などを考えたケインズや、大戦後の経済復興を考えたマーシャルなどの経済学により、マルクス経済学を必要としなくなった。
一方で、社会主義国家のもとで軍事支出を最大限に創出できたソ連が東欧を支配し、その世界では別の経済学が支配した。
資本主義システムは、自由競争のもとで過当競争に悩まされる。
また、競争力のある企業が市場を独占する傾向も常にある。
そこで公共支出と独占や不正競争の法規制が時代に合わせて行われている。
資本主義システムはコントロールが必要な経済システムである。
資本主義の本質が何であり、どういうコントロールを行う必要があるのかを問う。
それは経済学の問題である。
4.マルクスはどこで間違ったのか?
これは難題だ。
ぼんやりと仮説的に思うのは、哲学の疎外論から経済学としての商品論に向かう当たりではないかと思う。
マルクスに最も不足していたのは、人間の欲望に関する哲学的、心理学的考察なのではないかと思う。
計画経済のアイデアを出したのはマルクスであるが、計画経済で人間の欲望をコントロールできると思ったのだろう。
生産手段の私的所有を廃するという経済的自由の放棄によって、結局、その経済を維持するために思想や表現の自由も奪うことになった。
マルクスには自由競争vs計画経済という安易な設計図しかなかった。
それは生産と消費を支える「欲望」について考えがあまりにも浅かったのだろう。
また、商品が交換されるメカニズムの裏にある倫理観に偏りがあったのではないかと思う。
マルクスは商品が交換される、価格が付けられる根拠を抽象的労働と考え、そこに投入される労働時間の問題を重視した。
労働時間が同じならそこに費やされる労働の価値、商品の価値も同じと考えた。
それはあまりにも現実を無視している。
マルクスにとって、「能力に応じて」の能力や「必要に応じて」の必要の欲望についてあまりにもナイーブだったのだろう。
また、最近現代貨幣理論で、貨幣を商品と考えることに異論が出されている。貨幣は商品ではなく、証文であると。
社会主義経済を批判的に振り返ると、市場と貨幣は経済システムのなかで重要なものだ。マルクスもMMTも間違っていると思うが、その分析も必要だろう。
さらに、マルクスが予言したように社会主義社会で国家は消滅するどころか、その兆しすら見せなかった。むしろ国家としては強大になった。
国家、市場、貨幣。
マルクスは階級闘争の歴史として唯物史観を描いたが、それはただのあとづけの物語に過ぎなかったのではないか。
革命のための経済学、革命のための歴史学の創出だったのではないか。
今となってはマルクスがどこで間違ったのかを問うのはあまり意味がないのかもしれない。
社会主義を経験した経済学者は社会主義に批判的であるが、そうでない経済学者はむしろ資本主義に否定的であるとヤーノシュは言っている。
それは、国民も同じだろう。
社会主義を経験した国民は社会主義に批判的であるが、そうでない国民はむしろ資本主義に否定的である傾向ということだ。
マルクスの著書を読んで、ここではないどこかがあると思う人がいる。
そういうひとは、ここを決して悪くない場所だとは思わず、なんでもかんでも否定的に見える。
マルクス主義のことを語っているのに、それでは今の保守の政権党はいいのかという論点そらしを行う。そうするのがあたかも当然のことだと思っている。
まあ、そういう人たちは放っておくしかない。
経済学・哲学批判を始めよう。