1.所ジョージをカッコいいと思うこと

 

昨日、日本テレビ系列の放送局で、『47都道府県“我が地元の顔”を表彰!! 県民スター栄誉賞』という番組を放映していた。

47都道府県の地元民が最も地元に貢献した“地元スター”を選ぶという番組だ。

 

その番組で埼玉県の栄誉賞は、所ジョージが選ばれていた。

所ジョージは番組のMCでもあったので、やらせ感が満載ぎみの番組でもあったのだが、それは大きな問題ではない。

そのなかのエピソードで視聴者が口を揃えて、所ジョージのことを「カッコいい」と言っていたのだ。

 

それは所ジョージがSNSに載せたラジオ番組のこのメッセージらしい。

 

「カミさんが病気になっちゃったら
 俺、死んじゃうわ
 だったら俺が病気になった方がいい
 俺が病気になったときは
 俺でよかったと思うよ
 病気になって俺が残念じゃなくて
 俺が病気でよかった
 家族じゃなくて
 そう思うよ
 よく代われるものなら代わりたい
 とか言うじゃん 
 代われるときに代われよこの野郎って思う
 ゴミ出しに行けお前がと
 代われんだから
 ウキウキするんだよ俺
 ゴミ出しているときなんかに
 うちのお姫様たちは今寝ておりますと
 私が全部ゴミ出しますよ」

 

「カッコいい」のは、このなかの「カミさんが病気になったら代わりたい」というフレーズだ。

 

これを「カッコいい」と思うのは、二つの軸での生まれる行為に対するその人たちの「身代わりになれるか」という判断なのだと思う。

 

例えば、縦軸を「愛している」とし、上に行くほど愛している度が高いとしよう。

横軸には「痛み」の程度をとして、右に行くほど痛みが激しいものとしよう。

 

 

病気は、痛みの程度が激しいもので、それを身代わりになれるというのはなかなかいない。

それはその家族のことを相当「愛している」からだとも言える。

相当痛いものを代替できるということなのでそれは「カッコいい」と思うのだろう。

それはあまりできることではない、つまり「非凡」だからだろう。

 

でも、家族の痛みが切り傷くらいで、バンドエイドでも貼っていたら十分というものなら、代わってもいいという人も多いだろう。

私でもできる、と思う。つまり、平凡なのだろう。

 

しかし、これが切り傷くらいで、愛してもいないひとの身代わりになれるというのはどうだろう。

街の募金活動みたいなもので、「ご苦労様」という感じではないだろうか。

 

でも、病気の人がまったくの他人であまり愛してもいない人の身代わりになれるという人がいらたどうだろうか?

これはあり得ない行為で、誰もが「神さま」だと思うだろう。

 

本当に「カッコいい」と思わないといけないのはこういうのではないだろうか?

つまり「神さま的行為」。

 

これは、「私」と「愛する家族の誰か」という関係だが、これが第三者を許すことが出来るかどうかと言う問題になると難しい。

 

 

2.家族を死に追いやった加害者を許せるか?

 

 

先日、TBSの「報道特集」で池袋暴走事故から5年を迎える報道があった。

 妻と娘を失った被害者の夫がその辛い感情を乗り越え、加害者の家族と面会した。

これまで加害者家族は被害者と向き合えなかったが、この日、対面して直接謝罪した。

 

加害者の高齢の父親は「上級国民」などとSNSで批判されていた人物だ。今も刑務所にいる。

その人物も今は心から謝罪している。

死にたい気持ちがあるが死ねず、楽しいことをしていはいけないと刑務所で日々の生活を送っているそうだ。

明るい色のネクタイや服はすべて捨てた、と。

加害者の家族も楽しい、明るいことをしていはいけないと思っている。

そういう気持ちを加害者の家族は被害者の夫に告げた。

 

被害者の夫は、非業の事故で家族を失った無念から逃れられず、加害者やその家族への恨みの気持ちから逃れられなかった。

その気持ちを被害者の夫は、交通事故抑止の活動のエネルギーに変換して活動したり、被害者家族の「あいの会」で癒やしたりしていた。 

 

また、加害者家族はネットで加害者と同じように誹謗・中傷を受けていた。

被害者の夫は以前からそのことについて世間に防止を求めていた。

 

加害者とその家族の謝罪を知り、被害者の夫はその家族と握手をして、謝罪を受け入れ、許すことを述べた。

 

 

家族を死に追いやった加害者を許せるかどうか?

これもまた難しい問題だろう。

 

このことについて、先と同じように横軸に「痛み」を取るとする。

縦軸には「相手の謝罪」を取って考える。

というのは、京都府の亀岡でのひき逃げ事件では、地裁判決に加害少年の量刑が不当である(軽い)と遺族が控訴を求めたのに対して、逆に少年側は量刑が不当である(重い)と判決を不服とし控訴したことがった。

加害者に謝罪の気持ちがないと思われ、被害者は許せないと思ったからだ。

 

 

渋谷の事件の場合も、四分割で考えるとこの図のようになるのではないか?

「報道特集」の被害者の夫のように相手の強い謝罪を受け入れて、家族の死という「たいしたこと」より相手の気持ちを受け入れるというのは誰でもできることではない。

非凡なことだ。

 

これが当て逃げでかすり傷程度のことで、相手が強く謝罪していればまあ誰も受け入れる。

平凡なことだろう。

 

当て逃げがかすり傷程度のことで、謝罪があまりない場合に許すのは、慈善活動的なものだろう。

 

でも、これが相手が謝罪しておらず、許すとうことは神さま的な行為だろう。

亀岡の事故の件では、ほとんどの人が許せないと思うだろう。

 

 

3.カンタン・メイヤスーの『亡霊のジレンマ』

 

親友の非業の死について、「亡霊」という概念で神の存在を考えた哲学者がいる。

 

フランスのカンタン・メイヤスーだ。

メイヤスーは思弁的唯物論を主張する哲学者だ。

 

メイヤスーに『亡霊のジレンマ』という著書がある。

 

ここで、メイヤスーは非業の死、若すぎる死を遂げた親友がいたと仮定して考える。

 

無神論の自分は神さまなしにこの友を弔うことができるのだろうか?

 

本のタイトルにもなっている「亡霊のジレンマ」とは何か?

 

それをメイヤスーは考える。


亡霊とは何か。それは、我々が弔うことのなかった死者、我々に取り憑き、苦しみを与え、悲願への渡ることを拒む死者たちのことだ。・・・・・

真の亡霊、それは非業の死者たちである。早すぎる死、凄惨な死、子供の死、そして自分の子供たちが同じく死にゆく運命にあることを知りながら死んでゆく親たちをの死等々。自然死にせよ、事故や殺人の場合にせよ、死を被った人々それを免れた人々も受け入れることができなかった死。・・・・・

真の亡霊の喪の実現を、真の喪と呼ぼう。・・・・・・真の喪の実現とは、真の亡霊と共に死ぬことではなく、彼らと共に生きることー彼らに耳を貸し、生霊となるのではなく、亡霊に生を与えることーを意味することになる。こうして次の問いが提起される。真の喪は可能であるか。そしてもし可能なら、それはいかなる条件においてか、と。・・・・

私は自分自身については最悪、無神論者であり得る、つまり自分の不死を信じずにいることもできる。だが、亡霊たちに対して無神論者であることは、決して受け入れられない。なぜなら、過去の無数の亡霊に対してはいかなる正義も不可能であるという考えは、私を根底から覆し、その結果、私はもはや生者に身を捧げることが出来なくなってしまうから。・・・

無神論と宗教、この二つが真の亡霊の喪に対峙した際に生じるアポリア的な二者択一を、亡霊のジレンマと呼ぼう。このアポリア的な択一において、人は、神なき生の不条理と、究極の悪を放置し生み出すことを愛と呼ぶ神の神秘ー真の喪の実現の二重の挫折ーの間を揺れ動く。これと反対に、宗教的でも無神論的でもなく、そしてまさにそのことによってこの択一に固有の二重の絶望ー死者への正義を信じることに絶望するか、正義なき神を絶望的に信じるかーから脱するに至るであろう立場を、亡霊のジレンマの解消と呼ぼう。こうして、真の喪の可能性についての我々の問いは次のように提起し直されることになる。いかなる条件において、亡霊のジレンマの解消は望み得るのか。無神論と宗教という二重の行き詰まりから抜け出すような生者と死者のつながりを、いかに思考すべきか、と。

ジレンマを解消することは、死者の復活可能性、と神が現実存在しないこととを結びつける言明をしこう可能とすることに帰着する。その言明とは、

神はまだ存在しない。
 

 

 

 

思弁的唯物論とは、この名称自身が矛盾している。

 

しかし、メイヤスーは自分が今無神論者であるのは、「神はまだ存在しない」からなのである、と結論づけるのだ。

 

神は存在する。

しかし、まだ、今、存在しないだけなのだ、と。

 

だから、人々は神に祈る。

そうやって弔う。

 

渋谷の交通事故では加害者が謝罪した。

亀岡の事件で被害者家族は加害者を許せなかった。

 

そのときに家族は死者をどうやって弔うのか?

 

 

所ジョージを「カッコいい」と思う感情はどうしてなのか?

それがわかったら、それはそれでいい。


カッコいいけど、神さま的行為ではない。

 

最後に、無神論者のパトラとソクラは、非業の死者の弔いについて「亡霊」とともに考えるのです。